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不運からの最強男  作者: フクフク
魔術学校編
207/207

アーベル家の至宝_01


 朝の空気が、いつもと違っていた。

 アーベル家の朝は静かだ。

 規律が行き渡り、迷いはなく、忠誠がそこにある。

 けれど今朝は、侍女たちの足音が、ほんの少しだけ早かった。

 盆を運ぶ手の角度も、扉を閉じる音も、どこか張り詰めている。

 普段通りを装ってはいたが、空気はわずかに浮き立っていた。

 もう、周知されたらしい。


 ──今朝、俺の部屋に訪れたのは、侍女長アンナと、その後ろに控える侍女二人だった。

 ドアが閉まるよりも早く、壁際から声が響いた。


「お前たちは、朝を整える者か」


 何気ない一言だった。

 あっ、しまった。

 ゼレムには、むやみに声を出さないよう言っておくべきだった。

 気づいた時には、もう遅かった。

 ひとりの侍女が壁を見て、思わず声を漏らす。


「えっ……誰の声、いま……?」


 もうひとりは息を呑み、足を止めて壁を見つめていた。

 アンナは一切動じず、黒い剣に向けて浅く一礼をすると、いつもの所作で朝の支度を始める。

 水差しを揃えながら、振り返らずに言った。


「無駄口は控えて、仕事をなさい」


 声色は変わらず、いつも通り。

 ふたりの侍女はぴたりと反応し、声をそろえて返す。


「「はい。アンナさん」」


 それ以降、ゼレムの声に触れることもなく、定められた手順へと戻っていった。

 退室する直前、アンナは俺の前で足を止め、静かに告げた。


「ご報告いたします、ジークベルト様」


 ですよね。

 俺は素直に、それに応じたのだった──。


 朝食の席に着く頃には、父上の耳にも届いているのがわかった。

 食器の音が止み、父上の声が静かに響いた。


「アンナから報告を受けている。ヴィリバルトがあとで来る。説明はその時に聞こう」

「はい、父上」

「お父様、私も同席してもよろしいですか?」


 マリー姉様が柔らかく問いかける。

 父上は一拍だけ思案し、静かにうなずいた。


「うむ。いいだろう。だが、私が呼んだあとだ」

「承知しました」


 マリー姉様は、満面の笑みで目元を輝かせ、ナプキンをそっと畳んだ。

 その動作は、とても自然で、けれどどこか、楽しみにしているようにも見えた。

 まあ、仕方ないよね。

 兄さんたちが留守だったことが、幸いしたな。

 そして、隣から、強い視線を感じた。

 声はない。手も動いていない。

 ただ、その瞳だけが俺を見ていた。

 ディアーナだ。

 伏せたまつげの奥で、金色の瞳が静かに揺れている。

 責めるでもなく、問うでもなく。

 けれどその視線には、知っていたかったという微かな痛みが滲んでいた。

 ごめん、ディアーナ。

 夜明け前のことだったから、伝える時間がなかったんだ。

 あとで、ちゃんとフォローしよう。


 部屋へ戻る廊下を歩いていると、前方からとぼとぼとした足音が聞こえてきた。

 壁に軽く頭をぶつけながら、目元をごしごしとこすっている人物がいる。

 シルビアだった。

 寝癖がひと房、見事に跳ねている。

 肩にかけたケープも逆向きで、靴は片方だけ紐がほどけていた。


「……まだ、眠いのじゃ」


 自分に言い聞かせるような声で、シルビアはぼそぼそとつぶやいている。


「ヴィリバルトめ、人使いが荒いのじゃ。妾がちょっと聞き耳を立ててた、だけじゃのに……」


 その歩幅は小さく、目元はほとんど閉じたまま。


「ヘルプ機能から、新たな仲間が増えたとの情報をもらったのじゃ。行かねばならん!」


 でも、口だけはやたらと達者だった。

 えっ、あれ回収するの?


《ご主人様以外、回収できる者はいませんが》


 ヘルプ機能が、無慈悲なほど真っ直ぐに正論を突きつけてくる。

 まあ、たしかに。俺が拾うしかないんだけど……。


「……む?」


 ふいに立ち止まったシルビアが、目をしょぼつかせながらこちらを見る。


「そこにおるのは、ジークベルト! 助かったのじゃ!」

「シルビア、廊下でそんな声出したら、アンナに叱られるよ」

「むう、それはいやじゃ……」


 シルビアはきょろきょろと周囲を見渡して、侍女の気配がないことを確認すると、肩をゆるめてほっと息を吐いた。


「よかったのじゃ。ところで、おぬしに会えるとは。妾は、つかれ果てたのじゃ。連れていけ」


 ぱっと両手を広げて立つ姿は、神獣らしき威厳ゼロで、ただの甘えた子供に見える。


「……妾の尊厳はどうしたんだ?」

「足が疲れたから、妾の尊厳はお休みなのじゃ」


 仕方ないと思いつつ、逆さまのケープを直し、片方だけほどけた靴紐を結び直してやる。

 それから、お姫様だっこで抱き上げると、シルビアは腕の中で、小さく、ふにゃりと息を吐いた。


「ぐふっ。これぞ、妾の正しき帰還のかたちなのじゃ」


 俺は苦笑いしながら、そのまま足早に部屋へと戻った。

 部屋に入ると、すでに先客がいた。

 どうやら、スラがスニを呼び出したようで、セラが付き添っていた。

 スニはスラと一緒にセラの膝に座っていて、その横にはハクもぴったりとくっついていた。

 セラは椅子に腰かけて、穏やかな声でゼレムと語らっていた。


「ゼレムちゃんは、博識ですね」

「むすめ、そなたも、なかなかのものだ」


 そんな会話が聞こえてきた瞬間、腕の中のシルビアがびくりと動いた。


「由々しき問題じゃ!」


 そう叫ぶと、俺の腕から勢いよく飛び出し、ばたばたと床を駆けてゼレムの前に躍り出る。

 寝癖はそのまま、けれど神獣らしき勢いだけは全力だった。


「シルビアちゃん、おはよう」


 セラの声は穏やかで、笑みに優しさが滲んでいた。

 スラとスニを膝に乗せたまま、小さく首をかしげて、シルビアに微笑む。


「今朝も元気ですね。寝癖が、今日もひときわ見事です」


 シルビアはふいっと顔をそむけながら、頭の寝癖を片手で隠そうとした。


「妾は神獣じゃ。寝癖など、気にせぬのじゃ……」


 ゼレムが、静かに言葉を添える。


「そなたは……喧しい神獣だな」

「喧しいとはなんじゃ! 妾は妾じゃ! 唯一無二なのじゃ!」


 シルビアはケープの裾をばさりと広げて、仁王立ちした。


「黒い剣よ、そなた、妾とキャラがかぶっておるのじゃ!」


 セラは、笑いを堪えながらゼレムに視線を向ける。


「ゼレムちゃん、どうですか? シルビアちゃんは?」


 ゼレムは、ほとんど間を空けずに答えた。


「騒々しいが、嫌いではない」


 それは、たぶん、ゼレムなりの最大限の称賛だ。


「じゃあ、ゼレムちゃん、好きってことですね?」


 セラは笑みを含ませながら、さらりと軽い追い打ちをかける。

 ゼレムは、なにも言わなかった。けれど、否定もしなかった。

 その様子を察して、セラがクスッと笑う。


「では、私はこれで失礼しますね」


 セラはスラとスニを腕に収めながら、椅子を静かに押し戻して立ち上がった。


「ジーク様も、勝手に部屋に入りまして、申し訳ありませんでした」


 そう言って、スラを俺の肩にそっと乗せる。


「ピッ!〈主、セラ、わるくない!〉」

「ポッ!〈主、スラがスニをよんだ!〉」


 スラとスニは、ぶるんと青と黄の体を揺らして、精一杯セラを擁護する。


「わかっているから、大丈夫だよ」


 俺は軽く微笑んで、肩のスラに目をやり、セラの腕にいるスニをなでた。


「お姉様とのお勉強の時間ですので」


 セラは静かに一礼すると、廊下へと歩いていった。

 一方ハクは、仁王立ちのまま真剣に叫んでいるシルビアの相手をしていた。


「妾の立ち位置を確保せねばならぬのじゃ!」

〈どういう立ち位置?〉


 ハクの的確すぎるツッコミに、シルビアは口を開いたものの、言葉が出てこない。


「むう……それはのう……」


 眉を寄せながら悩むシルビアのそばで、ハクはじっと待っている。

 その静けさを破るように、扉が控えめに音を立てた。


「どうぞ」


 俺が返すと、開いた扉の先に、ディアーナが立っていた。

 朝食を終えたばかりの姿で、凛とした佇まいを崩さず、一礼を添えた。

 その後ろからエマが続く。

 目元にわずかな緊張を浮かべながら、ぴたりと背に付き従い、部屋へ入る。

 ディアーナは俺の顔を見て、丁寧に礼を取った。


「ジークベルト様、突然のお時間をいただき、ありがとうございます」

「うん、大丈夫。僕もちゃんと紹介したかったし」

「紹介ですか?」


 ディアーナが小さく問い返しながら、部屋の奥へと目を向ける。

 その視線の先、座卓には、俺の黒い剣が置かれていた。


「うん、こちらにどうぞ」


 俺は部屋の中央、座卓の前までふたりを導いた。

 その時、座卓のそばで、ハクの質問攻めに答えきれずにもぞもぞしていたシルビアが、これ幸いとばかりに声を上げる。


「なんじゃ、小娘も黒い剣に挨拶しにきたのかえ」


 唐突な茶々に、ディアーナが小さく目を瞬かせた。


「えっ?」


 驚きよりも、意外さが勝った反応だった。

 ディアーナとエマの目線が、俺の剣へと吸い寄せられる。

 いつもなら見慣れているはずの黒い剣。

 けれど、今の空気の中では、それが異質に映ったようだった。


「そうなんだ。彼はゼレム」


 そう俺が名を告げると、鍔の深紅が明滅した。


「我はゼレム。そなたたちも……喧しい者か?」


 一瞬の静けさを挟んで、ディアーナがゆっくりと答えた。


「……いいえ、静寂を乱すつもりはありません」


 その声には、礼節と判断の狭間で揺れた思考が、わずかに滲んでいた。

 すぐ隣で、エマが勢いよく頭を下げる。


「いえっ! 騒がしくないつもりです! たぶん!」


 間髪入れずに言い切ったものの、語尾が不安定すぎて、自分で自爆したのがわかったらしい。

 その場に数秒の沈黙が生まれる。

 ゼレムは答えず、ただ鍔の深紅が、ほんの僅かに脈打った。

 エマがぽかんと剣を見て、顔を上げる。

 そして、ようやく脳が追いついたように言葉が漏れた。


「……えっ? 今、黒い剣がしゃべりましたよね? ええーっ!?」


 完全に口があんぐりと開いている。

 隣でディアーナが静かに目元だけ動かして、気配でエマを制した。

 ハクはエマを見つめながら、軽く尻尾を揺らす。


「ガウ……(エマ、シルビアよりは喧しくない……たぶん)」


 シルビアがハクの言葉に反応して、声を張り上げた。


「妾が喧しいとは失敬な! 妾は神獣なのじゃ!」


 ゼレムは沈黙していた。


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