始まりの気配_01
最終授業の途中、俺の思考を遮るように、ヘルプ機能の報告が割り込んできた。
《ご主人様、駄犬より緊急事態発生の通知がありました。保管庫にて異常事態が発生した可能性があります。駄犬たちの動向を監視しておりましたが、保管庫に入った直後より映像・音声ともに取得不能となりました。なんらかの遮断干渉が発生したものと思われます。現在、駄犬、ハク、スラの所在は確認できておりません。直接の要請は『助けて』とのことです》
ああ、やっぱり。
今朝から、嫌な予感はしていたけど、まさか本当に起きるとは……。
俺の直感って、こういうときに限って外れない。
まあ、ただの勘じゃなく、『直感』のスキルなんだけどね。
気づけばスキルレベルは5。いつの間にか上級の域に入っていた。
《直感スキルの成長要因は、ご主人様の称号『苦労人』の影響によるものと推測されます。称号の効果により、直感スキルは望ましくない事象への感知精度が高くなっており、それらを繰り返し回避されたことで、スキル経験値が蓄積されたものと思われます》
……それもう直感っていうより、災難予報だよね。
《ご主人様、ぼやいているところ失礼します。駄犬たちを助けに行かなくてもよろしいのですか? 念のため申し上げますが、駄犬を心配しているわけではございません。ハクとスラの安否が懸念されます》
あっ、そうだった。
邸内のことだし、外よりは安全だと思ってのんきにしてた。
ヴィリー叔父さんが張った強力な結界が敷地全体を覆っている限り、めったなことは起きないはず……。
なんだけど、シルビアが『助けて』なんて言うのは、そうそうあることじゃない。
「先生!」
「どうしたのかね、アーベル君」
「体調がすぐれませんので、家に帰らせていただきたいです」
「そっ、それは大変だ! すぐに帰りたまえ!」
「ありがとうございます」
温厚なライナー教授で助かった。
これがウーリッヒ教授だったら、すんなりとは帰してもらえない。
きっと尋問に次ぐ尋問で、授業が終わる頃になって、ようやく解放されるか……いや、それすら怪しい。
隣のディアーナたちに視線を送ると、彼女はこちらを見返して、小さくうなずいた。
目が合っただけで察してくれるあたり、さすが俺の婚約者だ。
教室の空気を乱すことなく、静かに席を立ち、そのまま扉へ向かう。
帰りの馬車での言い訳も、彼女たちがうまく取り繕ってくれるだろう。
扉を抜けて廊下へ出ると、俺は人目を避けて裏手の中庭へと回り込んだ。
生徒の気配がないのを確認して、そっと移動魔法を展開する。
空間が揺れた次の瞬間には、保管庫の前に立っていた。
***
今朝、アーベル侯爵家では保管庫の整理が予定されていた。
ある出来事をきっかけに、保管庫にはヴィリバルトの結界が幾重にも張られ、許可された者以外は立ち入れない重警備区域となっている。
だが今日だけは、整理作業の都合で、その結界の一部が緩んでいた。
神獣としての力を取り戻しつつあるシルビアにとっては、またとない好機だった。
〈シルビア、どこに行くの?〉
ハクが声をかけると、彼女はにんまりと口元を緩めた。
「行けばわかるのじゃ! ジークベルトがきっと喜ぶのじゃ、のう、ヘルプ機能?」
《ご主人様が喜ぶかどうかの判断は、状況に依存します。目的地は保管庫ですね?》
「察しがよいのう。盗み聞きしておったのじゃな。で、ヘルプ機能はどう思う?」
《盗み聞きとは言葉の選び方が不適切かと。……まあ駄犬にしては、勘が冴えていますね。確かに黒い剣と所縁のあるものだと推測されます》
「そうじゃろ、妾もそう思ったのじゃ」
〈黒い剣? ジークベルトが使用している剣のこと?〉
ハクが首を傾ける背の上で、スラはオークの肉を頬張りながら、もふもふの毛並みに顔をうずめていた。
「そうじゃ!」
シルビアは満足げにうなずき、くるりと踵を返すと、先頭に立って歩き出した。
「ささ、妾に続くのじゃ! 保管庫へ急ぐのじゃ!」
ハクは一瞬だけ足を止め、微かに身を縮めると、ためらいがちにシルビアのあとを追った。
スラはハクの背中の上で、肉片を頬張りながらも、〈肉……まだある?〉とつぶやいていた。
屋敷の敷地奥、保管庫の扉の前。
通常なら、幾重もの魔力の膜が張り巡らされ、立ち入ることさえ困難な重警備区域。
だが今日は、重層の張力がわずかにほどけ、抵抗の圧が緩んでいた。
ハクは鼻先を動かし、空気の匂いを確かめる。
〈……膜の具合が、いつもと違う気がする〉
「心配性じゃのう。整理日の仕様じゃ……。ふむ。通れるのじゃ。運がよいのう」
シルビアが結界の縁にそっと触れると、膜は音もなく開いた。
魔力の縁が波紋のように揺れ、スラがぴょんっと跳ねて通り抜ける。
〈やわらかーい〉
ハクは一度、地面に視線を落としたが、すぐにふたりの後を追った。
そして三人は、暗がりの中へと足を踏み入れた。
保管庫の内部は、想像以上に広かった。
部屋に入るたび、魔法灯がぽっと灯る。明かりはやわらかく、温度もない。
棚はどれも手入れが行き届いていて、物品も整然と並んでいた。
「ふむ、ここでもないのう」
シルビアは足を止め、静かに視線を巡らせた。
棚には申請書類や、用途別に分類された魔道具が並んでいる。
どれも名目付きの保管物ばかりだ。
そのとき、スラがふとハクの背中から身を乗り出した。
〈あっち、においする。なにか……ある!〉
もぞもぞと滑るように下りると、壁際の隙間へと顔をのぞかせる。
「ほほぅ、よき嗅覚じゃ。買収した甲斐があったのう。よいぞ、スラ! もっと貢献せい!」
シルビアがスラの方へ向かうと、壁の一部が微かに凹んでいた。
魔力の感知では拾えないほどの、わずかな段差。
手をかけて引くと、内部から冷たい空気が漏れ出す。
冷気の奥から、隠された階段が現れた。
「見つけたのじゃ!」
シルビアが嬉々として声を上げる。
だが、魔法灯は反応しない。
階段の入口は、暗がりのまま、ぽっかりと口を開けていた。
空気は地上とは違い、冷たく、湿り気を含んでいる。
それは、長いあいだ誰にも触れられていなかった空間の匂いだった。
「ふむ、よき空気……。妾の目的地に間違いなかろう。隠しおって」
シルビアは鼻息を荒くしながら、階段を降りていく。
あとを追うように、ハクが一歩踏み出した。
その足元に、蜘蛛の糸が絡む。
スラはハクの背の上で、小さく体を動かしながらつぶやく。
〈におい、する。……肉じゃない。もっと……ふるい〉
ハクはちらりと背後を振り返る。
保管庫の部屋には、整理された棚と、魔法灯の残光だけが残っていた。
階段の入口とは、まるで別世界のようだった。