始まりの気配_02
階段の奥深くに、ひっそりとその部屋はあった。
扉はなかった。
空間の境界が、自然に切れているだけだった。
内部は暗く、魔法灯の反応もない。
ただ、空気の質がわずかに変わっていた。
足元にまとわりつく魔力の感触に、シルビアは眉をひそめる。
「ふむ? なんの魔力かえ」
一拍の沈黙の後、ぐふっと鼻を鳴らして、にやりと笑う。
「まあ、よい。目的はすぐそこじゃ。隠しおって、どこに置いたのじゃ」
そう言いながら足を踏み入れると、ひと呼吸のあと、すぐに棚を探り始めた。
布に包まれた箱、分類されぬ古い魔道具。
彼女の手は、一気に探査のテンポを上げていく。
スラがハクの背から身を乗り出し、きょろきょろとあたりを見回してつぶやいた。
〈……ここ、ちょっと、ちがう。なんか、におい、しなくなった〉
スラのつぶやきを受けて、ハクが低く声を出す。
〈ここの空気、魔力の流れが変。誰かに遮断されてる。シルビア、出た方がいい〉
シルビアは棚を漁る手を止めて、背後に視線を向けた。
「まだダメじゃ!」
布包みの端を指先で弾きながら、苛立ちを滲ませる。
「あやつ、フラウが『ジークベルトに近づけちゃ危険よ!』と言っておった! それをヴィリバルトが『ジークが判断することだよ』と、フラウを窘めておったのじゃ!」
奥から引き抜いた小さな箱を乱暴に開けながら、シルビアは語気を強める。
「フラウ自身が『むう。わかってるわ! 黒い剣……。でも私が見つけたんだから、一旦保管庫で厳重に管理して』って言ったのじゃ。妾はそれを、確認しに来たまでじゃ!」
その瞬間、ヘルプ機能の警告が響いた。
《駄犬、直ちにそこから退避してください》
シルビアの手元で、布包みがかさりと動いた。
黒い塊が、静かに転がり出る。
バッジほどの大きさ。
だが、その形は不定形で、光を吸い込むような漆黒だった。
ハクが目を細める。
〈これ、ただの魔道具じゃない。魔力が……空間の外へ漏れてる!〉
室内の温度が、わずかに下がる。
空気の流れが止まり、魔力のざらつきが肌にまとわりついた。
スラがくるりと身を縮める。
〈きけん!〉
《駄犬、魔力遮断進行中です。直ちにその物から離れてください》
黒い塊がぴくりと動き、周囲からゆっくりと魔力が巻き起こった。
重たい魔力の波が空間を揺らし、棚の魔道具を鈍く鳴らした。
シルビアは塊を見つめたまま、息をひとつ吐いた。
「……これは、まずいのじゃ」
黒い塊の魔力が空間に満ちたその瞬間、圧が一気に跳ね上がった。
空気は重く、身体の自由がじわじわと奪われていく。
声も、魔力も、外に出ない。
ハクが小さく息を漏らした。
〈……動けない。魔力が押し返されてる……〉
シルビアは塊に手を伸ばそうとして、肩を震わせる。
「これは魔力に近しいが、神力じゃ……今の妾の、力では……」
〈ヘルプ機能! 聞こえてるか!〉
ハクが叫ぶように呼びかけるも、応答はなかった。
室内は沈黙し、空間そのものが外界との接続を拒んでいた。
スラがぎゅっと身を縮める。
重たい空気が、念話すら押し返そうとしていた。
それでもスラは、わずかな隙を縫うように、念話を放つ。
〈スニ、スミ、たすけて! 主、たすけて!〉
***
アーベル侯爵家の敷地内、玄関前の馬車寄せ。
午後の陽が中空にあり、空気にはまだ穏やかな熱が残っていた。
一台の馬車が、静かに出発の準備を整えている。
その乗り口に、ユリウスが手をかけた。
長い金髪が、風に揺れてなびく。所作は無駄がなく、動きに迷いはない。
その肩には、小さな影、護衛のスミが乗っていた。
スミはじっと周囲を見渡しながら、ユリウスの動きに合わせて微かに揺れる。
スミもまた、スラの魔力から生まれた分裂体のひとつ。
魔契約の主であるジークベルトから離れ、現在は王太子殿下直属の護衛として任務に就いている。
その配属経緯は公にされておらず、殿下自身が語ることもない。
ちょうどその瞬間、スラから飛ばされた念話が届く。
〈スミ……たすけて……し……〉
スミの緑色の表面がぷるんと揺れた。
「プッ! 〈スラ、たすけて? 誰を?〉」
〈……シ……シル……たすけ……〉
途切れ途切れの念話は、なにかの影響を受けていて、言葉の輪郭が曖昧だった。
スミは一瞬考え、こともなげに返す。
「プッ〈了解。シルビア、たすけて〉」
わずかの沈黙のあと、スミの体が一度だけ明滅した。
「なにかあったのか?」
ユリウスが肩越しに問いかける。
「プッ! 〈解決済み!〉」
スミは明るく跳ね返す。
だが、その声色に、どこかずれた空気が混ざっていた。




