馴染めない日常
砕けたガラスの音が、闇の研究室に突き刺さる。
男の肩は震えていた。
「嘘だっ……」
声はかすれ、かつて確信に満ちていた思考のすべてが霧散していく。
指先が震えながら、散乱した書類の上をさまよった。
数値、計算式、記録。そのすべてが、彼の人生そのものだった。
だが今、それはただの紙切れに過ぎなかった。
傍らに、一輪の白いリーリアが静かに佇んでいる。
いつもそこにあった。どんな時でも。
彼が手を伸ばせば、触れられる距離に。
しかし──。
男は指を伸ばしかけて、ふと止まる。
その白は、今の彼にはあまりに遠かった。
何かが壊れた。
何かが失われた。
だが、それが何であるかを言葉にすることは、今の彼にはできなかった。
***
広い廊下を歩く俺たち。ディアーナとセラがいつものように並んでいる。
昼下がりの陽光が床に長く射し込むなか、制服の黒と白が光を反射して際立つ。赤いマントの縁がきらめき、胸元の魔術学校の紋章が歩調に合わせて揺れた。
身なりだけ見れば、俺は紛れもなくこの学校の生徒のはずなんだけど、遠巻きの視線がいたい。
まるで近づくなって暗黙のルールでもあるかのように、生徒たちは一定の距離を保っている。
気づいていないわけじゃない。でも、話しかける気もゼロみたいだ。
そんな中、ひとりの生徒と目が合うと、その子はあからさまに視線をそらした。
えっ、……そんなに嫌?
背後から、ひそひそと声が漏れてくる。
俺の名前を含んでいた気がして、足が一瞬重くなった。
やっぱり、俺。浮いてるよね。
《残念ながら、ご主人様の現状認識は正しいですね》
ヘルプ機能の声が脳内に響く。
《ご主人様は、名門アーベル侯爵家の子息であり、溺愛されていると評判の末っ子。生まれながらに『アーベル家の至宝』ともささやかれる存在です。そのうえ、十二歳で特例入学し、ディアーナたちと同学年。さらに三年生からの飛び級と、異例続きの状況ゆえに、生徒たちが距離を取るのも無理はありません》
うっ……。
正論を突きつけてくるヘルプ機能に、なんだかいらいらする。
《加えて、ご主人様は美少女──おほん、美少年であり、その麗しき容姿は、否応なく周囲の視線を集めますね。しばしば女の子に間違われるほどの美貌ですから、生徒たちが距離を取る理由には、それも含まれているかと》
いや、そこで美少女って言い切るなよ!
ていうか、そんなに詳しく語られると逆にダメージでかいんですけど⁉
《ちなみにこれまで、ご主人様の性別を確かめようとした者が何人かおりましたが、ご主人様の鋭い切り返しで、あえなく撤退しております》
そんな事まで説明しなくていいから!
俺は思わず、頭を抱えてうずくまりたくなった。
《さらに、ご主人様の力量を疑い、あら探しを試みた者もいましたが、圧倒的な才覚を目の当たりにし、静かに身を引きましたね》
まあ、ヴィリー叔父さんに魔法の手解きを受けているからね。
《本来、ご主人様ほどの魔法の才があれば、学校に通う必要性は皆無ですが、慣例を無視すると面倒が生じますし、六年の課程を四年で終えられることを考えれば、むしろ効率的かと》
なんかもう、それ言われると、通学している意味が分からなくなるんだけど……。
俺が歩調を緩めると、ディアーナがすぐに気づいた。
「ジークベルト様、どうされました?」
「えっ、あっ、うん……。ハクとスラがいないと、なんだかしっくりこなくて」
「そうですよね。いつもおそばにいるので、いないと少し寂しく感じます」
「ポッ!〈スニが、スラの代わりに主を守る!〉」
セラの制服の中から、スニの元気な声が響き、思わず笑ってしまった。
スニは、スラの魔力から生まれた分裂体で、スラとは別に自我を持った特殊スライムだ。
実は、スラは進化していた。
ベビースライムから特殊スライムとなり、魔物から魔獣へと種族が変わった。その進化の過程は驚くべきもので、自然の摂理を超えた変化を遂げていた。
見た目こそ変わらなかったが、能力は大きく広がり、まだなにかが目覚めそうな気配すらあった。
あの時、ヘルプ機能が頭の中で《なぜ? どうして? ありえない!》と大騒ぎしていたのも無理はない。
さらに驚いたのは、スラが分体として魔力から生み出した存在がそれぞれ意志を持ち、新たな特殊スライムとなったことだ。
今ではスニがセラの体に寄り添い、魔力飽和を緩和するために常にくっついている。
もちろん、俺とは魔契約で結ばれていて、スラと同じく、大切な仲間のひとりだ。
そのスラだが、案の定、オークの肉に惹かれてしまったらしい。
今朝、ハクとスラの姿が見当たらず、なにかあったのかと心配した。
どうやら、シルビアがオークの肉をちらつかせて、スラを引っ張っていったようだ。
ハクはそんなスラを心配して、仕方なく付き添ったらしい。
《ご主人様、ハクとスラはすでにシルビアと共に移動しております。駄犬の策略にまんまとはまり、スラはすぐに飛びつきましたね。ハクはスラを放っておけず、結果として同行する形になったようです》
ヘルプ機能の報告を聞いて、少しだけ安心した──。
とはいえ、シルビアのことだ。またなにか厄介なことに首を突っ込んだんだろう。
そう考えると、朝から沈んでいた気持ちがまたじわりと胸に重くなる。
思い出しただけで、深い、深いため息が漏れた。
「ポッ〈主、大丈夫?〉」
「なんでもないよ」
そう返しながら、俺はそっと口元をほころばせた。
スニの声に応えるように、目線をディアーナとセラへと移す。
ふたりの視線がじっとこちらを見つめているのがわかって、俺は安心させるように、もう一度、穏やかな笑みを浮かべた。
風が頬をかすめた。その動きに誘われるように、俺はふと目線を横へ滑らせる。
広場の外縁、少し離れたベンチに、一人佇む彼の姿が目に留まった。
ラフェルト伯爵家の嫡男、ドミニク・フォン・ラフェルト。
彼は魔力こそ高いが、魔属性を持たない。
お属初めの公表で、その烙印を刻まれた瞬間から、彼の進む道は決まっていた。
貴族社会では、それだけで家督を継ぐことが許されない。
生徒たちの多くは、彼の能力や振る舞いに一定の敬意を抱きながらも、関係を深めようとはしない。
俺とはまた別の意味で、距離を置かれている存在だ。
そういえば、彼の弟エリアンが今年入学していた。
《ご主人様のご記憶通り、エリアン・フォン・ラフェルトは、ラフェルト伯爵家の後継者として、生徒や教員の間でも広く認知されています。魔属性を有する第二子が跡を継ぐ例は、貴族社会では特段珍しいことではありません》
すでに三カ月が経過した今、周囲は、それを当然のこととして受け入れていた。
彼がどう思っているかはわからない。
けれど、うつむいた視線の先に落ちていた重たいものは、今も変わらずそこにあるように見えた。
その重さを胸の奥に飲み込んで、俺はしばらく視線をそこに留める。
すると突然、背後から賑やかな声と足音が聞こえてきた。
「セラちゃーん、ああ、我らが姫ディアちゃ……いや、ディアーナ様!」
耳が痛いほど響くその声は、聞き慣れたものだ。
思わず目線を背後に移すと、陽光を背負った一団が広場に迫ってきていた。
制服のマントが風を巻き、金刺繍がきらついた。
先頭に立っているのは、俺たちの学年でも特に目立つ人物レオポルト・フォン・ベルク。
規定を少しだけ無視したマントの飾りは、遠目からでも自己主張が激しい。金の刺繍が、顔より先に視界に飛び込んでくる。
そのうしろには、親衛隊と呼ばれる女子たちがずらりと並んでいた。
「我が麗しき親衛隊たち、いつもありがと。さあ、これより俺はディアーナ様たちとお話がしたいんだ。少しだけ、ここで俺のこと見守っていてくれるかな?」
「はい、レオ様―!」
女子たちはきゃあきゃあと笑いながら一歩退き、それを確認したレオポルトは優雅な足取りで俺たちの前に現れた。
「ディアーナ様、ご機嫌麗しゅう」
レオポルトは金刺繍のマントの端を人差し指で整えながら、余裕のある微笑をみせた。
「今日も、その麗しきお姿に心打たれました。いやあ、光が嫉妬していますよ」
その言葉に、周囲の親衛隊がふたたび黄色い声を上げる。
けれど、ディアーナはその空気に一切反応せず、冷静な視線だけをレオポルトに向けた。
「言葉の飾りに感心する余裕は、私にはありません。失礼」
ディアーナの言葉は短く、感情の起伏すら見せない。
その冷たさはレオポルトの笑みを一瞬だけ静止させた。
「冷たいなあ、ディアーナ様は。まあ、それも魅力ってことにしておきますか」
彼は肩をすくめたが、すぐに口元の笑みを整え、流れるようにセラへと視線を移した。
まるで最初から次の段が決まっていたかのような仕草だった。
ブレないな。ある意味、見習うべき切り替え力かもしれない。
《ご主人様にも、女性との関係性において、これほど明快な割り切りがあれば、精神的な消耗は大きく抑えられるかと思われます》
それができたら苦労しないよ。
俺がヘルプ機能の小言に気を取られているうちに、会話が進んでいて、空気も変わっていた。
「お兄様は、アーベル伯爵家の家臣として、立派にお仕事をなさっています」
どうやら、レオポルトはセラの逆鱗に触れたようだ。
レオポルトは一瞬、目を丸くしたが、すぐに口元の笑みを整える。
「それは素晴らしい。ご家臣として、誇り高くお勤めとは……まさに貴族の鏡だね」
セラは答えず、あからさまに視線を逸らす。その横顔は、すでに完全に冷えきっていた。
レオポルトは苦笑いにも見える表情のまま、一拍だけ動きを止め、そして、次の瞬間には、いつもの調子で広場に向けて言葉を投げた。
「ふっ……まだ俺の魅力に気づかないとは。まあ、今はそれすらも、美しい誤解だね」
きっぱりとそう言い切ると、赤いマントを翻して背を向ける。
「レオ様、お待ちになってー!」
歓声が広場を満たす中、レオポルトは振り返ることなく、肩越しに言い残していった。
「またね、レディ……ジークベルト」
親衛隊の声が後を追い、華やかな空気を広場に残して彼らは去っていく。
ディアーナはちらりと俺を見て、静かに問いかけた。
「なんだったのでしょう?」
「さあ、いつものことだしね」
俺は肩をすくめる。
なぜか彼だけが、こんなふうに声をかけてくれるんだよね。
ふと、広場の外縁に目をやった。
少し離れたベンチ、そこで佇んでいたはずの彼の姿は、もうどこにもなかった。
大変お待たせしました。魔術学校編が始まります。
刊行小説とは一部設定が異なりますので、刊行版をご存じの方も、初めて読まれる方も、それぞれの楽しみ方をしていただけたら嬉しいです。
そして、新たな物語「二千年を越えて乱れゆく秩序のなかで、環は異能で平穏を目指す」も連載をスタートしましたので、応援よろしくお願いします。