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 梅雨時には人々の目を楽しませてくれたのだろう。自転車を脇に停めて寺の正門をくぐると、両脇には見ごろを終えた紫陽花が続いていた。ありがたげに刈り込まれた松の周囲には背の高い木が生い茂っており、降るような蝉の鳴き声が一向に尽きない。

 あの樹木がもう少しこちら寄りなら木陰にもなっただろうにね、と上ばかりに注意を払っていた紗菜さなは入口を探そうとして石畳の凹凸に躓きそうになった。急いで周囲を窺ったが、誰も見ていない様子だ。

 難癖つけてごめんなさい、と心の内で詫びてから、住居のありそうな脇道に入った。


 家の住人は、まるで窓から正門を見張っていたのではないかと思うくらいちょうどいい頃合いに玄関に現れた。自転車の置き場所を言われるままに移動させてから寺の居住空間に立ち入り、廊下を突き進む。紗菜は汗ばんだ首に張り付いた数本の髪を払いながら、背の高い後ろ姿を追った。

 彼の名前は確か幹仁みきひとだ。自信がないから、誰かが呼ぶまでは声に出さないでおく。

 閉ざされた襖のあちらから複数の男性の笑い声が聞こえてきて、それだけで紗菜の身体に緊張が走った。開けるね、と前に立つ彼が振り返ってくれたので気分が少し楽になった。続いて座敷に足を踏み入れた。


 浅黒く日焼けした男の子たちが一斉にこちらを向いた。怖じ気づきながらも紗菜の目は奥から二番目に座る人物に吸い寄せられるように止まった。いた、と思った。ほっとした。来る約束になっていたのだから、いてもらわなければ困る。紗菜は挨拶を済ませると入口近くの端に座った。

 持ってきたトートバッグからテキストを出しながら、にやけそうになるのをこらえる。制服か体育着か練習着しかみたことがないから、襟付きの半袖シャツ姿が新鮮だった。Tシャツも似合うけれど、きちんとした感じのあるカジュアルな服装は特にいいと思った。

 彼の名前は知っている。朝陽あさひだ。サッカー部で春からレギュラーの座を勝ち取った。紗菜とは同じクラスだ。


「朝の寺の空気って清涼感あふれてるな」

と発言したのは、当然のことながら紗菜ではない。朝陽の向かい側にいる男性、もとい男子高校生のうちの一人だ。見覚えがないから、他所のクラスの生徒だろう。

「悪りぃ、人数多いからクーラー強めてある」

「ンだよ、そっちかよ!」

 笑い声がはじける。

 紗菜にはいまの一言のどこがそれほどおかしかったのか、よくわからなかった。



  *


「いま、ひとり?」

と昨日朝陽に声をかけられたとき、紗菜は呼ばれているのが自分ではない気がした。まるでナンパのような口調だったし、クラスでも挨拶程度にしか口を利いたことがなかったしで、青天の霹靂というやつだった。

 後ろを振り返りもせずに、紗菜は頷いた。

「他の部員もいたんだけど、しばらく戻らないと思う。みんな、彼氏のところに行っちゃったから」


 紗菜の所属する調理部は、その日が夏休みの最終活動日だった。出来上がった桃のシャーベットを恋人と一緒に食べると言い残し、四名の他の部員たちはいそいそと調理室を出ていった。こういうことはよくあることだった。紗菜は慣れっこだったし、かえって都合がよかった。退屈そうに窓の外をぼんやり眺めるいい理由になる。

 グラウンドはいくつかの運動部が使っていて、なかでもサッカー部が一番こちら寄りで練習をしていた。強豪なのかどうなのかは知らないが、楽しそうにボールを蹴る集団を見ているうちに、お気に入りの人ができた。それが同じクラスの朝陽だった。

 それから紗菜は教室にいるときも朝陽を意識するようになった。特殊なレーダーが急に身体についたように、朝陽が室内のどちらにいるのかわかるようになったし、机と机のあいだの狭いところをすれ違うとき、ひとりで勝手にどきどきしていた。



 その朝陽が調理室の窓の外から話しかけてきたのだ。

「それ、作ったの? うまそうなんだけど」

 なんだ、と紗菜はがっかりした。食べ物につられただけか。真夏の炎天下、グラウンドを駆け回った身にはどんなシャーベットもおいしそうに映るに決まっている。

 事実、窓越しの朝陽の目は紗菜の手元に釘づけだった。ガラスカップに入った白いシャーベット。

 わかりやすく食べたい態度を示してくれたので、紗菜はこう言った。

「部活でさっき作ったんだ。食べてみる?」

「食べる。あ、でもひとくちでいいや。用件忘れそうなんで」

「え」

「これでいい」


 朝陽は紗菜のスプーンを勝手に借りると、紗菜の食べかけのシャーベットをすくって口に運んだ。朝陽のためにスプーンを取ってこようと振り返った矢先の出来事だった。間接キスと思っていいのかどうか。やった当人が平然としているのだから、こちらもなんでもないことにしなければ。

 さすが体育会系と結論づけ、紗菜が平常心を呼び起こそうとしていたところ、今度はこんなことを言ってきた。

「紗菜っていつもグラウンドを見てるよね」

「あ、うん。まあ」

「サッカー部に誰か気になる相手でもいるのかと思って」

 指摘に言葉を失った。気づかれていた。


 正直なところ、そこから先の朝陽の話は断片程度にしか覚えていない。

 明日、サッカー部の仲間で手つかずの夏休み課題を仕上げる勉強会があるとかなんとか。場所が寺だとか。

「終わっているヤツの数がたりないんだ。人助けだと思って頼むよ」

と言うからには、紗菜にも課題を持ってきてほしいということなのだろうし、

「来なかったら、いつもグラウンドを見ているとみんなにばらすから」

というのは、人に物を頼むときの態度ではない気がした。

 溶けかけたシャーベットと朝陽が使ったスプーンを持ったまま、仕方なく紗菜は了承したのだった。



  *


 紗菜の持ってきたノートや問題集は、ほかの人のぶんと一緒にあっという間に奪われて手書きによる複写対象となった。

 人数は紗菜を除くと男子が七名、女子が一名だった。といってもその女子はサッカー部のマネージャーなので、紗菜だけ場違いであることに変わりはなく、居心地は決していいとは言えなかった。

 その訳知り顔の女子、マネージャーののぞみは一応気を遣ってくれたのだろう。スマホに視線を落としたままで、紗菜に言った。


「好きにしてていいからね。なんなら、幹仁の部屋の漫画でも読んでる?」

 どうやら寺の息子の名は幹仁で合っていたようだ。

「えっと、どうしようかな」

 そうしなよ、と紗菜にとってのこの場においては一応の心のよりどころである朝陽がテキストから顔をあげた。

「幹仁、部屋に案内していいか?」

「なんでおまえが案内するんだよ。俺が」

「紗菜に声かけたのおれだから。見られちゃやばい本とかあるなら、とっとと隠してこい。三十数えたらそっち行く」

「だからなんでおまえが仕切ってんだよ」

「いーち、にーい」

「げ。待て、待ってろよ、くそ」

 どうやら朝陽は寺の息子の幹仁とそれなりに仲がいいようだ。



 朝陽の先導で通された部屋に足を踏み入れるなり、紗菜はきょろきょろと室内を見回した。

 畳の上には漫画本が山積みになっており、ごみ箱のそばには空のペットボトル容器がふたつ転がっている。ベッドの脇には畳まれた衣類と開封済みのスナック菓子が置いてあった。小学校からの付き合いと思しき学習机にも雑誌やプリント類が散乱していて、やはりというべきか、本来の目的を果たしていない様子だ。


「紗菜、男の部屋に入り慣れてないだろ」

 壁際に立つ朝陽が興味深そうに紗菜を見ていた。

「どうしてわかるの」

「どう、って」

 おかしそうに朝陽は笑う。

「見ればわかる」


 紗菜が自分から部屋の物に触ることはなかった。紗菜が動くより先に朝陽が本棚の漫画を出しながら、それぞれの作品紹介をはじめたからだった。

 紗菜は少年向けにしては絵柄のきれいなサッカー漫画を選んだ。連載中で四十巻を超えるものと聞かされ本棚に戻そうとしたが、かといって他にこれといったものも選べなくて、結局それを五冊ほど読ませてもらうことにした。



 本が決まり、下の階の座敷に戻るかと思いきや、朝陽はベッドに腰を下ろした。

 初めて訪ねた男の子の部屋ということもあって、紗菜はなんとなく単独行動をとりづらかった。朝陽ひとりを残して戻っていいのかと躊躇した。

 朝陽はなにも話しかけてこなかった。枕の脇にあったスポーツ専門紙をめくっている。


 こちらからなにかを言うのも少し勇気が必要だった。勇気と呼べるほどのものでもないかもしれないが、このときの紗菜にとっては勇気には違いなかった。仕方なく窓際に移動して朝陽と距離を取り、本を開いたり部屋を見渡したりしていた。

 エアコンが備え付けられていたが、勝手につけていいものかわからなかったし、朝陽に部屋に長居をする気があるのかも判断がつかなかった。これで窓が閉められていたら最悪だったが、幸いなことに開け放たれていたため、体感としての暑さは気にならなかった。

 蝉の声だけがひっきりなしに続いている。


 

「今日は予定なかったんだ?」

 突然だったので、ひとりごとかと思った。ちょうど朝陽がこちらを向いたところだった。

「うん。外は暑いし、家でだらだらするつもりだった」

 紗菜は正直に答えた。

「ふーん。デートとか行かないんだ?」

「は?」

 今度は言葉に詰まった。時間がたってから、ようやく、

「そんな相手いないから」

と言った。

 雰囲気を盛り下げてしまった。紗菜の心を気まずさが満たしていく。

 ふーんと言うだけの朝陽をまともに見られない。


 反面、頭の中は朝陽がなぜ紗菜のデートの予定などを聞いてきたのかと疑問でいっぱいになっていた。

 聞くならいまだ。時間をかけちゃいけない。紗菜は朝陽を真似て問い返した。

「デートには行かないの?」

 声が裏返ったが、構わず朝陽をじっと見た。少しの変化も見逃さない覚悟で。



 紗菜の努力は実らなかった。

「サッカー部は秋から大会がはじまるんで、そんなヒマない」

 だいたい紗菜は声の変化に気づくほど朝陽としゃべったことはない。それに朝陽はまた雑誌に目を落としてしまったので、顔色はおろか表情さえ読み取ることができなかった。

 質問の意図はなんだったんだろう、と紗菜は落胆していた。意識して外の景色を眺めた。深い緑色に生い茂った木々。それに紗菜やクラスメイトたちの自転車が見える。

 関心があるから聞いてきたのかと思った。そうでないなら、よくあるご機嫌伺いのような社交辞令ということになる。


「紗菜は」

「あ、はい」

 振り返った紗菜は、そこでようやく朝陽がまじまじとこちらを見ていたことに気づいた。

「紗菜はおれにデートの相手がいるのか、気にしてたとか?」


 朝陽はにやりと笑う。どこかずる賢こそうなところの残る笑顔だった。紗菜は活き活きとした目に射抜かれたようになって、息をするのを忘れた。遠いところで誰かの鼓動が聞こえる。それは自分の心臓の音だった。 

 とっさに言い返すこともできず、視線を逸らしたくても逸らせない。どこに目を向けたらいいのかもわからない。思考のすべてを奪われたように棒立ちになっている。

 急速に顔に集まった熱で、いまきっと自分は赤面していると自覚した。これでは朝陽に見透かされる。


「当たり、か」

 朝陽も朝陽で、一瞬は驚いたように表情が固まったものの、すぐに笑みを取り戻していた。



 沈黙が苦しい。うるさい蝉の声ばかりが聞こえる。紗菜は狼狽しながらも、さぐりをいれるなんてひどいと心のうちで朝陽を非難した。

 そんなつもりじゃない、といまさら言い訳しても信じてはもらえないだろう。


 のりが悪いと言われているようで落ち込む紗菜に、朝陽は手元の雑誌を閉じて意外なことを言った。

「冗談ぽくかわしてくるかと思ったんだ。希なんかいつもそんなだし。まさか真に受けるなんて思わなかった」

 紗菜が顔をあげたところに優しい言葉が降りてきた。

「紗菜って素直なんだね」


 語りかけるように言われてぽかんとしてしまった。さっきまでのずかずかと踏み込んでくる発言とはえらい違いだった。これはこれでどうしたらいいかわからなかった。

 部員の呼ぶ声が聞こえてきて、ふたりはみんなのいる部屋へ戻った。紗菜はいまので助けられたような邪魔をされたような複雑な気持ちだった。


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