第八話 孤立
元の世界の歴史に、民族大移動というものがあった。古代が終わり、中世へと至る契機になった出来事だ。きっと、こっちの世界にも似たような歴史があるに違いないが、俺は知らない。デュランの記憶にもない。
民族の生活圏の移転ほどには派手じゃないだろうが、軍隊の移動も壮観なもんだ。粛々と歩く。勝手に列を離れるやつは置いていかれて、敵地の中に取り残される。ここはもともと十三王国の支配地域だったところを、帝国軍が占領しているのだ。つまり、敵の方が土地勘がある。味方とはぐれたら生きていけない。
俺は毎日のように各部隊間の連絡を取り次いでいた。組織は乱れていないか、落伍者はどれほどか、水や食料などの確保に問題はないか、敵軍の動きはあったか……。
戦争ってのは、ひいてはあらゆる戦いは、数が増えれば増えるほどロマンのかけらもなくなっていくもんだな。心を凍りつかせて機械のようになっていく。それがよくわかる。
俺はまだあちこちを走り回っている分だけマシだったかもしれない。兵士たちの顔はどうだ。徴募されたころには愛国心なんかに燃えていたのかもしれないが、今はどうやって足にマメができないように歩くかを考えているみたいだ。
途中、雨も降った。雨の中の行軍はイヤなもんだ。空調の効いた部屋の中で、下着姿になって自堕落に過ごしたくなる。戦争なんてするもんじゃない。
だが、心のどこかで、俺は戦いを求めている。死体を見るのは好きじゃない。人殺しそのものも、自分が惨劇を作り出していると思うと気分が悪い。
言いにくい、形容しづらい感情だ。働きがいがあるってのが一番近いのかもしれない。さてはレオノラに調教されてしまったかな。あいつは人を使うのが上手い。その気にさせて、気持ちよく働かせるんだ。たぶん理不尽さがないからだろう。
とは言うものの、毎日のようにあっちこっちを走らされるのは、実は理不尽かもしれない。事実だけを抜き出せばね。
実際のところ、俺は適度に力を使っているおかげで、気分よく過ごせている。
あ、やっぱり調教されてら、俺ってやつぁ……。
そういうことを考えていると、だ。なんだっけ、大根芋だっけ。モアイ芋……違うな。
思い出した、モヒカン芋こと芋ヒカンが俺を呼びにくる。レオノラがお呼びだぞという伝言を携えて。
やれやれ、どっこいしょ。はいはい、すぐに行きますよってなもんで。
ただ、今日は伝言の内容に変化があった。何でも「大至急来てほしい」という。俺はいつも寄り道せずに仕事を受けに行っていて、レオノラもそれをわかっていてくれるからか、急かすような表現を使うことはなかった。
それだけに、変事が起きたのだとわかる。
俺は注文通りにいつも以上の速さで参上した。
移動中のレオノラは椅子に座っている。魔導椅子というらしい。簡単に言えば、介護者が不要な車いすということだ。いやいや、車輪がついてないから車いすとは呼べないな。そいつはリニアモーターカーみたいに地面すれすれを浮遊していた。ちょうど半円形のオルガンを弾くかのように、レオノラは操作を繰り返しながら情報を整理している。その間も、椅子は勝手に前に進んでくれている。
「デュラン・スクルトゥヌス、参りました」
「おはよう、デュラン。困ったことが起きました」
生理が来ないんですか、と処刑モノのギャグを飛ばしそうになった。
自重する。
「ああ、困りましたね。困ったなあ」
レオノラは空中に視線をさまよわせている。それも実にわざとらしく。
この軍師は時々こういう茶目っ気を見せる。どこかで戦争という国家の選択肢を嘲弄しているのではないか……そう思うことがある。
これだから、彼女に好感を持ってしまうんだ。
「お困りとあらば、自分が役に立つかと」
「味方が敵に捕捉され、孤立しました」
とぼけていたかと思っていたら、いきなり真顔に戻った。俺を見据える目には閻魔大王のような峻厳さがある。
もちろん、俺は閻魔様に会ったことはない。いや、もしかしたら死んで会ってから記憶を消され、この世界にやってきたのかもしれないぞ。
「まずいですね」
「一刻も早く救出する必要があります。今ならまだ間に合う状況ですから」
「何をすれば」
「応援してきてください」
「は?」
俺の顔は間抜けだったことだろう。
「半包囲を打ち破るために解囲戦を挑みます。孤立している味方にその事実を伝え、応援してきてください」
「そういうことですか。敵の妨害に遭いそうですね」
「敵と仲良くなって楽しく暮らしますか?」
軍師殿が皮肉を言ってやがる。
敵と見れば倒すのが俺の仕事だ。まして彼女は、俺に高い戦闘能力があることを見抜いている。孤立している味方に援軍があることを教え、ついでにその突破を手助けしろと言っているんだ。
レオノラは敵の包囲を解くための攻撃について、ある程度の目安を伝えた。包囲の中からも同時に攻撃できれば、敵を打ち破る可能性は高くなる。
「拝命しました」
元の世界、日本の戦国時代。長篠の戦いがあった。織田と徳川の軍勢が、武田家を打ち破った有名な戦いだ。この戦はそれ以前の長篠城の攻防戦もひっくるめて語られることが多い。
孤立した長篠城。勇士、鳥居強右衛門は援軍の情報を得るも、城に戻る途中で武田に捕まってしまう。城の仲間に援軍が来ないとウソをつけば助けてやると言われるが、あべこべに援軍は必ず来ると叫んでみせ、武田によって処刑された。これぞ剛直の三河武士……。
かつて、俺はこのエピソードみたいに自分が男らしいと思わないし、そうなれるとも思ってもいなかった。
今は違う。
俺は武田に捕まらずに城の中に戻り、反撃を成功させて悠々と味方のもとに戻る。それができるだけの力を持っている。
「行きます」
「必ず伝えてください」
言われるまでもねぇや。
俺はすっかり伝令の仕事に夢中になっていた。ワンクリックで届く電子メールとは全く違う。ここでは矢や弾や魔法が飛んでくる。
伝令は軍事的エリートだ。伝令なくして戦争はできない。何がなんでも生き延びて情報を届ける。
確かに、千万の兵士を率いる偉大な将軍でもないし、権謀術数を駆使して数多の戦場を支配する軍師でもない。あくまで戦場の一要素にすぎない。歴史に名が残ることもないだろう。
だが、俺は逆にそういう生き方がかっこいいと思う。英雄の冠を被せられる主人公なんて、本編の後には悲劇しか待っていないものだ。俺はやることをやったら、布団でぬくぬく寝ていたい派なんだ。暗殺の危険なんかに怯えたくはない。たとえそれを恐れる必要がない力を持っていてもだ。
俺は走った。風景がただの重層的な色の塊となり、前から後ろに流れていく。
スピード、スピード、スピード!
速さに乗って、どこまでも行けそうだ。人間は会社のデスクじゃ夢を見れない。大地を踏みしめないと、空の青さもわからない。
一気に味方の隊列から離れ、孤立しているという味方のもとに向かう。
大所帯が移動する時の怖さは、こういうところに現れる。連絡の不備、準備段階での瑕疵、偶発的な事故……様々な要因が積み重なり、味方との連携がおろそかになる。敵はそういうチャンスを逃しはしない。
無線通信が存在し、散兵での戦線維持が可能になる現代戦では、こういう状況は稀だろうか。いいや、現代でも起きうる。ベトナム戦争に代表される対ゲリラ戦がそうだ。特別な環境下においては、軍隊は面や線ではなく、点で活動することを強いられる。
考えてみたら、ブラック企業の働き方もそうなんだよな。横の連携がめちゃくちゃだから、面や線じゃなくて点で戦わざるを得ない。心を病む。死も見える。
今、点になっている味方がいる。
彼らはかつての俺だ。ノルマと納期が積み重なり、無茶なタスクを押し付けられ、それでも泣くことも許されず、やがて感情を失って死に邁進する、未来なき労働者そのものだ。
俺は誰かに助けられたから、デュランくんの体をもらえたんだろう。彼のさまよえる魂に幸福が舞い降りますように。
自分に余裕があるからこそ、初めて他者に手を差し伸べることができる。その事実がよくわかる。
敵だ。敵がいた。
十三王国軍の旗の下、人間たちの頭が連なる。
そうさ。あれだって人間だ。俺と同じ人間だ。辛く苦しい人生を背負わされた受難の人々だ。
俺はそいつらの首をねじきり、頭を打ち割り、火をかけて燃やし尽くした。ひどいことをしたもんだ。なんだって戦争を始めたんだ。撃って撃たれて刺して刺されて、不幸ばかりが集まってくるじゃないか。いっしょに和気あいあいと仕事しちゃいけなかったのかよ。どうして同じ食卓でカレーなんかを食べながら、バカみたいな話をして過ごそうって考えなかったんだ。
……そうだよな。
惚れちまったんだよな。
俺はレオノラの顔を思い出す。
彼女に惚れてる。その「惚れる」の意味は、決して一義的なものじゃない。
惚れたからにゃあ、やらねばなるめぇ。俺もお前たちも。
「どけ!」
俺は敵兵を跳ね飛ばし、はるか彼方に見える味方の旗めがけて走った。
何事だ、誰だ、どうしたんだ。そんな叫び声が、俺の前後左右で起こる。
そりゃあそうだろう。敵軍の包囲をしていると思ったら、後ろから弾丸のように駆け抜けてくる影がある。驚くなって方がどうかしている。
密集しているように見える兵士の群れ。その空隙を縫って、俺はとうとう包囲陣の中に飛び出した。
「撃て、撃て撃て!」
いくつもの矢が射かけられる。
レーザーのような閃光魔法が放たれる。
それらはどれも俺に当たらない。
みなし子が肩を寄せ合うように集まっている、包囲下の味方の部隊に飛び込んだ。
「俺は味方だ、味方の伝令だ! デンレイ、デンレイ!」
敵が突進してきたと勘違いされては堪らない。
「ヘストン卿はいずこ! レオノラ様からの伝令だ!」
「ここにいる!」
女騎士、フィオナ・ヘストン。
それが味方の撤退に乗り遅れ、敵中に孤立した部隊の指揮官だった。流麗な金髪は土埃に汚れているが、それでも輝きを失っていない。左頬に小さな刀傷があった。幼い頃から斬り合いを続けてきた誇りが、そこに秘められている気がした。
「味方は、助けに来てくれるのか」
俺が伝令の本懐を遂げる前に、フィオナは早口で尋ねてきた。興奮しているようだった。
彼女なりに、この失態の責任を感じているんだろう。
ああ、助けに来るとも。
それまで生き残らなきゃならない。
「来る」
俺は形式的な伝令を行う前に、強く言い切った。
「味方は、来る」