第四話 無双
俺は伝令だ。必要な情報を相手に伝えるのが仕事。それは相手が味方でも敵でも変わらない。
今、情報を伝えた相手であるザルモニア公は怒りに身を打ち震わせ、功名心に喜悦を感じている。前には剣を手にしたハゲ公爵、後ろには武装しているであろう兵士の気配。前門の虎、後門の狼ってところだろうか。
だが、俺の考えは違う。前の門にいるのは虎じゃなくて猫だ。後ろの門にいるのは狼じゃなくて犬だ。
苦し紛れのハッタリじゃないぜ。何しろ剣すら帯びず、素手のままで敵陣に乗り込んでいるんだ。頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
それでも、俺は冷静だった。
今の俺なら、この窮地を切り抜けられないわけがない。その自信があった。人ならざる者、人間を超越した力が、俺の全身にみなぎっている。
「かかれ!」
公爵が叫んだ。
俺は後ろを振り向く。殺到するのは完全武装の兵士。
ここに入ってくる前はみんな酔いつぶれているものと思ったが、どうやら子飼いの兵士は身近なところに潜ませていたらしい。武装しているのは夜襲を警戒してのものだろう。ハゲ親父め、やってくれる。
確かに、スーリオス隊が壊滅した直後だ。帝国が戦果を欲する可能性は高い。
俺も帝国兵なんだからな。
「甘いよ」
突き出された剣を脇で挟み、兵士の顔面に拳をくれてやる。さらに、兵士の手首にも一撃。太い骨が折れる感触とともに、兵士は崩れ落ちた。
俺は奪いとった剣を脇に挟んだまま放り上げ、さらに別の兵士の顔面に拳。
落ちてきた剣の柄を手に取り、突進してきていた兵士の首元に突き入れる。
鮮血。
死んだな、と思った。
俺にとって初めての殺人だ。感慨はなかった。たぶん殴られた兵士も死んでいるだろう。それくらい激しい打ち方をした。
兵士たちが怯んだ。
当然だ。あっという間に三人の仲間が命を失ったのだ。
「ザルモニア公」
血染めの剣を手に、俺は振り向く。
タコハゲが肉厚の剣を上段に構え、轟然と振り下ろしてきた。
剣で受けるか?
ダメだ。兵士が手にしているこの剣では、叩き折られる可能性がある。数打ち……量産品が一品物に敵わないのは、どこの世界でも同じだろう。
となれば、選択肢は決まったも同然。
俺は自分の剣を捨て、公爵の大剣の側面を叩きつつ、横に回避した。
「なんだと!」
この動きは公爵にとって予想外だったようだ。
いや、通常の人間からしてみれば、ありえない動きだったのだろう。俺にとっては相手の動きがすべてスローモーション。あくびが出るほど遅いのだが、彼らにとっては一瞬一瞬の攻防に見えているはずだった。
恵まれた能力だ。向こうの世界で三十三年も苦しんできた成果だと思えば、納得のいくものだった。だからといって、血反吐を吐くまで働かせた奴らを許せるかというと、まったくそうではない。今からでも帰って叩き切りたいくらいだ。
そうだな。
もし世界間を渡る方法が見つかったら。
いっちょ、昔のお礼参りをしてやろうかい。
そんなことを思いながら、俺は公爵の肘に掌底を叩き入れて粉砕。
「がぁっ!」
いい年こいたおっさんの悲鳴ほど嬉しくないものもない。
「往生しろや」
この世界には往生なんて概念あるんだろうか。
そんな場違いなことを考えながら、俺は苦しむ公爵の頭に両手を添え……。
「じゃあな」
これを回転させ、生きながらにして公爵の首をねじ切った。
グロい。
自分でやっといて何だが、やり方をしくじった。夢に出そうだ。
俺は決してスプラッタホラーがダメというわけではないが、スマートなやり方というのは大切だと実感した。強さに酔っ払って、余計な手を使ってしまったのだ。
しかし、俺以上に混乱したのが、入口に殺到してきていた兵士たちだ。
彼らは公爵直属の親衛隊のようなものだろう。場数も踏んできているはずだ。
それなのに、怯えている。初めて水を見た子どものように、公爵の首と体から噴水みたいに噴き出る血から逃れようとしている。
俺はねじ切った公爵の頭を抱えた。もともと血で汚れていた俺の服と胸当て、とうとう黒みを帯びた赤で染まり始めた。どんな染み抜きの達人でも元に戻すことはできまい。
「どけよ」
俺は言った。あえて不機嫌を装った。実際には気分は良かった。悪かったけど、良かった。
気分が悪いというのはうかつな殺し方をしてしまった点についてだ。殺人への嫌悪感などさらさらなかった。昔からそれを望んでいたかのようだ。そういうことで、気分は良好だった。
兵士たちは、それでも俺に向かってきた。哀れむべき忠誠心である。
「俺もそうだったんだよな」
思い出す。現代のスラングで社畜という言葉があるが、まさしく会社に奉仕する畜生として、俺の人生は幕を閉じた。
死ぬ瞬間には、おそらく一秒も満たない時間にだが、強く強く思ったものだ。
どうして俺だけがこんな目に遭うんだ。
どうして遊んでるやつらがこんな目に遭わないんだ。
社畜には、幸せになることは許されないのか。
だが、違った。幸福はいつも自分のそばにあった。それは影のようについてきて、ちゃんと目を凝らさないと見つからないのだ。
兵士たちは自分の足元を見ていなかった。他方、天を仰ぎもしないから、太陽がどこにあるのかも確認できなかった。前だけを見ていた。
そして、前のめりに倒れた。
俺は公爵の大剣を使おうとして柄を蹴り上げたが、その刃は中ほどで折れていた。俺が横から払った時に、衝撃で折れたものらしい。
なんてこったい。
仕方ないので、折れた大剣で兵士の頭をぶん殴った。
兵士の頭はお菓子みたいに割れて、中身を派手にぶちまけた。
最悪だ。またやっちまった。ついさっきスマートにやっていこうと決めたばかりなのに、このグロテスクシチュだ。自分の学習しなさ加減に泣けてくる。
そんな思考をする程度には、俺の中には余裕があった。ここは死が横たわる戦場だとは思えなかった。まるでTシャツにサンダル履きでコンビニに出てきたかのような気楽さだった。
俺は強い。
この単純な事実と自信が、俺の心を豪傑にしていた。
対する兵士たちはどうだ?
「わああああっ!」
怖がっている。
怖がっているのに、立ち向かってくる。
なまじ仕事がこなせるだけに、課せられた仕事から逃れられない社畜のように。
ダメなんだよ。やばい相手からは逃げなきゃ。机の上にどんどん溜まっていく仕事なんて放っておけばいいんだ。どうせ責任は上司が被るんだから。
上司が怖い?
お前、マジで言ってんの?
あんなの会社での肩書が偉いだけのバカヤローだぜ。努力はお前の方が数段してるんだ。ナメたこと言ってるとぶっ飛ばすくらいの気持ちでいくべきなんだ。
俺はそれに気づかなかったから死んだ。職場の上司や先輩には絶対服従しないといけないと思っていた。バカだったぜ、今思えばな。
本当は死ぬ前に気づいた方がいいんだ。死ぬってのは辛いからな、苦しいからな、悲しいからな。
なのに、お前は死にに来る。
マジでさぁ……。
「バカヤローめ」
俺は兵士を破壊する。
そいつはアゴから下を吹き飛ばされて、目ん玉をひん剥いたまま倒れていった。
俺は兵士を蹂躙する。
そいつは両腕を失って、わあわあ叫びながら失血死しちまった。
俺は兵士を虐殺する。
そいつは腰からぶった斬られて、なまくら剣ととてつもない力のせいで、中途半端に体を引き裂かれた。
全部、俺がやった。
向かってくるやつは皆殺しにした。手加減できなかった。俺の体は向かってくる敵意に対して強烈に反応し、脳みそに向かってこう叫ぶんだ。殺せ。遍く敵を殺せ。
どれだけ倒したかわからない。ふいに後ろを見た時には、公爵の天幕から陣地の入口まで、赤い川ができていた。赤ってのは美化しすぎだな。地面に染み付いて、黒く見えたんだから……。
デュラン・スクルトゥヌスがこの光景を見たらなんと思うだろう?
彼は心優しい少年というわけでもなかったようだ。人殺しの経験もあった。戦場に出て活躍するとはそういうことだ。
捕虜の処刑に立ち会ったこともあるようだ。記憶を掘り起こせば、そういうシーンが出てきた。帝国と十三王国の確執は想像以上に根が深いようだ。宗教や民族の対立と係争地の存在も根底にはあって、とても簡単に和平に向かう状況ではないらしい。
そもそも、元の世界でもそういう事情があるところでは戦争が続いているんだ。たかだか百年弱戦った程度で、肩を組んで平和の鳩を飛ばすなんて真似ができるはずもない。
「疲れた」
俺は独りごちた。
「疲れた」
今度は自分に言い聞かせるように、大きな声で言ってみた。
でも、と思う。
やるんなら最後まで責任を持ってやらなきゃいけない。
俺が何をやりたいかって?
ザルモニア公陣地の完全な破壊だ。公爵は帝国の使者である俺を害しようとした。もはや与する意志はないものと考えられる。だから、俺は持てる力を動員して、敵を排除した。
そうだ。俺にできることはすべてやる。
俺はザルモニア公の陣地に火をつけた。明かりのための燃料も見つけたので、そこらじゅうに振りまいてやった。火はたちまちに陣地を飲み込んでいく。
この放火作業の合間にも何人かの兵士と会った。公爵の親衛隊は逃げたか死ぬかしていたらしいから、残っているのは酔っ払った兵士たちだけだ。彼らも故郷に残れば気の優しい農民や商人なのかもしれない。
だから、何だ?
俺だって仕事場から帰れば、一人の大人だ。息をして、物を考える、一人の人間だった。
抜け出せないやつは死ぬ。それが自然界の掟だ。
「何してんだぁ?」
「聖なる水をかけているのさ」
「ご苦労なこったなぁ」
酔っぱらいとこんな会話もした。彼はこれから火炎地獄となるこの場所から無事に逃げ出せるだろうか?
そもそも、酩酊状態から抜け出せない可能性の方が高い。何だかあったかいなと思っていたら、体中が燃えて一巻の終わり……。
火はどこまでも連なってゆく。
俺は陣地の隅々にまで燃料をかけ、火をつけ、最後には外に出て眺めていた。きれいだった。魔性の美しさがあった。悪魔の笑い声がパチパチと響いていた。全身に炎が乗り移った酔っぱらいが燃える様を、まるで火の精霊が遊んでいるようにすら感じていた。
やるだけのことはやった。
さあ、帰ろう。