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希と作った昼食はカレーライス、それにきゅうりとレタスとトマトとアスパラのサラダだ。
「紗菜って料理手馴れてるんだよ。この人数分のごはんを炊ききれないなあって話していたら、置いてあったおっきな圧力鍋でぱぱっと白米炊いてんの」
麦茶を配りながらの希の発言に、全員の視線がそちらではなく紗菜のほうに集まった。いっぺんに七人の異性から見られた紗菜は、近い距離から複数の男の子に注目を浴びることに不慣れなため、身をすくませるしかなかった。
「や、あの、鍋があったから借りただけで」
家ではいつも自分が食事を作っているとは言わないほうがいい気がした。女子力アピールなんて間違っても言われたくない。
紗菜がそれ以上の言葉を発しないとわかると、ふうんともへえともつかない声が漏れ聞こえた。話の続けにくい扱いにくい子と思われたかもしれない、と紗菜はまたもや自分を責めた。
紗菜は希がどんな人物かよく知らない。明るく笑っているようにみえるけれど、そこは女の子、些細なことがいつどんな形で悪口ややっかみに変貌を遂げるか知れない。親しくなるまでは注意するに越したことはない。だから、調子に乗るような発言はしなかった。
朝陽の弁を信じるとすると、希は軽いネタフリを冗談ぽくかわすというのだから、紗菜が口ごもってしまったこの種の受け答えもそつなくできるのだろう。
「なにが」
食器を洗うのにふたりになれたから、さっきの炊飯の話はどういう返事をするのが最良だったのかと恐る恐る尋ねた返事がこれだ。
「だから、あのね」
いま一度紗菜が説明すると、希は苦笑を浮かべて皿をすすぐ水を止めた。
「気にしすぎてるよ」
「そうかな」
「あたし、サッカー部の女子マネージャーなんかしてるとさ、男に媚びてるって陰でしょっちゅう言われんだよね。はじめのうちは、そんなことないよっていちいち言い返していたんだけど、途中からめんどうくさくなっちゃって」
「めんどう……」
希には通じないかと思ったがそうでもないようだ。女子マネージャーの仕事も紗菜が心配した種類の誤解を招きやすい。
「自分の時間を人のために費やしてるのに辛いね」
思ったことをもらしただけだったが、希は大袈裟なくらい両手を振って話を続けた。
「それはいいの、いいんだけどね。で、どうしたかというと、誇張して悪ノリしたり、目開けたまま寝てて聞き流したことにしたり、適当にごまかしていたわけ。バリエーション増えすぎて、おまえは芸人か、って彼に言われたこともある」
朝陽の言ったとおりだった。朝陽は希のことをよく見ている。淋しいような切ないような気持ちになった。部活が一緒なのだから、同じ時間を過ごしているのだから当然のことなのに、まざまざと見せつけられた気がした。
近づかなければこんな思いをしなくてすんだ。ただ憧れているだけでいられた。
「さっき、なんの話してたの」
自分の思いにかまけていたから、反応が遅れた。希がこちらを静かに見ていた。口元は笑っているが、目が観察する人の目になっている。
紗菜は警戒した。
「さっき、って?」
「朝陽と部屋にこもってたとき。なかなか帰ってこないねってみんなで話してたんだよね」
絶句する紗菜。みんなというのは課題に向かっていた面々のことだろうか。朝陽と戻ったとき、不自然な様子はなかった。
いや、なかったと言い切れるだろうか。戻る直前、紗菜は朝陽の言うことに翻弄されていて、ほかに気を回す余裕などなかった。
空気を震わす笑いの気配に、紗菜は希を見やった。嘘だから、と軽い調子で言われ、またもやからかわれたのだと気づいた。
「朝陽くんとは、好きな人の話を少ししただけ」
言ってから、話をちょっと大きくしちゃったかなあと思ったけれど、もう遅い。朝陽が相手だったときと違って、刃向うような態度を取ってしまった。そういうのは紗菜らしくなかった。
大した女の子じゃないと言われている気がしたのだ。朝陽がまともに相手にするような子じゃないと、言外に言われた気がした。そんなことは知っている。地味な自分のことなんて、誰よりよくわかっている。わざわざ念を押さなくても、そっとしておいてくれればいいのに。
朝陽の名前を出したとき、声が震えそうだった。みんながそう呼んでいる。男子生徒も女子生徒も姓ではなく名前で呼ぶ風習がクラスに定着している。それでも紗菜が朝陽を呼んだのは、当人のいない場所で会話のなかに出しただけであってもたぶん初めてだった。
わずかな緊張さえ希には見透かされそうで、紗菜はびくびくしながら希の反応を待った。
そうだったんだ、と希は感心したふうに言った。紗菜の発言をまるまる信じたようだった。
「あいつとそんなに仲良かったんだ。ああ、だからか。気心が知れてるから、朝陽は今日のこれに紗菜のこと誘ったんだね」
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午後から紗菜は座敷の隅に移動して、壁にもたれて漫画を読みふけった。サッカー部員たちの話題の切り替わりが早いうえに、会話のなかに知らない人物が次々に登場するので自然とそうなった。
多くを語らなくても通じる、紗菜だけが知らないあのときとやらの話を急に持ち出しては笑いが沸く。疎外感とも疎外そのものともとれるのを認めたくなくて、紗菜は漫画に没頭したふりをし、読み終えた本の山を高くしていった。
視線を感じなくもなかった。他ならぬ朝陽の視線。気にしてくれているかも、なんてあらぬ期待をするなんてばかみたいだ。そうじゃない。コミュニケーション能力の低い子とでも思っているんだよ。紗菜はふたりきりになったときの朝陽のデリカシーに欠けた発言を思い出して、甘い想像を打ち消した。
遠くから見ているだけでよかった。気持ちを言うつもりなんてなかった。誘導尋問みたいなあんなのは告白でさえない。
帰り道、上り坂に差し掛かったところで紗菜はようやくひとりになった。今日は思いがけずそばにいられた。だけど惨めだった。遠くから眺めているだけではわからなかったいろんなことがよく見えた。それがつらい。自転車を押しながら泣きそうになった。
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課題の問題集が一冊足りないのに気づいたのは、夕食を終えて風呂が空くのを待っているときだった。先に明日の学校の準備をしてよかった。まだ十九時をまわったばかりだ。紗菜は自転車を出した。
明日の新学期に学校で受け取ればいいかとも考えたが、課題を八月三十一日までやらずにいる人物が登校日に持ってきて確実に紗菜に返してくれる保証もない。
「それでわざわざ?」
再び寺を訪れた紗菜に、幹仁は最初はびっくり顔だった。玄関で突っ立ったまま紗菜を見下ろしている。
「ここにあったらいいかなと思ったのもあるんだけどね。私、誰の連絡先も知らないから、電話もメールもできなくて」
むきになってペダルをこいだから、紗菜の息は弾んでいる。サッカー部の彼にしてみたら、これしきの運動で疲労をにじませるなんてお笑い草だろう。
それでも紗菜には気にしなかった。乱れた息を隠す気は起らなかった。
「俺からみんなに話まわしておくよ。明日必ず持ってこいって。そんで、朝一番で紗菜に渡せって。そう言っとく。それでいい?」
多くを説明しなかったのに、幹仁は紗菜の言わんとしていることを理解してくれた。
「ありがとう。そうしてもらえるとうれしい」
念のために、と言われて、紗菜は言われるがままに幹仁と連絡先を交換した。
スマートフォンを後ろポケットにねじ込むと、幹仁は小首を傾げてみせた。
「じゃあなに、朝陽の連絡先も知らないの? 今日のこと、どうやって約束したの。朝陽が出しゃばってたけど、希が紗菜に頼んだとか?」
「それは、朝陽くんとたまたま学校で顔を合わせて、直接」
ああ、とそれだけで幹仁は納得したようだった。
「あいつならやりそう」
女の子なら見境なく気軽に声をかける人だと言われているようで、紗菜にはあまり楽しくない話だった。
沈んだ気持ちが顔に出たのかもしれない。
「せっかく来たんだし、漫画の続き、借りていけば? ハマってたよね」
「あ、うん。進化したあの必殺技がどうなのか気になる」
と、紗菜が言い終えないうちにぶはっと噴出した幹仁は、待っててと言い残して奥に消えると、漫画をひとやま抱えて戻ってきた。
「返すのいつでもいいよ。学校で渡してくれればそれでいいし。続きが気になったときはまた俺んちに来ればいいし」
漫画がおもしろかったのは本当だったが、幹仁には読んでいたときの紗菜の孤独までは察することができなかったようだ。さっき一瞬、勘のいい人かと思ったのにそうでもないんだな、と紗菜は頷くに留めた。
自転車とはいえ家に着くころには汗だくになっていた。入浴を済ませて空調の効いた居間でドライヤーを使っているところに妹が息せき切って飛び込んできた。
「お、お姉ちゃん。玄関に男の人がいる」
「はあ?」
「だから、男の人」
「なんの用だって?」
新聞の勧誘なら断ればいい、くらいの気持ちで紗菜は妹をあしらった。妹は紗菜のまえを動かなかった。
「わかんない。聞いてない。お姉ちゃんを呼んでる。山内さんだって」
山内と言われても誰なのかわからなかった。教室で飛び交う呼称は姓ではなく下の名前のほうだから、親しい人を除いてはフルネームでは覚えていない。
行けばわかるかと紗菜はドライヤーを切り、重たい腰をあげた。玄関に立つ人物を見て驚いた。朝陽だった。
「こんばんは」
はにかんだような表情で朝陽が話しかけてくる。
「はい。これ」
紗菜がなにか言うより先に差し出されたのは、探していた問題集だった。