老竜の記憶と遺産を継し娘
霞かかった意識の中、それでも、彼は己を繋ぎ止めようとしていた。
消える訳にはいかない。
留まり続けなければならない。
まだ。
――今は、まだ。
その理由さえ、霞の向こうに呑まれても、それでも、彼は在り続ける。
時間の感覚さえ忘却に浸食された彼は、懐かしい気配に顔をあげた。
何故、懐かしいと思ったのか。
どうして、行かなければいけないと思ったのか。
何もかもが零れ落ちても、彼は、己の心に従った。
◆◆◆
「あー、めしは~?」
「さっき木の実食べたよね、おじいちゃ~ん……」
ぷるぷると震えながら首を傾げる手のひらサイズの白竜に、エリタージュは肩を落とした。
ピンクブロンドと緑の瞳が特徴の一族出身のエリタージュは、しかし、混血故に瞳の色が同族と異なっていた。
コンプレックスの灰色の瞳に、心の汗が滲むのを自覚しながら、彼女は自らの非才を呪う。
授業の一環で招喚したエリタージュの使い魔は、老いさらばえた白竜だ。
竜と言えば使い魔の中でも強力な部類に入るはずなのだが、エリタージュの使い魔の場合、己の名すら忘れるなど、大分痴呆が進んでいる。
その為、まれに正気に戻る時を除き、大概は役に立たってくれないのだ。
ぼけぼけ老竜は、エリタージュが同級生から馬鹿にされる一因となっている。
さっさと使い魔契約を解除した方が良いと、教師にも進められたものの、老人への敬意を叩き込まれたエリタージュは、そうする踏ん切りが付かなかった。
……よぼよぼの白竜は、使い魔契約を解除して放り出してしまえば、そのままぽっくり逝ってしまいそうだったので。
――大陸でも有数の名門校である、スフィダンテ魔導学園。
独自の文化を継承してきた一族の末裔であり、その知識の全てを修めたエリタージュは、知識の伝承と引き換えに、学園への在籍を許されていた。
但し、エリタージュは、万年落第すれすれの劣等生であるが。
元々、彼女は、補欠合格候補の末席に引っかかる程度の才能しかないので、当然の結果とも言える。
そんなエリタージュが、どうして学園に在籍しようと思ったのかと言えば、単純に将来のためだ。
如何に一族のしきたりや、祭祀の知識が全部頭に入っていようと、ただそれだけでは、飯は食っていけない。
日々魔道技術が進歩していく大陸では、古くより連綿と引き継がれてきた風習や文化などは、廃れていく一方であった。
エリタージュは、刺青が施された己の腕を見ながら、溜息を吐く。
繊細な線で描かれた、一族伝統の刺青は、色鮮やかにエリタージュの白い肌を彩る。
手の甲や腕だけならともかく、エリタージュの様に、顔やら胴やら、全身に刺青を施す人間は今時の一族の若者には皆無だ。
また、刺青をしているだけで、一族以外の人々に裏の人間と誤解されがちなので、エリタージュは一族の伝統に足を引っ張られがちである。
それでも、混血の自分が一族の一員であると思っていたかったから、エリタージュは刺青を入れたことを後悔はしていない。
ただ、そういう自分を、受け入れてもらえないことが、寂しいだけで。
「ご飯はまた後でね、おじいちゃん」
「あ~?」
そう言って、エリタージュは、特製のポシェットに入れた使い魔の頭を撫でる。
エリタージュの使い魔は、肩に乗り続けることすら困難な為、怪我をしないよう、柔らかい布を敷き詰めたポシェットに入れて連れ歩いているのだ。
また、たまに粗相もしてしまうため、交換用の布は外出時に必須だ。
ぶっちゃけ、いない方が何かと楽な使い魔である。
だが、エリタージュには、使い魔の介護をしていると気が紛れる部分があった。
学園は最新の技術や文化を積極的に取り入れているので、エリタージュが育った環境とは、あまりにも違い過ぎる。
迂闊に思考を開けてしまうと、エリタージュは、自分だけが世界から切り離された気分になってしまうのだ。
エリタージュは、気を取り直して辺りを見回す。
鬱蒼と生い茂る木々の中に、目当ての薬草は見つからない。
下手な貴族の領地を軽く上回る、広大な学園の敷地の一角に存在する大森林。
毎年、遭難者が続出する場所だが、田舎と言うより、秘境と言う表現が似合う場所で生まれ育ったエリタージュには、庭の様なものだった。
危険な獣や魔物もいるにはいるが、エリタージュは隠密が得意なので問題はない。
彼女の戦闘実技の評価は、下から数えた方が早いけれども。
エリタージュの目的は、薬学の実習に使用する薬草の採取だ。
学園内の市場でも手には入るのだが、生憎と、エリタージュは万年金欠気味でもある為、ただで手に入るに越したことはないのである。
劣等生のエリタージュは、成績優秀者向けの奨学金が受けられないので、主な収入源は、彼女の一族の文化を研究している、学長の調査協力費ぐらいなのだ
既に亡くなった父は、貧乏研究生で遺産など無きに等しいし、元々貧しい土地である故郷にいる母に、仕送りなど頼めるはずもない。
学園では苦学生向けにアルバイトも斡旋しているが、残念ながら、エリタージュは全身の刺青のせいで継続的に働けるものは全滅だった。
素材の採取や、数少ない知り合いに紹介される、単発のアルバイトによって、エリタージュは何とか赤字分を補っている。
薬草を採取しつつ、森の中を歩いていると、視界が開けた。
透明な水を湛えた水辺には、湿地特有の生態系が形成されている。
飲料に適した水がある場所は、水を飲みに来た獣や魔物と鉢合わせする危険性があるのだが、今はその心配をする必要はなさそうだ。
湿気を帯びた、だが淀んではいない空気に、エリタージュは心が軽くなる。
故郷で、神が住むとされた池の周りの空気に似ているのだ。
『偉大なる大魚』と呼ばれる神を見たことも、会ったこともないが、神の棲み処には、エリタージュを受け入れてくれているような気配があった。
「――神の恩寵が、色濃いのぉ」
ふがふがと、不明瞭な声を発していた使い魔が、唐突に呟く。
「嬢や、この場の素材は品質が良い。 使えそうなものを、多めに採取するが良かろ」
「え? あ、ありがとう、おじいちゃん」
いきなり使い魔がまともなことを話したことに驚く、エリタージュ。
そんな彼女を余所に、白竜はぽてりともたげていた首を落とした。
エリタージュは、素直に使い魔の助言を受け入れ、換金できそうな素材を探しはじめる。
彼女の使い魔は、いつもは介護が必要なぐらいボケまくっているが、たまに話すまともな話は、とても的確なのである。
程なくして見つけた薬草は、割と高値で取引されるもので、エリタージュはほくほくし顔で採取していた。
採取もひと段落し、見上げた空の太陽の傾きで、そろそろ帰る頃合いだと、エリタージュが判断した時。
――白い巨体が、空を過った。
「――え?」
身に纏う鱗は、エリタージュの使い魔とは異なる光沢を帯びた白。
老竜と似た体躯の、しかし、エリタージュが住んでいる小屋の数倍はあろうかという巨躯。
被膜の翼が、虚空を切り裂く。
威圧のある外見の中で、蒼銀の瞳は、酷く穏やかな印象を与えた。
『――じっさま、見つけたっ!!』
安堵したように吠えた白竜は、そのまま空中で身を捩り。
――何故か、錐揉みして水辺に突っ込んだ。
盛大に跳ね上がった水飛沫に、エリタージュは荷物ごとずぶ濡れになる。
「……おじーちゃん、知り合い?」
「あー、……誰だったかのぉ~?」
エリタージュの使い魔は、ボケのターンに入ってしまった。
白竜が墜落した辺りで、ざぶりと、水音がする。
エリタージュと同じくずぶ濡れなのは、若い男だ。
髪は、墜落した竜と同じ白で、瞳は蒼銀。
人ならざる者が、魔法によって人の形をとった場合、基本的に髪や瞳の色は本体の色に準拠する。
容姿は、中の上と言ったところ。
エリタージュの苦手な、一族直系筋の少女が侍らしている男どもよりは、親しみやすい印象だった。
エリタージュとは違い、己の能力のみで学園に入学した族長の愛娘は、瞬く間に『ぎゃくはーれむ』とやらを形成していた。
彼女に纏わりつくのは見目麗しい男中心だが、癖のある者ばかりで、エリタージュは近付きたくもない。
ぎゃくはー女と同じ一族と言うことで、エリタージュが異性に話しかけるだけで厳しい視線を浴びるのだから、とんだ風評被害である。
青年はエリタージュを見て、ばつの悪そうな顔をする。
「……すまない……」
一応、エリタージュを濡れ鼠にしたのは、故意ではなかったようだ。
青年は、エリタージュのポシェットに目を留め、ほっとしたように頬を緩めた。
「じっさま、無事でよかった」
「あー、……あいと~、元気じゃったか~?」
漸く思い出したらしい老竜に、青年は笑顔で頷く。
「じっさま、三百年も待たせたけど、言われたことはできるようになったんだよ。 ――だから、じっさまの事、教えれくれよ」
切実な響きさえ感じさせる青年の言葉に、老いた竜は首を傾げた。
「――あー、何だったかのぉ~?」
「……え……?」
ぱちぱちと、火の粉が爆ぜた。
慌てて作った焚火の前で項垂れる青年に、エリタージュは携帯用の薬缶で作った茶を渡した。
ずぶ濡れにされた恨みはあるが、落ち込む人間に追い打ちをかける程、エリタージュは性格が悪くない。
アイト、と言う名の青年は、エリタージュの使い魔の曾孫だと語った。
曾祖父に育てられたと言う彼は、三百年の修行中に、いつの間にか行方不明になっていた曾祖父を必死になって探していたらしい。
本来、エリタージュには、人化可能な能力を持つ人外を使い魔と契約できる力はなかったのだが、アイトの曾祖父の能力の減退が著しかった様だ。
老化が進んで、アイトの修行明けに教える予定だったらしい何かを、完全に忘却している。
浮かない顔のアイト曰く、それは曾祖父にとって、とても大切なものであった様だ。
血縁を殊更大事にする竜でありながら、そのことを守るため、我が子達と決別する程に。
老いたる竜からそれを受け継ぐはずだった長子は、人間の少女と真実の愛とやらに目覚め、己の役割を放棄した。
結果、長子と少女の婚姻を執拗に反対する父親に、他の子供達も愛想を尽かしたらしい。
――彼が背負っていたものを、守ろうとしたものを、誰も知らないままに。
何故かと言えば、何でも、それについて知る為には、かなり厳しい条件を達成しなければいけないようであった。
それこそ、アイトは、その条件を満たすのに、三百年もかかっている。
三百年と言うのは、長命種の代表である竜であっても、雛から成竜になるのに十分以上の年月である。
それほど厳しい条件だ、老いてしまった竜が、実の子供にさえ伝えられなかったことも、仕方があるまい。
ただ重要なはずの知識が、誰にも伝えられずに途絶えようとしている現状を見るに、エリタージュはもう少し緩くすれば良かったのに、と思わなくもないけれど。
唯一知っている筈の曾祖父は、ぼけぼけで頼りにならない。
――諦めてもいい筈なのに、アイトは諦めきれないらしい。
「知りたいんだ」
言葉は、真摯で、深い渇望が垣間見えた。
その渇望は、エリタージュにも覚えがあるもの。
「じっさまが、何を背負っていたのかを。 ――ずっと、家族がバラバラになったことを悲しんでいて、他の皆に捨てられるぐらい駄目な俺を拾ってくれる程、優しいんだ」
血族から見放され、孤立して尚、それでも選んだ何か。
「……出来るなら、一緒に背負いたかったんだ」
声を絞りだす青年の手に、小さな白竜の鼻先が触れた。
「あいと、泣かんでよい。 じっさまは、がんばるからな」
「おじいちゃん、頑張りすぎなくてもいいのに」
なんせ、エリタージュが軽く撫でるだけで、ぽてんと地面に転がるくらいよぼよぼなのだ。
「……エリタージュ殿、俺とも契約してくれないか?」
蒼銀の瞳が、エリタージュを見据える。
「もしかしたら、じっさまは何かを思い出すかもしれない。 ――貴女の傍にいることを許してくれるなら、俺は、俺の全てを以て、貴女の力になる」
「……おじいちゃんとの契約を解除しろとは、言わないのね」
求婚まがいの嘆願に顔を赤くした、エリタージュの指摘に、アイトは苦笑をこぼす。
「ずるいだけだよ。 じっさまが、貴女との契約の解除をするときの負担に、耐えられる気がしないから、代わりに俺が貴女と契約しようと思っただけだ。 ……竜が人間と共に在るには、理由が必要なのだろう?」
確かに、そこらをうろうろしている野良竜は、人に危害を与えかねないと、討伐の対象になってしまう。
見知らぬ者の悪意から身を守る為には、契約するのが一番良い。
学園では、他者の使い魔を害することは、即退学もあり得る禁止事項だ。
何となく、ばつの悪い思いで、エリタージュは青年から目を逸らす。
「あたし、たいして強くもないし、賢くもないわよ」
「別に、そんな事は求めていないが」
「……こんな形だからさ、知らない人から、色々言われたりするの」
「貴女の刺青は、一族の証明ではないのか? それに、醜いとも思わないが」
アイトの言葉に、エリタージュは少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。 でも、君みたいなひとは、少数派ってことだけは覚えておいて。 あたしって、刺青で勘違いされやすいから、美味しいものはあまり食べられないかも」
「それでも、貴女の傍で、じっさまは健やかに過ごせていた」
アイトの骨ばった掌が、エリタージュの手を包み込む。
「――ありがとう。 じっさまに、優しくしてくれて。 それだけでも、俺が貴女の力になるのには、十分な理由なんだ。 それに、貴女が思う程、俺も力が強い訳じゃない。 ――俺は、古代魔法しか使えないから」
「……骨董品みたいな技術、よく使えるわね」
古代魔法は、威力が適性に大きく左右されることと、制御の難しさ、魔力の変換効率の悪さから、とっくの昔に廃れた技術だ。
多種多様な人材が集まる学園でも、古代魔法を使いこなせる者は限られる。
「じっさまに教えてもらって、三百年も修行すれば、何とか扱えるようにもなるさ」
アイトは軽く言うが、それもまた一つの才能であろう。
出来るまでやる。
そんな単純な事でも、誰も彼もが実行出来るなら、挫折と言う言葉は存在しないのだ。
「君も、物好きね。 今の魔法の方が、ずっと使い勝手がいいのに」
だが、エリタージュは、物好きが嫌いではない。
エリタージュとて、廃れゆく一族の文化にしがみつく物好きなのだから。
「じゃあ、これからよろしくね、アイトさん」
「こちらこそ」
彼らは知らない。
自分たちが継承するものの価値を。
――世界の調和を司る神々の一柱である、『偉大なる大魚』に仕える一族の末裔と、世界の安定を司る楔の後継者。
人々が忘れ去った事実に彼らが向き合うまでは、今しばらくの時間が必要であった。
*ネタバレ*
・エリタージュ
『偉大なる大魚』に仕える一族の末裔。
混血故に、アイデンティティーの為、一族の風習に固執している。
一族のしきたりなどは、『偉大なる大魚』の巫覡として最適化する為のツールなので、現在唯一の巫覡であったりする。
『偉大なる大魚』だけでなく、この世界における神は、巫覡なしに世界に干渉できない。
多くの神々が巫覡を失い、世界を調整出来ないため、色々と不具合が起こりつつある。
・おじいちゃん(じっさま)
世界の安定を司る楔の役割を負う老竜。
現存する唯一の楔で、彼が死んだら、災害が頻発することは確実。
楔になる為には、古代魔法を扱えることが必須。
その為、他にも多くいた楔は、継承できずに断絶してしまった。
長子に楔の役割を継承する前に、後継者を失う羽目になる。
世界を混乱させるために楔を狙う輩もいるため、自分の子供達には何も教えられなかった。
・アイト
楔の後継者。
現在の楔の曾孫。
主流の魔法が使えず、周囲に見限られた為、曾祖父に育てられた。
実は古代魔法一本に才能が固定化されていた。
曾祖父が知っている古代魔法を全て扱いこなせるまで三百年かかったが、他に比べれば、異常に早い期間だった。
曾祖父がボケボケの為、楔の継承に必要な知識が得られず、困っている。