03 朝の岬
朝露に濡れてしっとりとしたシャムロックが一面に広がる緑色の絨毯の中を、フランカは一人歩いていた。
右手に広がる海は穏やかで、朝日を浴びて白く光っている。
誰もいない静かな岬を歩く前方に、黒い岩のようなものが見えてきた。
近づいてよく見るとそれは石を積み上げたもので、かつては壁の一部であったろう事が推測できる。
その壁に寄りかかると、フランカは一度伏せた顔を上げた。
深い青い瞳が同じような色をした目の前の海を見つめる。
けれどその眼差しはどこか遠くを見ているようだった。
柔らかな草地を踏む音と気配にフランカは振り返った。
「ハルム」
「おはよう。フランカは早いんだね、みんなまだ寝ているのに」
神父から借りた、サイズの合わない大きめのシャツとパンツを着たハルムが立っていた。
「…朝の散歩をするのが日課なの。ハルムも早いのね」
「僕は眠らなくても平気だから」
天使にとって眠りは暇つぶしの一つなんだ、と小さく笑って、フランカの隣まで来るとハルムは同じように寄りかかり、不思議そうに黒い壁を撫でた。
「これは何?」
「———昔、ここに砦があったの。海の向こうの国が攻めてくるのを監視するために」
「国が攻めてくる?」
「ずっと昔、戦争があったのよ」
フランカは海の先にぼんやりと見える島影を指差した。
「沢山の兵士を乗せた船が海を越えて、ここからこの国に上陸してきたの。激しい戦いが起きて…この砦も火を付けられ、壊されてしまったわ」
この朽ちかけた石積みの壁が黒いのは焼けたからだ。
「みんな燃えてしまったの。建物も森も…みんな」
「それはとても悲しい事だったんだね」
冷んやりとした、けれど心地良い指がフランカの頬に触れた。
「泣きそうな顔をしているよ」
間近で顔を覗き込まれ、フランカは思わず視線を逸らすように俯いた。
「…戦争は悲しいわ。沢山の人が殺されてしまうの。戦争に行った人も、残された人も大切な人を殺されて…帰る場所を失ってしまうわ」
「帰る場所を?」
「全部なくなってしまうのよ」
フランカは顔を上げた。
「…ハルム…あなただって、天に帰れなかったら悲しいでしょう?」
「僕は悲しくなんかないよ」
キラキラとした紫水晶の瞳を細めてハルムは答えた。
「だってあそこには誰もいないんだもの」
「…どうしていないの?」
「僕が住んでいたのは端っこの方だったからね。女神がいる神殿には大勢いるけど、あそこにいられるのは女神の使いとして選ばれた天使だけだから」
頬に触れていた指を滑らせると、ハルムは下ろしていたフランカの栗色の髪をひと束すくった。
「誰もいない世界は寂しいよ。僕はあそこには戻りたくない」
「…でも…ハルムは天使なのでしょう」
「天使はつまらないよ」
すくい取った髪の毛の感触を確かめるように指先を動かしながらハルムは言った。
「人間は沢山いる。大人や子供…色々な種類が沢山。それにフランカもいる」
澄んだ瞳がフランカを見つめた。
「僕はここにいたい」
「…でも…天使と人間は一緒にはいられないわ」
「どうして?」
「人間は歳を取るし数十年で死んでしまうわ。天使とは…生きる時間が違うもの」
「時間が違ったら一緒にいられないの?」
「…それに時間だけじゃなくて…人間と天使は違うところが沢山あるもの」
「そうかな」
ハルムは首を傾げた。
「翼がなければ姿はそっくりだし言葉だって交わせる。他の動物よりもずっと同じだよ」
「でも…」
「フランカは僕がここにいるのが嫌なの?」
ハルムは初めてその顔に悲しげな表情を浮かべた。
「———そういう訳じゃないけど…」
「僕はここにいたいんだ」
髪から手を離すと、代わりにハルムはフランカの手をぎゅっと握りしめた。