#54 阿法典清の受難1
「おい、どうしたんだよ。行くぞ」
放課後。
教室の最前列で背筋を正して呆然としてる後姿に声を掛ける。
「ああ、君か。どうした?」
俺の声に阿法は焦点の合わない目で応える。
ここ数日どうも阿法の様子がおかしい。
今日は午前中病院に行って午後から登校したのだが、五、六限目の授業で阿法はずっと今みたいにぼぉっと前を向いたままだった。
「どうしたって、お前がどうしたんだよ。腑抜けた面しやがって」
「なんでもない。では、行こうかね」
フラッと立ち上がり、幽霊のようにゆらゆら歩き出す。
何だこいつ、やばいぞ。
「おい、ちょっと来い」
俺は阿法の首根っこを引っ張って、屋上に向かう。
「何があったんだよ、お前。余裕面ぶっこいて、『君は本当に馬鹿だな』みたいないつものムカつく上から目線はどうしたよ」
「ふむ」
いや、ふむ、じゃねーよ。こいつ俺の話聞いてねーな。
「話せよ。お前の気がかりをよ。俺で協力できることだったら手を貸す」
「う、うむ」
座り込んだ阿法は俺を見上げる。その顔は考えあぐねているようだった。
「面倒くせーな。さっさと吐けばいいんだよ、このメガネ!」
阿法の胸倉をつかんで強引に立たせようとするが、阿法はまるで抵抗する様子も見せない。
これは重症だ。
阿法をその場に下ろして、自分も屈む。
「おい、よく聞けよ小僧。そうやって構って欲しい態度取るんだったら素直に話せよ。構われたくなかったら家に引きこもってろ」
俺のこけおどしが聞いたのか、阿法はフッとため息をつくと。
「他人に話すの少々ははばかられる話だよ」
テンションは低かったが、阿法はいつもの口調で話し始めた。
☆
事の始まりは阿法の幼少の時分。彼が物心ついた頃すでに、その前にはそびえたつ一つの大きな壁があった。
兄という存在だった。
優しく、包み込むように大きく、そして強靭で、聡い。
何をするにしても阿法は兄に敵うものはなく、さりとて兄と違う方面へ逃げることを許さない性格だった。
兄は自分より劣る弟に対して、時には寛大な、そして時には峻厳な山だった。
そうして育っていく内に、いつしか阿法の中では兄を越えることこそが目標となった。
しかし兄は目標として遥かに遠く、さりとて同級生の中で競い合える者もない。燻った感情だけが己の中で渦巻いていた。
「君を最初に見た時は、おかしな奴がいたものだと思ったよ。しかし君は本気だった。滑稽なくらいにね。私に君くらいの本気があれば……いや、やめよう」
阿法は話が逸れたとばかりに兄の話を続ける。
阿法と兄は五つ離れている。飛び級を重ねて、兄は今東京にある大学の研究室に所属している。
ほんの数日前。その兄から家族に一本の連絡があった。『悪性腫瘍で三ヶ月もたない』という短い文章とともに医師の診断書の写真が添付されていた。
両親は動転してすぐ東京に向かい、すぐ入院するように迫ったが、兄は聞く耳を持たなかった。今の研究を完成させる、と言って話を聞かなかった。
☆
「そんなにマズいのか?」
俺は神妙になって聞く。
「ああ。母が医者から話を聞いた。すい臓からリンパ節や脳にも転移していて手の施しようがないらしい。医者は即入院と判断したが、兄が突っぱねたらしい」
何と言っていいのか分からなかった。
「会いに行かなくていいのかよ」
だからそれしか言えなかった。
「兄が東京の大学へ行くとき、私は中途半端もいい所だった。そして今も変わらない。自分を磨き、常に前に向かい続けている兄に、どの面下げて会えというのだ」
阿法は再びその場に座ると、両手を組んでうな垂れる。
そういうもんなのか?
「私は兄に一生敵わない。この鍛えに鍛えぬいた腕力も兄の病の前では何の役にも立たないのだ」
会いに行けよ、と言うのは簡単だ。
多分、今こいつは自分がどうしたいのかが分からないのだ。己の人生に横たわる大きな存在が消えようとしている中で、立ち止まってその場から動けない。動かないといけないのは分かっていても、どこへ向かえばいいのかが分からない。
「兄貴の大学と研究室の名前を教えろ」
だから俺が動く。
☆
すでに夜の十一時を回っている。
見上げると、巨大な建屋の各階にはまだ煌々と明かりが灯っている。
地上七階地下二階の建物には四つの研究室が入っている。最新の分析機器、科学機器が導入され、日夜科学者たちが最先端の研究に明け暮れている。
阿法と別れた後、すぐに東スポハゲ教師に金を借りてタクシーと飛行機で東京まで来た。空港では乗客のキャンセル待ち頼りだったけど、運良く滑り込めた。
空港のロビーで、今日は帰れないとお袋に電話したら、案の定ギャンギャンと騒ぎ立てられた。五月蝿いので途中で切って携帯の電源は落としておいた。後でめちゃくちゃ怒られるだろうな。
飛行機を降りた後に電源を入れなおすと、ホウカから連絡が入っていた。スイコが俺に話したいことがあるらしい。ホウカのメールにはスイコのメールアドレスが添付されていた。
あと、お袋と妹からおびただしい数のメールが来ていた。
建屋の石碑から、ここが目的の場所だと確認する。
ガラス張りのエントランスの横にある案内板を見て、インターホンから創薬研を呼び出す。
「はい」
若い女性の甲高い声だった。
「見学希望です」
「……はい?」
深夜に研究室の見学希望はさすがに駄目だったか。
「阿法清明に用事があってきました」
「ああ、阿法さんの知り合いですか。エレベータの前で待ってて下さい」
すぐ横のドアが自動で開く。
中に入る。
広いエントランスには研究に関するポスターや模型などが並べられている。ノーベル賞受賞に至った経緯の年表や、その時使用していた実験器具の一部が展示されていて、暇だったら面白そうだ。
「お待たせしました。……あれ? 随分と若い方ですね」
エレベータを降りて現れたのは二十代そこそこの化粧気の薄い女性だった。
「夜遅くにわざわざすいません」
「阿法君と親しいんですか?」
女性がエレベータの前でカードキーをかざすと扉が開く。
「いえ。会ったこともありません」
俺の言葉を聞いた女性はこちらを振り向くと、手で扉を押さえる。
「ただの他人を上に上げるわけにはいかないんだけど」
女性が厳しい目で俺を見る。
「阿法清明には弟がいます。五つ下で今高校生です。俺はその弟の同級生です。清明の様子はどうですか?」
俺の説明に女性の警戒は少し解けたようだが、依然として俺の来訪に不審を感じているようだった。
「どうって言われてもいつも通りです。かなり顔色が悪いし、無理してるみたいだけど」
「少し前に清明の両親が来たみたいですね」
「来た来た。あれってどういうこと? もしかして阿法君が海外でドクター取るって本当なの?」
好奇心に当てられたようで、女性は俺が知らない話を始めた。なので適当に話を合わせる。
だが、これで確信した。研究室の周りの人は阿法生清明の病気については知らない。
この女性について聞いてみたところ、研究室の助手だそうだ。阿法清明は飛びぬけて優秀な学生で、彼女はいつも清明に助けられているらしい。
助手って学生を助けるもんじゃないのか?
いつまでもエレベータを止めていたので何処からかビービーと音が鳴る。
「あっ、乗ってください。ちょっと無駄話が過ぎたみたい」
ようやく入室を許されたようだ。
この短い話の中でも阿法清明は真面目で優秀で、研究室で信頼されていることが分かった。そしてどうやらこの助手は清明のことが好きらしい。そこはどうでもいいけど。
エレベータが音も立てずに登っていく。




