父の死
しばらく経った頃、あいつをみかけた。
腕をぐるぐるに縛っている。
あいつは怯えた目をしながら、今にも逃げ出しそうに身を縮こまらせている。
僕が思い切り睨みつけると、そいつはこそこそと逃げるように道を折れて行った。
あの頃は怖いものなんてなかった。
ただ、奇妙な「この世」というものが僕の前で混沌として広がっていた。
あちこちで人が死んでいた。死にゆく者は惨めに死んでゆく。
貧困の為、火の不始末の為、病の為。
そして僕の目の前で妖しく繰り広げられていく性の世界。
戸惑い、困惑しながらも、それが本当に意味するものを僕はまだ本当に理解できていなかった。
あの時までは。
僕を殴り続けた親父が、あの日、ころっと死んでしまった。
酒瓶が右手の先に広がり、目をかっと見開いていた。
目は充血し、どこを見ているのかわからないが、天井を剥いている。
僕は障子に寄りかかったまま、座り込んだ。
手がガクガクと震える感覚を、産まれて初めて感じた。
親父の葬式は親戚がやってくれた。
と、いうかその時まで僕は、自分に親戚がいる事すら知らなかった。
僕は何が何だかわからないままに親父の死を迎えてしまった。
正直、悲しいのかもわからなかった。
死の現実味というものがまったくわからなかった。
本当は泣かなければならないのだろうと、幼心にもわかってはいたのだけれども。
代わりに思い切り睨みつけて、灰を顔に投げつけてやった。