#22 ドラッグ合宿の惨劇4
「それはこの男だ」
阿法が俺をあごで指す。
「へー、何で」
「何でとは」
「わたし下手なのに、何で買ってるの」
スイコの無垢なる表情が間近になる。
「それは伊庭スイコが偉大なるミュージシャンになるからです」
「え? …………ふふふ、ふふ、ふふふふ、な、何それ、ふふ、ふふふふ」
スイコはじわじわと込み上げる笑いを抑えられないようだった。
そんなにおかしいこと言ったか?
何にせよ、今のスイコは自分が世界で活躍するミュージシャンになるなんて毛ほども思っていないし、その野望もない。それだけは分かった。
「伊庭君はこの先どうやって生きていくつもりだね?」
スイコの引き笑いがようやく収まった頃、阿法が大いなる問いかけをする。
「私事なんだがね。自分がこの先どのように生きていくべきかをここ数ヶ月考えていてね。大学へ行き、就職するというのはどうも自分の身の丈に合っていないと考えているのだよ」
スイコの笑いは完全に収まり、真面目なことを言っている阿法に目を丸くしている。
「自分が言えた立場ではないが、伊庭君はもう少し自分と向き合った方がいい。後悔のない学生ライフを送りたまえ」
お前はスイコの親かよ。こんな茫漠とした説教する同級生いたら嫌だわ。
「う、うん」
ところがスイコは何を真面目に聞いているのか、神妙に頷いた。
ふーむ。
「スイちゃんは自分と向き合ってみたい?」
「え、あ、うん」
俺の問いかけにスイコは曖昧に答える。
「じゃあ自分と向き合ってみようか」
俺はテーブルの下棚に用意しておいた、ケースを取り出す。
「これは何」
ケースのフタを開けて、シリンジ針についていたシリコン栓を外す。
「そ、それって注射? そんな物どうするの」
スイコの声が上ずる。
「やだなぁ、分かってるくせに。スイちゃんが自分と向き合えるお薬だよ。だからこれをスイちゃんに打つんだよ」
「じょ、冗談だよね?」
スイコが身体ごと椅子を引く。
「阿法」
俺の合図とともに立ち上がった阿法は、素早くスイコの背後に立つと、スイコの両腕を椅子の背もたれの後ろに回す。
「な、何するの!」
「いや、今逃げようとしたでしょ。逃げないって約束するなら離してあげるけど?」
俺はシリンジ針中の空気を抜いて、スイコに近づく。
「やめてよ。君、頭おかしいの? 馬鹿、近づかないで!」
俺が近づくとスイコは狂ったように暴れる。しかし、阿法に両腕を押さえられていて、逃げられなかった。
「そんなに暴れないでよ。ちゃんと静脈に打たないと、効果が薄まるんだから。このヘロイン結構高かったんだよ」
「た、助けて! 青連院さん! それと部下の人!」
ヘロインという言葉を聞いて、スイコはさらに声を張って助けを求めた。
ただ残念なことに、この部屋はいくら大声で叫ぼうが問題ない、そのために用意された部屋だった。
「阿法。面倒だから、床に寝かせてくれないか」
阿法は俺の言ったことを即座に行動に移す。スイコの両手を後ろ手にしたまま、床に転がし、うつ伏せする。そして、スイコの背中に跨る。
「助けて! お願いだからやめて!」
俺は阿法からスイコの左腕を貰い受けると、それを伸ばして後肘部が見えるようにする。手首を左手で押さえつけて、右ひざで肩に近い部分を押さえて固定する。
「少しチクッとするから我慢してね」
「やめてよ!」
皮膚面に対して約二十度の角度で慎重にシリンジをスイコの白い腕に刺し込む。
「あっ――」
「痛くない?」
返事はなかった。まあ、当然か。
プランジャーを押し込み、薬液をスイコの体内に注入していく。
すべて投与し終えて、シリンジ針を慎重に引き抜く。
「離していいぞ」
阿法は腕の拘束を解いて立ち上がる。自分もスイコの左腕を自由にする。
「あ、綿を忘れてた」
シリンジケースと一緒に入れていたアルコールと脱脂綿を取り出すと、スイコの注射痕にあてがおうとする。
「っ!」
スイコはサッと腕を引いて、自分の身体に押し付ける。
うつ伏せの身体を半分起こして、俺を涙混じりの顔でにらみつける。
「脱脂綿で注射の跡を押さえた方がいいよ?」
脱脂綿を差し出すが、受け取ってはもらえなかった。
「どうしてこんなことするの? わたしが何か悪いことしたの」
「スイちゃんは何もしてないよ。麻薬がいかに怖いものかを知ってもらいたかっただけ」
「意味が分からないよ」
そりゃ、意味分からないだろうね。
俺は屈んで、歯軋りして悔しそうに俺を睨むスイコに顔を近づける。
「スイちゃんはこれからヘロインの中毒になるかもしれない。でも我慢しなければいけない。そうしないと将来とんでもないことになるからね。あ、今もうすでにとんでもないことになってるって突っ込みは――」
俺が喋っている途中で、スイコの表情に苦悶の色が現れた。
「う、ううっ…………」
スイコは背中を丸めて、膝を抱える。
そして、吐いた。今日食べた夕食も、さっきまで飲んでたポカリも、何もかも。
多分我慢する猶予すらなかったのだろう。すべて床にぶちまけた。
「大丈夫かね、伊庭君は?」
阿法が心配そうに俺の肩に手を置く。
「症状は人によって違うけど、こうやって吐き気が襲ってくることもままあることだ。しばらく様子を見よう」
俺はドリンクサーバーで水を注ぐ。胃の中身を全部吐き終わっても止まらない吐き気が治まるのを待つ。
「はぁ、はぁ、ぁぁうぁうう……」
十分くらいして、胃液も残らないくらい吐いたスイコに紙コップを差し出す。
「口をゆすいで。飲まないようにね」
スイコは反抗する気力もないのか、素直に受け取った。と思ったら、すぐにコップを取り落とす。
俺はもう一度コップに水を注ぐ。それから横になっているスイコの上半身を少し起こして、コップのふちを直接スイコの口にあてがう。
「ほら、口に含んで。それからこっちのコップに吐いて」
スイコは言われるがままにそうした。三回ほど繰り返させて、ふたたび横にする。
俺はワイシャツを脱いだ。屈んでスイコの顔を覗き込むと、目の焦点が合っていなかった。彼女の口の周りの吐瀉物を脱いだワイシャツでぬぐう。せっかくの可愛い顔が台無しだ。
「ここに寝かせるといい」
振り返ると、阿法がでかいソファを抱えていた。スイコを横に寝かせるのに十分な大きさだ。
「どっから持って来たよ、それ。なんて馬鹿力だよ」
飽きてつつも笑いがもれる。
スイコを抱っこして、ソファに横たえる。せっかく近接してるのにゲロのにおいしかしない。
「うぉっ!」
ビックリした。
ソファに寝かせたスイコがいきなりムクッと起き上がった。目が据わっている。
おもむろにソファから脚を降ろして、立ち上がろうとしている。しかし、産まれたての仔馬のようにヨロヨロとふらついて、いつ転ぶともしれない危うさで部屋の中を徘徊し始めた。
彼女は俺ら二人のことが目に入っていないようで、俺はぶつかるすんでのところでスイコを避ける。
俺と阿法は黙ってスイコの様子を観察した。
しばらくすると歩くのに飽きたのか、ドリンクサーバーの前で立ち止まる。
すると、酔っ払いのように腕を垂れて、全身が弛緩していた様子が突如豹変した。
いきなり三十キロ以上ありそうなドリンクサーバーの側面に手をかけると、勢いよく床に叩き落した。ガラスは音を立てて割れ、中のジュースが床に広がる。
「飲んでいいよ」
スイコは床の惨状を満足そうに眺めると、こちらを向いて気分良さそうに言う。
「そうか。ではありがたく」
俺はその場に這いつくばり、床に口をつけて液体をすすり始める。
「あっ、その辺は駄目。わたしのおしっこが混じってるから」
「ぶふぅっーーー!!」
さすがに吹いてしまった。何を言い出すんだ、この子は。
「もったいないな。全部飲みたまえ」
お前も何言ってんの。
「ふぅ、疲れた」
スイコは自分の座っていた椅子に戻ると、立てかけてあったギターを手に取る。
「これ、わたしの曲ね」
嬉しそうに弾き始める。上手いのか下手なのかさっぱり分からない。でも、スイコは楽しそうだ。そして真剣だった。
「次はひーちゃんの曲ね」
誰だよ、ひーちゃんって。
さっきのスローテンポから一気に激しくなった。スイコは立ち上がって、その場でクルクルと回りながら演奏する。
な、長い。
それからスイコは、あーでもない、こーでもない、と意味不明な呟きをもらしながら、たっぷり二十分以上弾き続けた。俺たちはその間一言も発せずにスイコの演奏を見守った。
「あっ」
ギターの弦が一本切れた。スイコの演奏が止む。
「ねぇ、どうして邪魔するの」
演奏の熱が唐突に冷め、スイコが恨めしそうに俺を見る。
「邪魔はしてないですよ?」
「じゃあ、謝って!」
話聞けよ。
「っつぅ!!」
いきなり、何の前触れもなく、スイコは持っていたギターを振りかぶり、俺の肩めがけて袈裟切りを飛ばしてきた。ギターの側面が俺の鎖骨辺りにクリーンヒットした。
何の躊躇もない一撃に、俺は肩口を押さえて膝をつく。
「大丈夫か」
「来るな!」
駆け寄ろうとする阿法を制する。
「お前には役目がある。俺にも俺のな。黙って見てろ」
「わたしを無視しないでよ」
スイコは怒気のこもった言葉ともにギターを薙いだ。
側頭部を打ちぬかれると思って両腕でガードしたら、途中から軌道が変化してギターはわき腹に命中した。
「うっ、ぐぅぅ……」
俺は思わず頭を垂れて、ダンゴムシのように身体を丸める。
とてもか細い女の子の力とは思えない。甲子園優勝校の四番バッターが全力で振りぬいたバットのような衝撃だった。
さらにスイコの攻撃は続いた。丸まって晒された背中に容赦ない打撃が繰り返される。
こういう事には結構慣れていたはずなのに、これは長くは耐えられそうになかった。
俺は両手で頭全体をガードする。
「ねぇ、痛い? わたしも痛かったよ?」
注射のことを言っているのだろうか。
スイコの攻撃は執拗で止む様子がなかった。校舎裏で殴られていたのとはまるで違う、タガの外れた人間の無意識の手加減すら一切ない暴力だった。
俺の意識はいつしか混濁し、誰の声も聞こえなくなっていた。




