アーベル家の至宝_01
朝の空気が、いつもと違っていた。
アーベル家の朝は静かだ。
規律が行き渡り、迷いはなく、忠誠がそこにある。
けれど今朝は、侍女たちの足音が、ほんの少しだけ早かった。
盆を運ぶ手の角度も、扉を閉じる音も、どこか張り詰めている。
普段通りを装ってはいたが、空気はわずかに浮き立っていた。
もう、周知されたらしい。
──今朝、俺の部屋に訪れたのは、侍女長アンナと、その後ろに控える侍女二人だった。
ドアが閉まるよりも早く、壁際から声が響いた。
「お前たちは、朝を整える者か」
何気ない一言だった。
あっ、しまった。
ゼレムには、むやみに声を出さないよう言っておくべきだった。
気づいた時には、もう遅かった。
ひとりの侍女が壁を見て、思わず声を漏らす。
「えっ……誰の声、いま……?」
もうひとりは息を呑み、足を止めて壁を見つめていた。
アンナは一切動じず、黒い剣に向けて浅く一礼をすると、いつもの所作で朝の支度を始める。
水差しを揃えながら、振り返らずに言った。
「無駄口は控えて、仕事をなさい」
声色は変わらず、いつも通り。
ふたりの侍女はぴたりと反応し、声をそろえて返す。
「「はい。アンナさん」」
それ以降、ゼレムの声に触れることもなく、定められた手順へと戻っていった。
退室する直前、アンナは俺の前で足を止め、静かに告げた。
「ご報告いたします、ジークベルト様」
ですよね。
俺は素直に、それに応じたのだった──。
朝食の席に着く頃には、父上の耳にも届いているのがわかった。
食器の音が止み、父上の声が静かに響いた。
「アンナから報告を受けている。ヴィリバルトがあとで来る。説明はその時に聞こう」
「はい、父上」
「お父様、私も同席してもよろしいですか?」
マリー姉様が柔らかく問いかける。
父上は一拍だけ思案し、静かにうなずいた。
「うむ。いいだろう。だが、私が呼んだあとだ」
「承知しました」
マリー姉様は、満面の笑みで目元を輝かせ、ナプキンをそっと畳んだ。
その動作は、とても自然で、けれどどこか、楽しみにしているようにも見えた。
まあ、仕方ないよね。
兄さんたちが留守だったことが、幸いしたな。
そして、隣から、強い視線を感じた。
声はない。手も動いていない。
ただ、その瞳だけが俺を見ていた。
ディアーナだ。
伏せたまつげの奥で、金色の瞳が静かに揺れている。
責めるでもなく、問うでもなく。
けれどその視線には、知っていたかったという微かな痛みが滲んでいた。
ごめん、ディアーナ。
夜明け前のことだったから、伝える時間がなかったんだ。
あとで、ちゃんとフォローしよう。
部屋へ戻る廊下を歩いていると、前方からとぼとぼとした足音が聞こえてきた。
壁に軽く頭をぶつけながら、目元をごしごしとこすっている人物がいる。
シルビアだった。
寝癖がひと房、見事に跳ねている。
肩にかけたケープも逆向きで、靴は片方だけ紐がほどけていた。
「……まだ、眠いのじゃ」
自分に言い聞かせるような声で、シルビアはぼそぼそとつぶやいている。
「ヴィリバルトめ、人使いが荒いのじゃ。妾がちょっと聞き耳を立ててた、だけじゃのに……」
その歩幅は小さく、目元はほとんど閉じたまま。
「ヘルプ機能から、新たな仲間が増えたとの情報をもらったのじゃ。行かねばならん!」
でも、口だけはやたらと達者だった。
えっ、あれ回収するの?
《ご主人様以外、回収できる者はいませんが》
ヘルプ機能が、無慈悲なほど真っ直ぐに正論を突きつけてくる。
まあ、たしかに。俺が拾うしかないんだけど……。
「……む?」
ふいに立ち止まったシルビアが、目をしょぼつかせながらこちらを見る。
「そこにおるのは、ジークベルト! 助かったのじゃ!」
「シルビア、廊下でそんな声出したら、アンナに叱られるよ」
「むう、それはいやじゃ……」
シルビアはきょろきょろと周囲を見渡して、侍女の気配がないことを確認すると、肩をゆるめてほっと息を吐いた。
「よかったのじゃ。ところで、おぬしに会えるとは。妾は、つかれ果てたのじゃ。連れていけ」
ぱっと両手を広げて立つ姿は、神獣らしき威厳ゼロで、ただの甘えた子供に見える。
「……妾の尊厳はどうしたんだ?」
「足が疲れたから、妾の尊厳はお休みなのじゃ」
仕方ないと思いつつ、逆さまのケープを直し、片方だけほどけた靴紐を結び直してやる。
それから、お姫様だっこで抱き上げると、シルビアは腕の中で、小さく、ふにゃりと息を吐いた。
「ぐふっ。これぞ、妾の正しき帰還のかたちなのじゃ」
俺は苦笑いしながら、そのまま足早に部屋へと戻った。
部屋に入ると、すでに先客がいた。
どうやら、スラがスニを呼び出したようで、セラが付き添っていた。
スニはスラと一緒にセラの膝に座っていて、その横にはハクもぴったりとくっついていた。
セラは椅子に腰かけて、穏やかな声でゼレムと語らっていた。
「ゼレムちゃんは、博識ですね」
「むすめ、そなたも、なかなかのものだ」
そんな会話が聞こえてきた瞬間、腕の中のシルビアがびくりと動いた。
「由々しき問題じゃ!」
そう叫ぶと、俺の腕から勢いよく飛び出し、ばたばたと床を駆けてゼレムの前に躍り出る。
寝癖はそのまま、けれど神獣らしき勢いだけは全力だった。
「シルビアちゃん、おはよう」
セラの声は穏やかで、笑みに優しさが滲んでいた。
スラとスニを膝に乗せたまま、小さく首をかしげて、シルビアに微笑む。
「今朝も元気ですね。寝癖が、今日もひときわ見事です」
シルビアはふいっと顔をそむけながら、頭の寝癖を片手で隠そうとした。
「妾は神獣じゃ。寝癖など、気にせぬのじゃ……」
ゼレムが、静かに言葉を添える。
「そなたは……喧しい神獣だな」
「喧しいとはなんじゃ! 妾は妾じゃ! 唯一無二なのじゃ!」
シルビアはケープの裾をばさりと広げて、仁王立ちした。
「黒い剣よ、そなた、妾とキャラがかぶっておるのじゃ!」
セラは、笑いを堪えながらゼレムに視線を向ける。
「ゼレムちゃん、どうですか? シルビアちゃんは?」
ゼレムは、ほとんど間を空けずに答えた。
「騒々しいが、嫌いではない」
それは、たぶん、ゼレムなりの最大限の称賛だ。
「じゃあ、ゼレムちゃん、好きってことですね?」
セラは笑みを含ませながら、さらりと軽い追い打ちをかける。
ゼレムは、なにも言わなかった。けれど、否定もしなかった。
その様子を察して、セラがクスッと笑う。
「では、私はこれで失礼しますね」
セラはスラとスニを腕に収めながら、椅子を静かに押し戻して立ち上がった。
「ジーク様も、勝手に部屋に入りまして、申し訳ありませんでした」
そう言って、スラを俺の肩にそっと乗せる。
「ピッ!〈主、セラ、わるくない!〉」
「ポッ!〈主、スラがスニをよんだ!〉」
スラとスニは、ぶるんと青と黄の体を揺らして、精一杯セラを擁護する。
「わかっているから、大丈夫だよ」
俺は軽く微笑んで、肩のスラに目をやり、セラの腕にいるスニをなでた。
「お姉様とのお勉強の時間ですので」
セラは静かに一礼すると、廊下へと歩いていった。
一方ハクは、仁王立ちのまま真剣に叫んでいるシルビアの相手をしていた。
「妾の立ち位置を確保せねばならぬのじゃ!」
〈どういう立ち位置?〉
ハクの的確すぎるツッコミに、シルビアは口を開いたものの、言葉が出てこない。
「むう……それはのう……」
眉を寄せながら悩むシルビアのそばで、ハクはじっと待っている。
その静けさを破るように、扉が控えめに音を立てた。
「どうぞ」
俺が返すと、開いた扉の先に、ディアーナが立っていた。
朝食を終えたばかりの姿で、凛とした佇まいを崩さず、一礼を添えた。
その後ろからエマが続く。
目元にわずかな緊張を浮かべながら、ぴたりと背に付き従い、部屋へ入る。
ディアーナは俺の顔を見て、丁寧に礼を取った。
「ジークベルト様、突然のお時間をいただき、ありがとうございます」
「うん、大丈夫。僕もちゃんと紹介したかったし」
「紹介ですか?」
ディアーナが小さく問い返しながら、部屋の奥へと目を向ける。
その視線の先、座卓には、俺の黒い剣が置かれていた。
「うん、こちらにどうぞ」
俺は部屋の中央、座卓の前までふたりを導いた。
その時、座卓のそばで、ハクの質問攻めに答えきれずにもぞもぞしていたシルビアが、これ幸いとばかりに声を上げる。
「なんじゃ、小娘も黒い剣に挨拶しにきたのかえ」
唐突な茶々に、ディアーナが小さく目を瞬かせた。
「えっ?」
驚きよりも、意外さが勝った反応だった。
ディアーナとエマの目線が、俺の剣へと吸い寄せられる。
いつもなら見慣れているはずの黒い剣。
けれど、今の空気の中では、それが異質に映ったようだった。
「そうなんだ。彼はゼレム」
そう俺が名を告げると、鍔の深紅が明滅した。
「我はゼレム。そなたたちも……喧しい者か?」
一瞬の静けさを挟んで、ディアーナがゆっくりと答えた。
「……いいえ、静寂を乱すつもりはありません」
その声には、礼節と判断の狭間で揺れた思考が、わずかに滲んでいた。
すぐ隣で、エマが勢いよく頭を下げる。
「いえっ! 騒がしくないつもりです! たぶん!」
間髪入れずに言い切ったものの、語尾が不安定すぎて、自分で自爆したのがわかったらしい。
その場に数秒の沈黙が生まれる。
ゼレムは答えず、ただ鍔の深紅が、ほんの僅かに脈打った。
エマがぽかんと剣を見て、顔を上げる。
そして、ようやく脳が追いついたように言葉が漏れた。
「……えっ? 今、黒い剣がしゃべりましたよね? ええーっ!?」
完全に口があんぐりと開いている。
隣でディアーナが静かに目元だけ動かして、気配でエマを制した。
ハクはエマを見つめながら、軽く尻尾を揺らす。
「ガウ……(エマ、シルビアよりは喧しくない……たぶん)」
シルビアがハクの言葉に反応して、声を張り上げた。
「妾が喧しいとは失敬な! 妾は神獣なのじゃ!」
ゼレムは沈黙していた。