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不運からの最強男  作者: フクフク
魔術学校編
206/208

黒い剣の秘密

「また……あの夢か」


 夢の中で聞こえた声が、目覚めたあとも胸の奥に残っていた。

 俺はゆっくりと上体を起こす。

 隣で眠っていたはずのスラが、俺の気配に反応して、シーツの上でわずかに揺れた。

 ぷるんとした輪郭がもぞりと震えて、小さくつぶやく。


〈主、また聞こえた?〉

「うん、でも心配はいらないよ」


 俺はスラにそっと手を伸ばす。

 指先に、柔らかなぷにっとした感触が伝わる。

 スラはぴくりと身を震わせ、すこしだけ体を傾けるように手のひらへ寄ってきた。


〈なら、よかった〉


 指先でスラの頭のあたりを一度だけなでると、部屋の奥でお気に入りのソファで寝ていたハクが、ゆっくり瞳を開いた。


〈夢。大丈夫?〉

「うん、大丈夫だよ。まだ、早いから、休んでていいよ」


 ハクは目を伏せ、大きくあくびをした。

 そのままソファに身を沈め、前足を重ねると、ゆっくりとまぶたを閉じる。

 部屋には、静けさが戻っていた。

 スラの柔らかな寝息、ハクの穏やかな気配。

 それらを感じながら、俺はふと視線を壁際へと向ける。


 鞘に収まった黒い剣が静かに鎮座していた。


 あの日、保管庫で剣が鞘を得てから、もう数週間が経っている。

 黒い塊から光が放たれ、霧の糸が剣に絡みついて鞘ができた。

 そして、夢と同じあの声が聞こえた。

 それから毎夜のように、夢の中で、男が俺に語りかけてくる。

 言葉はいつも違う。耳に届いていたはずなのに、目覚める頃にはもう霞んでいる。

 けれど、その気配だけは、なぜか消えず残っていた。

 ただ、今夜の夢は、これまでと違っていた。


 ──いつもは遠くに立っていた男が、今夜はわずかに距離を詰めていた。


 闇の中の輪郭は、まだぼんやりとしている。

 けれど、肌の張り方、骨格の重み、視線の角度。

 すべてが、昨日よりはっきりと浮かび上がって見えた。

 そして、声も鮮明に響いた。


「そろそろ、聞こえるはずだ。名を授ける覚悟があるなら、な」


 問いではなく、予告のような、確信に満ちた声音だった。

 俺の胸に、言葉がじんわりと落ちる。


「……名を授ける? 俺が?」


 思わず口にしたその問いに、男がわずかに反応した。

 眉間がぴくりと動いた気がする。

 輪郭はまだ曖昧なのに、表情の変化だけははっきりと読み取れた。

 でも、少しだけ息を詰めたような空気が伝わってくる。


「聞こえた、か」


 低く、つぶやくような声。

 威圧感のある気配はそのままに。

 けれど、その目元が、どこか優しげだった。

 男の気配は、その一言を残して、静かに薄れていった。

 胸の奥に、声の余韻だけが残っている──。

 気づけば、再び俺の視線は、壁際に鎮座する黒い剣へと向かっていた。


「どう考えても……原因は、あの剣だよな」


 俺は、スラを起こさないように、そっと足を床へ下ろした。

 床は冷たく、夜の空気が肌をなでるようだった。

 窓の向こうでは、空がまだ深く暗い。

 東の端だけが、わずかに薄く、光を滲ませている。

 夜が明けるまで、あと少し、そんな時間帯だ。

 音を立てぬよう注意しながら、俺は静かに壁際へと歩を進める。

 黒い剣の前で、そっと足を止めた。

 いつもと同じ位置に、鞘ごと収まっているはずなのに、今夜はなぜか、その輪郭が妙に濃く見えた。

 夢の中の男の気配が、今、この剣から漂っている。

 存在の圧が、はっきりと感じ取れた。

 俺は、一歩だけ剣に近づいた。

 鞘に触れたわけでもないのに、手のひらの中心が、かすかに熱を帯びる。


「名が欲しいんだね」


 剣は、なにも答えない。

 だけど、その沈黙が、否定ではないことだけは、わかった。

 俺は、少しだけ息を吐いてから、言葉を続ける。


「ゼレムって名前は、どうだろう?」


 その瞬間だった。

 剣の柄、鍔の部分に赤い光が、ぽつりと浮かび上がった。

 なにもなかったはずの場所に、たしかに現れていたそれは、脈を打つように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。

 ただの光ではない。

 意思のようなものが、そこに宿っている気がした。

 名に応えた証なのか、それとも、目覚めの兆しか。

 俺は息を潜め、剣の前でじっとその光を見つめていた。


 静まり返った室内で、空気がわずかに揺れる。

 ソファの方から、布が擦れる音がした。

 ハクが身を起こし、赤い光に目を向けていた。

 その瞳が、わずかに細められている。


〈黒い剣から、気配を感じる〉


 その声は、いつもより低く、どこか警戒しているようだった。

 俺は剣から目を離さず、短く答える。


「ゼレムって、言ってみただけだよ」


 ハクは鼻を鳴らし、俺の隣に腰を下ろす。

 鍔の光は、俺たちの声に反応するように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。


〈前の気配と違う。これ……生きてる〉


 ハクの尾が揺れる。

 威嚇ではない。距離を測るような、慎重な動きだった。

 その指摘に、俺の胸がわずかにざわついた。

 そのとき、足元でぷるんと小さな音がした。

 スラが目を覚まし、俺の足元へ寄ってきていた。


〈きれい〉


 その声は、どこか感嘆にも似ていた。

 スラの輪郭がわずかに震え、赤い光に向かって跳ねる。


「うん、そうだね」


 鍔の深紅が、ゆっくりと波を打つ。

 硬質でありながら、どこか温度を感じる光だった。

 部屋の空気が、ひと息ぶん沈黙する。

 なにかが定着したことを、部屋全体が受け止めているようだ。

 鍔の一部に、宝石のような深紅の硬質な輝きが、静かに定着していた。

 それは、ただの光ではない。

 脈動を終えたあとに残ったその輝きは、確かな形を持っていた。


〈……ゼレム〉


 音ではなく、気配として届いたような声だった。

 鍔の輝きが、ごくわずかに波を打つ。

 それは、呼ばれた名への反復なのか、応答なのか、まだ、わからなかった。

 ハクの尾が、さっきとは違う調子で揺れた。名に反応したようだ。

 スラがそれに気づき、興味深そうに跳ねる。


〈ゼレム? この剣のなまえ?〉

「うーん、どうだろな。気に入ってくれたのかな?」


 鍔の深紅が、また明滅する。


「やっと、こちらに向いたか」


 今度は、はっきりとした言葉の形で耳に届いた。

 それは、夢の中で何度も聞いた、あの男の声によく似ていた。


「ゼレム、なのか?」

「名を告げたのは、お前だろ」

「……まあ、そうなんだけど。反応するとは、思わなくて」

「思わずとも、響いた。名は、通じるものにしか届かん」

「気に入ったってこと?」

「まだ、選びはせぬ。通っただけだ」


 ハクが不機嫌そうに鼻を鳴らす。


〈ジークベルトがつけた名前、嫌なの?〉

「拒みではない。まだ定まらないのだ」

「定まらないって?」

「そうだ。名になるには、まだ足りぬのだ」


 その言葉に、俺は言葉を飲み込む。

 なんとなく、察してしまった。


《ご主人様。封印の一部が解除されたことで、黒い剣の解析がわずかに進みました。黒い剣は、意思を持つ魔剣です。名を通した者と、限定的ながら繋がりを結びます。ゼレムが名に反応したことで、契約の段階に入りつつあるようです》


 なるほど。なにかあるよね?


《はい、ご主人様。契約にはなんらかの代償が伴う可能性が高いです。ただ、その詳細については、現在の解析では不明です。申し訳ありません》


 だよね、そこはゼレムに問うしかないよね。


「俺と、契約を結ぶのか?」

「契約、か。随分と軽やかな響きに思えるが、代償は知っているか?」


 その声には、わずかな嘲りと、諦めのような響きがあった。

 俺は、意味を反芻して、首を振る。


「代償ならもう払っていると思う。名前を呼んだ。声に気づいた。それだけで、もう、引き返せない気がする」


 ゼレムは、沈黙していた。

 すると、スラが剣の鞘にそっと触れ、かすかに身を震わせる。


〈すこし、かわった……。まえより、あたたかい〉


 鍔の深紅がふっと光る。


「ならば、交わそう」

「代償は本当にそれでいいの?」

「変なことを問う、な。我は、長く、眠っていた。声をかけられることもなく、ただ朽ちるのを待っていた。だが、お前が現れ、我を手に取った。そして、お前が呼んだから、こうして応え、目を覚ました……それでよしとしよう」

「それで納得しているなら、わかった」


 俺は柄に手を添える。


「ただし、まだすべてが定まったわけではない。我の力も、半ばに過ぎん」

「えっ?」


 その瞬間、鞘に納まった黒い剣が微かに揺れ、脈動が全身へと広がった。

 体の奥で、なにかが静かに結ばれていく。

 魔力でも、神力でもない。

 それは、新たな絆が結ばれた感覚だった。


「名は、まだいらぬ。今はゼレムでいい」


 俺は呆れながらも、軽くうなずいた。


「ゼレム、これからよろしくね」


 鍔の深紅が、ごくわずかに揺れて、応えるように灯った。


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