黒い剣の秘密
「また……あの夢か」
夢の中で聞こえた声が、目覚めたあとも胸の奥に残っていた。
俺はゆっくりと上体を起こす。
隣で眠っていたはずのスラが、俺の気配に反応して、シーツの上でわずかに揺れた。
ぷるんとした輪郭がもぞりと震えて、小さくつぶやく。
〈主、また聞こえた?〉
「うん、でも心配はいらないよ」
俺はスラにそっと手を伸ばす。
指先に、柔らかなぷにっとした感触が伝わる。
スラはぴくりと身を震わせ、すこしだけ体を傾けるように手のひらへ寄ってきた。
〈なら、よかった〉
指先でスラの頭のあたりを一度だけなでると、部屋の奥でお気に入りのソファで寝ていたハクが、ゆっくり瞳を開いた。
〈夢。大丈夫?〉
「うん、大丈夫だよ。まだ、早いから、休んでていいよ」
ハクは目を伏せ、大きくあくびをした。
そのままソファに身を沈め、前足を重ねると、ゆっくりとまぶたを閉じる。
部屋には、静けさが戻っていた。
スラの柔らかな寝息、ハクの穏やかな気配。
それらを感じながら、俺はふと視線を壁際へと向ける。
鞘に収まった黒い剣が静かに鎮座していた。
あの日、保管庫で剣が鞘を得てから、もう数週間が経っている。
黒い塊から光が放たれ、霧の糸が剣に絡みついて鞘ができた。
そして、夢と同じあの声が聞こえた。
それから毎夜のように、夢の中で、男が俺に語りかけてくる。
言葉はいつも違う。耳に届いていたはずなのに、目覚める頃にはもう霞んでいる。
けれど、その気配だけは、なぜか消えず残っていた。
ただ、今夜の夢は、これまでと違っていた。
──いつもは遠くに立っていた男が、今夜はわずかに距離を詰めていた。
闇の中の輪郭は、まだぼんやりとしている。
けれど、肌の張り方、骨格の重み、視線の角度。
すべてが、昨日よりはっきりと浮かび上がって見えた。
そして、声も鮮明に響いた。
「そろそろ、聞こえるはずだ。名を授ける覚悟があるなら、な」
問いではなく、予告のような、確信に満ちた声音だった。
俺の胸に、言葉がじんわりと落ちる。
「……名を授ける? 俺が?」
思わず口にしたその問いに、男がわずかに反応した。
眉間がぴくりと動いた気がする。
輪郭はまだ曖昧なのに、表情の変化だけははっきりと読み取れた。
でも、少しだけ息を詰めたような空気が伝わってくる。
「聞こえた、か」
低く、つぶやくような声。
威圧感のある気配はそのままに。
けれど、その目元が、どこか優しげだった。
男の気配は、その一言を残して、静かに薄れていった。
胸の奥に、声の余韻だけが残っている──。
気づけば、再び俺の視線は、壁際に鎮座する黒い剣へと向かっていた。
「どう考えても……原因は、あの剣だよな」
俺は、スラを起こさないように、そっと足を床へ下ろした。
床は冷たく、夜の空気が肌をなでるようだった。
窓の向こうでは、空がまだ深く暗い。
東の端だけが、わずかに薄く、光を滲ませている。
夜が明けるまで、あと少し、そんな時間帯だ。
音を立てぬよう注意しながら、俺は静かに壁際へと歩を進める。
黒い剣の前で、そっと足を止めた。
いつもと同じ位置に、鞘ごと収まっているはずなのに、今夜はなぜか、その輪郭が妙に濃く見えた。
夢の中の男の気配が、今、この剣から漂っている。
存在の圧が、はっきりと感じ取れた。
俺は、一歩だけ剣に近づいた。
鞘に触れたわけでもないのに、手のひらの中心が、かすかに熱を帯びる。
「名が欲しいんだね」
剣は、なにも答えない。
だけど、その沈黙が、否定ではないことだけは、わかった。
俺は、少しだけ息を吐いてから、言葉を続ける。
「ゼレムって名前は、どうだろう?」
その瞬間だった。
剣の柄、鍔の部分に赤い光が、ぽつりと浮かび上がった。
なにもなかったはずの場所に、たしかに現れていたそれは、脈を打つように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。
ただの光ではない。
意思のようなものが、そこに宿っている気がした。
名に応えた証なのか、それとも、目覚めの兆しか。
俺は息を潜め、剣の前でじっとその光を見つめていた。
静まり返った室内で、空気がわずかに揺れる。
ソファの方から、布が擦れる音がした。
ハクが身を起こし、赤い光に目を向けていた。
その瞳が、わずかに細められている。
〈黒い剣から、気配を感じる〉
その声は、いつもより低く、どこか警戒しているようだった。
俺は剣から目を離さず、短く答える。
「ゼレムって、言ってみただけだよ」
ハクは鼻を鳴らし、俺の隣に腰を下ろす。
鍔の光は、俺たちの声に反応するように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。
〈前の気配と違う。これ……生きてる〉
ハクの尾が揺れる。
威嚇ではない。距離を測るような、慎重な動きだった。
その指摘に、俺の胸がわずかにざわついた。
そのとき、足元でぷるんと小さな音がした。
スラが目を覚まし、俺の足元へ寄ってきていた。
〈きれい〉
その声は、どこか感嘆にも似ていた。
スラの輪郭がわずかに震え、赤い光に向かって跳ねる。
「うん、そうだね」
鍔の深紅が、ゆっくりと波を打つ。
硬質でありながら、どこか温度を感じる光だった。
部屋の空気が、ひと息ぶん沈黙する。
なにかが定着したことを、部屋全体が受け止めているようだ。
鍔の一部に、宝石のような深紅の硬質な輝きが、静かに定着していた。
それは、ただの光ではない。
脈動を終えたあとに残ったその輝きは、確かな形を持っていた。
〈……ゼレム〉
音ではなく、気配として届いたような声だった。
鍔の輝きが、ごくわずかに波を打つ。
それは、呼ばれた名への反復なのか、応答なのか、まだ、わからなかった。
ハクの尾が、さっきとは違う調子で揺れた。名に反応したようだ。
スラがそれに気づき、興味深そうに跳ねる。
〈ゼレム? この剣のなまえ?〉
「うーん、どうだろな。気に入ってくれたのかな?」
鍔の深紅が、また明滅する。
「やっと、こちらに向いたか」
今度は、はっきりとした言葉の形で耳に届いた。
それは、夢の中で何度も聞いた、あの男の声によく似ていた。
「ゼレム、なのか?」
「名を告げたのは、お前だろ」
「……まあ、そうなんだけど。反応するとは、思わなくて」
「思わずとも、響いた。名は、通じるものにしか届かん」
「気に入ったってこと?」
「まだ、選びはせぬ。通っただけだ」
ハクが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
〈ジークベルトがつけた名前、嫌なの?〉
「拒みではない。まだ定まらないのだ」
「定まらないって?」
「そうだ。名になるには、まだ足りぬのだ」
その言葉に、俺は言葉を飲み込む。
なんとなく、察してしまった。
《ご主人様。封印の一部が解除されたことで、黒い剣の解析がわずかに進みました。黒い剣は、意思を持つ魔剣です。名を通した者と、限定的ながら繋がりを結びます。ゼレムが名に反応したことで、契約の段階に入りつつあるようです》
なるほど。なにかあるよね?
《はい、ご主人様。契約にはなんらかの代償が伴う可能性が高いです。ただ、その詳細については、現在の解析では不明です。申し訳ありません》
だよね、そこはゼレムに問うしかないよね。
「俺と、契約を結ぶのか?」
「契約、か。随分と軽やかな響きに思えるが、代償は知っているか?」
その声には、わずかな嘲りと、諦めのような響きがあった。
俺は、意味を反芻して、首を振る。
「代償ならもう払っていると思う。名前を呼んだ。声に気づいた。それだけで、もう、引き返せない気がする」
ゼレムは、沈黙していた。
すると、スラが剣の鞘にそっと触れ、かすかに身を震わせる。
〈すこし、かわった……。まえより、あたたかい〉
鍔の深紅がふっと光る。
「ならば、交わそう」
「代償は本当にそれでいいの?」
「変なことを問う、な。我は、長く、眠っていた。声をかけられることもなく、ただ朽ちるのを待っていた。だが、お前が現れ、我を手に取った。そして、お前が呼んだから、こうして応え、目を覚ました……それでよしとしよう」
「それで納得しているなら、わかった」
俺は柄に手を添える。
「ただし、まだすべてが定まったわけではない。我の力も、半ばに過ぎん」
「えっ?」
その瞬間、鞘に納まった黒い剣が微かに揺れ、脈動が全身へと広がった。
体の奥で、なにかが静かに結ばれていく。
魔力でも、神力でもない。
それは、新たな絆が結ばれた感覚だった。
「名は、まだいらぬ。今はゼレムでいい」
俺は呆れながらも、軽くうなずいた。
「ゼレム、これからよろしくね」
鍔の深紅が、ごくわずかに揺れて、応えるように灯った。