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#53 伊庭家で

「やぁ」


「ひぃぃっ!」


 ひぃぃって何だよ。そんなに驚かなくてもいいでしょ。

 そりゃあ、夜の九時過ぎに人通りの少ない住宅街の物陰から猫なで声で気色悪い男がいきなり現れたら、多少は驚くかもしれないけどさ。


「なんだ、ビックリしたよ。何でこんなところにいるの」


 スイコは俺を認めて安堵して……はいなかった。

 やや警戒するように俺から一歩遠ざかる。


「そんなに驚かないでよ。仕方なかったんだから」


 蛸島から色々話を聞いた後、さてスイコに話を聞きに行こうと思ったら、お袋から「今日こそは早く帰らないと許さない」というキツイメールがあった。しょうがないので早く帰って飯食ってから早めに寝る振りをして抜け出してきた。そしたらこんな時間になってしまった。


 だからこれは仕方がない。


「スイちゃん、帰ったの?」


 スイコの悲鳴が聞こえたのか、スイコ姉が伊庭家の門戸から顔を見せる。


「あれ? 君はこんなところで何してるの」


 スイコと同じことを聞いてくるスイコ姉。


「ああ、いや、その……」


 この姉の前でスイコに「俺が告白したことある?」なんて聞けるか。


「何をやっとる騒々しい。ムッ! 貴様!」


 スイコ姉の後ろから親父が現れた。俺の姿を見るなり、般若のような形相になり、こぶしをブルブルと振るわせた。


「ここで何をしている、このバラガキがぁ!」


 うわぁ、面倒くさい奴が来ちゃったよ、もぉ。


「ちょっと、やめてよお父さん」


 肩を怒らせながらズンズンとこちらに向かってくる親父と俺の間にスイコが割って入る。


「むっ」


 親父がピタリと足を止める。


「スイコ。帰りが遅い。遅くなる時は連絡するように言ったはずだ」


「ステージの練習で今週は遅くなるって昨日言ったよ。聞いてなかったの?」


「むっ」


 話題逸らしに失敗した親父はスイコから顔を逸らして俺を睨む。


「ちょうど良かった。小僧、貴様に話がある」


「いや、俺にはないけど」


「入るがいい。粗茶くらい出してやろう。スイコは早く夕飯を食べなさい」


 俺の意向は無視ですか。

 親父は勝手に家の中に戻ると、スイコとスイコ姉と俺は互いに目を見合わせる。


「行った方がいいと思うよ。今はそんなに機嫌悪そうじゃないし」


 スイコがそれとなく助言してくれる。

 あれで機嫌が悪くないのね。

 俺は仕方なくスイコ姉に従って、親父の書斎に案内される。

 薄暗い書斎で親父は椅子に腰掛け、ウイスキーを飲み下していた。


「そこに座れ」


 『そこ』には何もなかった。

 つまり床に座れってことですか。

 渋々座り込む。何か親に説教される子どもみたいなんですけど。


「貴様はスイコに気があるのか? あると言ったら生きて返さん」


 親父がロックグラスの底を机に叩きつける。

 息が酒臭いなこの親父。たいぶ酔ってやがるな。


「いや別に好きではありませんよ。崇拝はしてますけど」


「何だと。うちの娘には魅力がない、とほざくのか貴様は!」


 親父が声を荒げて怒鳴り散らす。

 どっちにしろ怒るんじゃねーかよ。


「軽音部の合宿では何があった」


 何の前触れもない不意打ちそのものだった。

 俺の目線が上ずる。


「あの子は何も言わない。だが、ワシには分かる。親だからな。隠し通せるものではない」


 親父の厳しい視線が俺に突き刺さるようだった。

 そういえば、この親父は刑事だとか聞いたな。娘を溺愛しているのもそうだが、職業的な勘もはたらいたのかもしれない。


 沈黙が流れる。


 親父がウイスキーを口に含みゆっくり嚥下する。

 俺は、自分は正しいことをしている、と高らかと言い放てる自信はない。常に間違っているかもしれない。ひょっとすると最低の手段を選んでしまったのでないか、と後悔することの方が多い。

 でも確実に言えることは、スイコが若くして死ぬ未来は回避するように動いているし、これからもそうしていくつもりだ。そこに揺らぐものはない。


「スイコさんは、将来偉大なる才能を開花させます。そしてそれは不幸の始まりでもあります」


「何を言っている貴様は」


 親父は覚束ない様子で俺を見据える。


 俺は自分で言っておいて、はたと思い出す。検証しようがないので放置していたけど、スイコはなぜ麻薬に手を出したのだろう。

 多分この質問に対する答えは出てこない。前と同じ状況をつくれば(俺が何もしない)分かるかもしれないが、すでに以前とは状況が違っているし、これからさらに変えていくつもりだ。


「合宿でスイコさんは悲しい目に遭いました。俺がそうしました。でも、それはこの先起こるであろう不幸を回避するために必要だったと俺は思っています」


 一呼吸して、親父の顔を見る。


「スイコさんを辛い目に遭わせたのは事実です。俺を殴りたければ存分にこころゆくまで殴り倒してくっ――」


 目の前に拳があった。親父のものだった。いつ繰り出したのかまったく見えなかった。

 殺される、と思ったが拳は俺の目と鼻の先で止まる。


「暴力では何も解決せん」


 親父はそう言うと、俺に向かって乗り出した身体を引いて再び椅子に腰掛ける。


「貴様を今すぐ少年院に五十年ほどぶち込みたい気分だ」


「それは困ります」


「もう娘に近づくな」


 親父は俺を忌まわしい生物認定していた。


 なんか段々ムカついてきたぞ。

 大体てめーがスイコのデビューを許したせいだろうが。英語ド下手なスイコを海外に行かせるなよ。そんなに娘が大事だったら一緒についていって一生守ってやれよ。


「これからもガンガンお近づきになる予定だ。おめーが守れないから俺がスイコを守るんだよ。精々日本で指くわえて見てるんだな」


 言った瞬間、俺は後方三メートルに吹き飛んでいた。


 今度こそ正真正銘殴られた。

 壁の本棚に激突して頭にハードカバーが落下してくる。

 殴られた頬がジンジン痛み、歯が何本か折れて口内に血の味が広がる。

 親父はその場で仁王立ちになり、顔面に憤怒の火をともす。


「今すぐ出て行け。殺されんうちにな」


 まったく冗談に聞こえなかった。多分マジだ。

 立ち上がって反撃しようとしたが、足がフラついてまた倒れた。


 駄目だ。まともに歩けない。

 ここは引くしかなかった。

 しかし、暴力はでは何も解決しないんじゃなかったのかよ。

 膝をついたまま、犬のように四足で書斎を出る。


「ふぉうふぃふぁふぉ? ……むぐむぐ……大きな音したけど?」


 薄暗い廊下に出ると、リビングの入り口からスイコが顔をのぞかせる。

 口に食べ物を含んだまま喋ってはいけませんって習わなかったかい、伊庭スイコさん。


「何でもないよ。親父が怒ってるみたいだから今日は帰るね」


「う、うん。……うわぁ!」


 俺が顔を向けた途端、スイコが泡を食ったように寄って来る。


「?」


 慌てたスイコの声を聞きつけてやって来たスイコ姉が、手鏡で俺の顔を映す。


 お、おぉ。口から滝のように血が流れてるよ。こえー。

 スイコがあたふたしている中、スイコ姉が救急箱を持ってきてテキバキと処置していく。


「あー、口の中切っちゃったね。あと歯も三本折れちゃったみたいだね」


 スイコ姉は俺にうがいをさせてから、口内の出血部位にガーゼを押し当てる。


「はい、血が止まるまでしばらくガーゼ噛んでてね。もしかしてお父さんに殴られたの?」


 俺に膝を貸しつつ、スイコ姉は冷静そのもので聞いてくる。

 俺は何も答えない。

 すると、スイコがズンズンと書斎に向かっていく。


「お父さん入るよ」


 怒鳴るように言うと、返事も聞かずに部屋へ入って行く。

 扉が閉まってしまうと、二人が何を言っているのか聞こえない。ただ、何かしら強く言い合っている音のみがこもって聞こえてくる。


「お姉さん。二人を止めてくれませんか?」


 ガーゼのせいで喋りにくい。


「無理だね。前にも同じようなことあったけど、止めようとするとスイちゃんすっごい怒るから」


「悪いのは大体俺だから」


 上半身を起こそうとしたが、まだ身体に上手く力が入らない。仕方ないのでそのまま這いずって進む。


「やめなよ。君が入っていったら余計ややこしくなるから」


 スイコ姉が俺のシャツを引っ張って止めようとする。


「君を家まで送るからここで大人しく待ってるんだよ、いいね」


 俺はスイコ姉に引きずられるように、伊庭家を後にした。



「口の中は大丈夫? 血が止まらないならそのまま夜間病院に行くけど」


 スイコ姉が運転する車の中で、 ズキズキ痛む口内の感触を確認する。


「大丈夫です」


 根拠はないけど。


「お姉さんは看護師を目指してるとか?」


 さっきのスイコ姉の処置は適切で迅速で手馴れていた。普段からそういうことをしているのだろうか。


「ん? 医者だね。医学部だから」


 それは知らなかった。医者の卵だったのか。


「親父が何で怒ったのか気になりますか」


「あの人はいつも怒ってるからねぇ。人を殴ったのは久しぶりだけどさ」


「スイコさんが合宿から戻った時、どう思いました?」


 唐突な質問に対して、スイコ姉は何かを探るように俺を見る。


「その質問をしたからお父さんに殴られたの?」


「いいえ。それでどう思いました?」


「よほど疲れてたんだろうね。部屋にとじこもっちゃってたね」


 うーん。そんな事は聞いてないんだけどな。上手くはぐらかされてる。


「俺と阿法がスイコさんを強姦したから元気がなかったんですよ」


 スイコ姉が急ブレーキを掛け、車は停止する。


「よく聞こえなかったからもう一回言ってくれない?」


「二度は言いません」


 スイコ姉はギアをニュートラルにいれ、サイドブレーキを引くとシートベルトを外して運転席から助手席に身を乗り出す。目を見開いて、間近で俺の瞳を覗き込む。

 俺も対抗して見返す。

 俺の心中を透かし見るがごときスイコ姉の目には、非難や嫌悪の色などはなかった。


「ふーん」


 しばらく見つめあった後、スイコ姉は運転席に戻る。


「嘘ついてる感じじゃないけど、後ろめたさもないみたいだね」


 言った瞬間に殴られるかとも思っていたが、スイコ姉は冷静だった。


「君のことがよく分からないよ。スイちゃんをどうしたいの?」


 後ろからクラクションを鳴らされ、スイコ姉は再び車を発進させる。


「スイコさんは俺にとって大切な人間です。俺がこれまで生きていたのは彼女のおかげかもしれません」


 それはもちろん前の俺ではあるけど。


「厚かましいことを言うようですけど、もしスイコさんが少しでも困っていたら力になって欲しいです」


 こんなことを一々スイコの姉である人に言う必要もない気はしたけど。


「たとえ地球の裏側にスイコさんがいたとしてもすっ飛んでいって下さい」


 スイコ姉は不思議そうに俺を見たが、その後は一切口を開かなかった。

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