08 天使の好意
いつものように皆で食事を取り、家事をこなして勉強をする。
ハルムが来ても日々の生活は変わらなかった。
「フランカ」
子供たちに畑の作業を任せている間に繕い物をしていると、一緒に畑に行ったはずのハルムが部屋に戻ってきてソファに座るフランカの隣へ腰を下ろした。
「畑には行かないの?」
「フランカが独りになっちゃうでしょ」
「…私は仕事があるから」
「何をしているの」
ハルムはフランカの手元を覗き込んだ。
「クルトのズボンが破れたから直しているのよ」
「ふうん」
破けた部分に裏から布を当てて細かく縫っていく様子を、ハルムは興味深そうに眺めた。
「ハルム…そうやってあまり見られるとやりにくいから」
「そうなの?」
顔を上げたハルムは、今度はフランカの顔をじっと見つめた。
綺麗な顔に間近で見つめられて、恥ずかしくなったフランカは思わず手元を狂わせた。
「つっ」
指先に針が刺さり鋭い痛みが走る。
見る間に刺さった場所から赤い血がぷっくりと出てきた。
「フランカ!」
「大丈夫よ、よくある事だから」
フランカはそう言って指先を口に含むと血を舐めとった。
指先を見るとまたじわりと血が滲んできたのでもう一度舐めようとすると、ハルムが手首を掴み自分へと引き寄せ先刻フランカがしたようにその指先を口へ含んだ。
「ハルム!」
慌てて離そうとするがフランカの手首を掴む手は全く動かない。
「っだめだから…!」
「変な味だね」
指から口を離すとハルムは言った。
「血なんか舐めないで」
「フランカだってやってたでしょ」
「自分のだからいいの」
手首を掴む手を振り解こうとすると、ハルムは更にフランカを自分へと引き寄せた。
「ハルム…!」
「どうして、フランカは僕が触れようとすると嫌がるの」
紫水晶の瞳がすぐ目の前にあった。
「僕の事嫌いなの?」
「…そうじゃなくて」
「じゃあ、どうして?」
息がかかりそうなくらいにハルムの顔が近付く。
「僕は、もっとフランカに触れたい」
「———そういう事はしちゃいけないのよ」
「どうして」
「だって私とハルムは…そういう関係じゃないもの」
「そういう関係って?」
「それは…」
「あー!」
不意に子供の声が響いてフランカは思わず肩を震わせた。
「フランカとハルムがちゅーしてる!」
ドアから顔を出してクルトが部屋を覗き込んでいた。
その隣ではソフィーが目を輝かせている。
「してないから!」
「ちゅー?」
逃げようとするフランカを逃さないように、ハルムはその身体を抱え込んだ。
「キスするの!」
「お口でちゅってするの」
「こう?」
ハルムはフランカの頬に唇を押し当てた。
「ちゅーした!」
「口にもするんだよ!」
「っあなたたち変なこと教えないで…」
抗議しようとしたフランカの口をハルムのそれが塞いだ。
「きゃー!」
騒ぐクルトとソフィーに、後からやってきた他の子供たちも部屋の中を覗いて目を見開いたり顔を赤くした。
「———柔らかくて気持ちいいね」
騒ぐ子供たちや硬直したフランカを気にする事なく、そう言うとハルムはフランカの唇を指先でなぞり、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「はあ…」
子供たちを寝かしつけて部屋で一人、フランカは窓から夜空を見上げてため息をついた。
空には形が歪になった大きな月がその姿を見せていた。
ハルムが現れたのは五日前、満月の日だった。
彼はあっという間に子供たちと馴染み、そして……
フランカはそっと唇に触れた。
———アンナに言われなくても、自分が他人にどう見られているか気づいている。
スヴェンの事も…他にも町の何人かに好意を抱かれている事も。
知りながら、気づかないフリをしている。
神父や町の人から、もう十八なのだから結婚してはと言われる事もある。
———でも、私は誰とも結婚しないし恋もしない。
特にハルムは…彼だけは。
ハルムが自分に抱いている感情は、彼が得られた事のない家族としての愛情なのか、それとも恋愛感情なのか…それはおそらく、ハルム本人にもまだ分かっていないだろう。
天使は他の動物のように受精による生殖で産まれるわけではない。
好意や悪意といった感情は抱くが、恋をするという事は滅多にない。
今ならまだ間に合う。
まだ彼は…天に帰れる。
「———女神よ」
フランカは月に向かって口を開いた。
「どうかハルムを天にお戻しください。彼には…」
青い瞳が月の光を浴びて金色に光る。
「彼には…私と同じ過ちを犯して欲しくないのです」