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#55 阿法典清の受難2

「え、まだ全員いるんですか?」


 部屋の前にあるホワイトボードの名札を見て驚いた。全部で二十枚くらいある。

 一番上の名札を除いて全部在室になっている。


「この時間にいないのは教授くらいかな」


 助手が笑いながら言う。

 夜の十二時なんですけど。ブラック企業じゃねーんだから帰れよ。


「阿法君は一番奥の実験台にいるわ」


 助手の先導で実験室の中を進む。


「おおぉ……」


 実験台を横目に思わず声が出る。たくさんの薬品瓶に小さいのから大きいのまでガラスバイアルが乱雑に並んでいる。そこらじゅうにガラスフラスコが転がっていたり、器具で固定されたフラスコの中で何か回っていたり、やたら長いガラスの筒に白い物体が詰められている。


「きったねぇ」


 ガラス器具に加え、粉とか液体とか付着物とか、とにかく乱雑に色々なものが実験台に溢れていた。その前に立った学生だろう一人が、フラスコの中身を金属さじのようなものでコキュコキュと擦っていた。


「誰も白衣とか着てませんね」


「対外的には着てますよ。普段は着てる人なんていないけどね。……ここよ。阿法君、お客さん」


 そこもさっきの実験台とほぼ同じだったが、いくつか違っていた。

 実験台の前に座っている男が一瞬だけこちらを向く。


「誰かね?」


 銀縁のメガネをかけたひょろ長い気難しそうな男だった。

 こいつが阿法清明か。顔色は悪いし、頬はこけている。が、元々こういう面です、と言われれば納得できるかもしれない。こいつから発せられる雰囲気というかオーラはみたいなものからは病気だとは分からない。

 俺は背筋を正す。


「阿法典清の同級生です」


「ほう。そうかね。それで私に何のようだね」


 清明はこちらを見ず答える。

 清明は常に手を動かしていた。小さい瓶からピンセットで長方形の何かを取り出したり、目の前のフラスコに薬包紙上の粉体を入れたり、実験台の上に立っている太い金属製の筒にピペットで何かの液体や入れたり、とにかく手が止まる様子がなかった。


「あなたの具合について伺いに参りました」


 そこで清明ははじめて手を止めた。俺を見て、次いで傍にいた助手に目をやる。


「佐伯さん。悪いがこの少年と内密な話がある。はずしていただけると有難い」


「あ、はい、すいません」


 清明に言われて、助手は慌ててその場から立ち去る。

 なんかどっちの立場が上か分からなくなるやり取りだな。


「言いたいことを言いたまえ、少年。と、その前にこれを掛けたまえ」 


 清明は俺にプラ製の保護メガネを渡すと、再び手を動かし始める。

 さっきから思っていたけど、こいつ阿法の口調とそっくりだな。


 いや、違うか。阿法の奴がこの兄貴の口癖を真似ているだけか。


「あんたの弟に聞いた。後三ヶ月で死ぬそうだな」


「ああ、それがどうした」


 あっさりと肯定しやがった。

 清明は立ち上がって轟々と音のするサッシ付き実験台まで移動すると、そこにある二十個くらいの化学反応中(?)のフラスコの一つから溶液をサンプリングする。


「阿法はずっとあんたへの劣等感を抱えて、それでもあんたを目標に生きてきた」


「ほう。それで?」


 サンプリングされた液体の一部は真っ白い長方形の小さい板に供され、板は少量の液体の入った小瓶に入れられる。


「あんたがここでくたばったら、あいつは何を目標に生きればいい?」


「知らんな」


 清明の動きには一切の無駄がない。次に何をするのかをすべて把握し、機械のごとき正確さで動いているようだった。


「真面目に聞いてんのか、こら!」


 まるでこっちの言うことを聞いていないような清明の態度に嫌気が差して、俺は彼の腕をつかんだ。


「離したまえ」


 俺はすぐさまパッと手を離す。全身の毛が逆立つような殺気とも怒気ともつかない凄まじく強い感情に圧された。

 清明は元の作業に戻る。


「すまないね。話は聞いてる。しかし手を止めて向き合って話している時間はない。私の身体はいつ動かなくなるか分からない。身体が動くうちに何としても最終化合物までもっていく必要がある」


 清明は金属筒に蓋をすると、近くにあったガスボンベをキャスターで移動させる。レギュレーターのホースを金属筒に直結させて高圧ガスを金属筒内に導入、充填した。


「君は私が何を研究しているのか、知っているかね?」


「天然物の全合成が、うんたらかんたら。ガンに効く薬を創ったりもするんだよな。でも、今あんたがそれを必死でやっても手遅れだろ」


 ここに来るまでに研究室のホームページを確認した。確認したが、半分以上ちんぷんかんぷんだった。何でも自然界から取れる極微量の複雑な構造をもった化合物があって、それが身体に色々と良いらしい。それを人工的に作ってドヤ顔するのがこの研究室の目的らしい。


「そこに私が作っている化合物の最終構造がある」


 清明は目線で俺を促す。透明アクリル板サッシにはマジックでゴチャゴチャと書いてあった。その大半を占めるのがある一つの構造式だった。


 うん、良く分からん。ホームページで見たような構造式だが、ここに書いてあるのはさらに複雑で、かつ大きかった。


「分子量が三千を超え、百以上の不斉点をもつ怪物。全合成は登山のようなものだ。頂点を目指すために一歩一歩登る。近道などない。適切な道を確実な方法で進むのだ」


 喋る間も清明の手は細かく動いていた。


「誰かに引き継いでもらえばいいじゃねーかよ」


 それでこいつが納得するとも思えないけど。


「先輩。TLCなんですけど」


 その時、一人の男子学生がオドオドしながら清明の元にやって来る。男子学生の手には長方形の小さい白い板があった。

 清明はそれを指でつかむと実験台に置いてランプのようなものを当てながら、板を子細に観察する。


「原料は消えてたんですけど――」


「これは駄目だな。55位の保護基が外れている。一応MSとNMRで確認したまえ」


 清明の言葉を聞いた男子学生の顔面が真っ青になる。


「す、すいません! すいませんでした!」


 男子学生が絶叫して頭を下げる。

 周りで実験している生徒たちが気の毒そうにこちらを見ている。


「詳細な手順を後で聞こう。まずはプロダクトの確認だ」


 それに対して清明は冷静そのものだった。口調も男子学生を咎めるものではない。板を男子学生に返し、元の作業に戻る。


「彼は優秀な学生だ」


 お前も学生だろ。


「私の下には五人付いている。ただ、最前線で道を切り開ける者がいない。今の彼にはちょうど百ステップ目の収率改善を任せているが、相当なプレッシャーのようだな。他の者と同じように原料の量上げにまわすしかあるまい」


 つまり、こいつがいなくなったらこの研究自体が進まなくなるのか。


「その研究はどこまで進んでるんだよ」


「予定では百九十段階で完成するが、いまは百三十の手前だ」


「いつから始めたんだよ」


「本格的に動き出したのは二年前だな」


 単純計算しても完成するのは絶望的だ。


「ここからさらに合成の難易度は加速度的に上がる。アシル化一つ満足に出来ない本当の地獄が待っているだろう」


 じゃあ、もう無理じゃねーかよ。いや、それでもやるつもりだぞこいつは。

 なんと、笑ってやがる。自虐や諦めの笑いではない。不敵の笑みだ。


 俺はただただ呆れた。こいつには何を言っても無駄だ。


「これを持ってフラスコの底を手の平で温めたまえ」


 何の前触れもなく清明が俺に10ミリリットルくらいの底の丸いフラスコを渡す。

 フラスコの中には小さい俵型の物体が入っていた。

 清明は天秤に向かうと、次から次へと謎の粉の重量を量って、俺が持っているフラスコに投入していく。


「ふむ」


 フラスコの様子をしばらく凝視した清明はサッシ付き実験台にあるオイルバスのつまみをいじる。


「ご苦労。もういい」


 清明はフラスコの口をもって底をオイルバスに漬ける。


 柱の時計を確認すると、一時を過ぎていた。

 俺はここに来るまでに阿法の兄貴がどういう人間なのか想像していた。何でもできる完璧超人にして、阿法典清とは異質の存在。


 想像と実際とはかなり違った。

 こいつは阿法と似ている。超然とし、余裕を常に見え、何でも簡単にこなしてしまいそうな雰囲気がある。

 いや、違うか。阿法が兄貴を真似てきたんだ(さっきも同じこと思ったな)。


 阿法と違うとしたら一つ。こいつの恐ろしいまでの執念。それは阿法には感じなかったものだ。

 俺の中で何となく考えがまとまってくる。


「邪魔したな。もう帰る。最後に一つ答えろ。あんたにとって阿法典清はどういう人間だ。奴にどうなって欲しい?」


 清明は巨大な水滴を逆さにしたような形のガラス器具を上下に振りながら答えた。


「あいつは私に似ている。が、あいつにはあいつの道があろう。私にとらわれることない道がな。そこを進むといい」 

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