第三話 激怒
俺の記憶の中にいるデュラン・スクルトゥヌスとは、とにかく切れ者だったらしい。一聞けば十知るというやつで、本営の上官たちからは重宝されていたようだ。俺はそういう優秀なデュランになりきらねばならない。記憶こそ彼のものを持っているが、ここから先は俺の歴史だ。体からあふれ出る力がある。脳からあふれ出る知恵がある。十全に生かしきれば、彼以上の働きができるはずだ。
一方で、いいタイミングを見つけて消えちまうのも悪くないと思っていた。帝国にはデュランの親族もいれば、友人もいるだろう。記憶を手繰れば、それらしい顔が浮かんできた。彼らに疑われないように付き合うのは、どうにも肩が凝りそうだ。それならいっそ十三王国に逃げ込んで、新しい生活を始めた方がだいぶマシに思える。帝国と十三王国の因縁はもう何十年も続いていて、国境地帯の農民を拉致しあっている以外には、ほとんど人の往来がない様子だった。
今は体がすっきりと動く。目覚めた直後の重い感触が残っていない。おそらくは意識と肉体とがはっきりリンクしたんじゃないかな。接触が悪いってやつだ。ファミコンの時代を思い出す。
森は巨樹で覆われていた。人間が何人手を繋げば一周できるのかわからないくらい、樹の幹が太い。
そのごんぶとな木の周りにはびっしりと苔が生えている。今はもう夕方だが、まるで夜のように暗い。日光がここまで届いていねぇ。
さっきはこんなところをよく帰れたものだと思う。デュランの生きたいという願いが残っていたのだろうか?
残念ながら、お前さんもう死んだんだよ……。
向こうの世界で俺が死んでなきゃ、魂だけが入れ替わるミラクルもあったかもしれないが、どっこい、俺も心不全でぽっくり逝っちまった。
デュランくんの魂が迷子にならずに天国へ行けたことを願うばかりだが、死んだ場所が悪すぎる。天国どころか、明日も見えない。まるで元の世界の俺が持っていた心象風景みたいな森だ。
スーリオス隊はこの森でザルモニア公の部隊に襲われ、壊滅した。
隊長のスーリオスはもともと傭兵で、この戦争で大いに名を上げた人物だった。勝つ人間のもとには有能が集まる。勇猛な部下も多く抱えていた。それが帝国に正式に召し抱えられてから、歯車が狂った。
遊牧民と同じだ。彼らは一年の間を放牧と移動に費やす。馬の上に生まれ、馬の上で死ぬ、モンゴルの騎馬民族などはその典型だろう。そこには厳しい自然の掟だけがあり、人の存在なんざちっぽけなものだ。
ところが、こんな遊牧民が都市と文化に触れると、一気に弱くなる。それは支配体制を確立するために必要なことだが、ぜいたくを覚え、定住しての牧畜を始め、効率を重視し始めて、野性味は影を潜める。
スーリオスにも同じことが起こった。剽悍かつ剛勇で知られた彼は、部下が一気に増えて以降、指図する楽しみを覚えてしまった。腹が出て、太ももの肉はつまめるほどになった。
で、死んだ。自然淘汰だ。
ザルモニア公については、デュランもあまり知らないらしいが、それでも幾ばくかの情報がある。顔もわかってはいる。十三王国の一つに古くから仕える重臣だが、帝国との戦争が始まってからは軍役を強いられ、大層不満を述べていたらしい。
だが、ザルモニア公は自身を含め、非常に自己鍛錬の心が強かった。武威の気風を残してるってやつかな。
私財も投入して常備軍を整備し、主に野戦で勝利するための訓練を欠かさなかった。打撃力に優れた部隊というわけだ。
ザルモニア公はまた領地でトーナメントを開催し、積極的に勇士を召し抱えることでも有名だった。やや古めいたやり方だが、この世界はまだまだ一人の勇者が戦局を左右する時代のようだ。
さて、当面の問題としては、俺はザルモニア公の陣地を見つけなきゃいけないってことだ。
さらに、書状を渡したということは、どういう意味があるのか?
それも十三王国の司令官である各国の王に宛てたものではなく、家臣筋に当たる公爵に宛てた書状とは?
俺はあえて聞かなかった。前の世界のホウレンソウ信者にしてみれば、考えられないずさんさだろう。勝手に上司の意向を類推するわけだから、とんでもないことになると非難されるに違いない。
だが、デュラン・スクルトゥヌスはそんなことをしない。
俺も、それは不要に思う。
この書状には明確な意図がある。つまり帝国の上層部がザルモニア公に伝えたい、それも秘密裏に届けたい情報や誘いかけがあるということだ。
例えば、裏切りのすすめ。例えば、内応の呼びかけ。
いくつも考えられる。俺をわざわざ死地へ向かわせるくらいだ。もっとえぐい内容かもしれない。
というわけで、「すみません、ザルモニア公はどちらですか?」と敵に尋ねるような真似はできない。彼の陣地を自力で見つけ出し、直接渡す必要がある。
俺はすでに答えを見つけつつあった。スーリオス隊が壊滅した位置。そこへ軍を進めることができる、布陣に適した場所……。
どれだけ歩いたかはわからない。全く疲れを感じない俺の体は、時間の感覚さえも超越しているかのようだった。
「あった」
翻る旗はザルモニア公のもの。夜の闇があたりに落ちかけるころに、俺はその宿営地を見つけていた。
彼らは勝利に酔っていた。どうやら公爵が振る舞い酒をしているようだ。敵の目の前だというのに、恐れいったものである。もちろん斥候を放ち、見張りを置いているにしても、敵襲に即応できなければ意味がない。
一枚岩ではないな。
俺はそう見て取った。つまりは部下においしいアメをやらなければ、ついてこない証明なように感じられたのだ。
そんな状況だ。忍びこむのは容易だった。堂々と歩いていったとしても、通してもらえたかもしれない。
それは言いすぎか?
ともあれ、ザルモニア公がいるであろう軍旗はためく天幕までやってきたんだ。いいじゃないか。
中の様子を伺う。
ザルモニア公がいる。一人か……。
「誰だ」
おっと、気づかれた。
ルパン三世を気取って「泥棒です」なんてことを言ってもいいんだが、そいつはあまりにもバカなキザり方ってもんだ。
「帝国よりの使者です」
早口で答え、速やかに天幕の中に入った。
ザルモニア公は四十を少し過ぎたくらいの、頭頂部から一気にハゲてきている男だった。こんな状況でなければ、「頭を焼畑農業しているんですか?」と挑発していたかもしれない。
「帝国だと……」
ザルモニア公は鼻を鳴らした。
「俺に何の用だ」
とりあえず人を呼ばれることはなかった。
なるほど。緩んだ規律といい、この反応といい、ザルモニア公は十三王国にあまり忠誠心を抱いていないと見える。
「こちらを」
両手で書状を手渡す。
受け取る際に、ザルモニア公は俺の手元を見ていた。暗殺の類ではないかと勘ぐっていたのだろうか。サルモネラみたいな名前しやがって。
公爵はそのまま書状の黙読を始めた。たまに俺の顔を見る。この時の俺は数歩退がって、自分に害意がないことを知らせている。ちゃんと伝わっているかどうかはわからない。それに刺客ならば、そういう演技もしてみせるだろう。俺には必要ないが。
……読み終わったようだ。
いい加減に帰りたい。こういう場は苦手だ。俺が襲われるんじゃないかと心配になる。天幕の中はランプで照らされていたが、暗がりもある。そこに暗殺者が潜んでいるのではないか、妙に心をざわつかせる。
「おい」
公爵が俺を呼んだ。
「俺の答えはこれだ」
たちまち剣を抜き放ち、俺に斬りかかってきた。
ん?
慌てないさ。だって余裕だもの……。
俺は自分でもびっくりするくらいに冷静だった。「そうなるかもしれないなあ」と思っていた未来が、案の定にそうなっただけだ。
しかも、俺の視神経は驚くべき正確さでもって、剣の軌道を読みきっていた。かわすことなど造作もない。
「突然に何をなさいますか」
「黙れ!」
ハゲ公爵が叫んだ。
「こんなに侮辱されるのは初めてだ。寝返りの相談かと思えば、降伏しろだと? バカも休み休み言え」
「そりゃバカですね」
俺は心からそう思った。そんなの相手を怒らせるに決まっている。今にも十三王国がまとめて滅びそうならともかく、戦局はなおも予断を許さない状態なのだ。
「貴様の首を帝国の愚か者どもに送り届けてやる」
ハゲが茹で上がってタコになっている。龍爪公なんてかっこいい二つ名があるくせに、タコ公爵だ。笑えるよ、って笑うのは俺だけか。
「んー」
どうしたもんかな?
「公爵閣下。考えなおしてはいかが」
「考えなおせだと?」
「これは閣下のことを思っての配慮なのです」
いいさ。出まかせに言えることを言ってやれ。あとは野となれ山となれという格言もある。
あ、慣用句か?
「閣下、先日は大変な戦果を挙げられましたね?」
「たっぷりと首級を挙げさせてもらったとも」
首狩りの文化があるか。
そこらへんは東洋的……と思ったが、西洋でもじゃんじゃか首を落としてたな。人間は首を切るのが大好きだ。
「閣下はそれでよろしいと思います。しかし、十三王国の司令官、とりわけ王族の方々にとってはいかがでしょうかね」
タコ公爵は答えない。胸に秘するものがあるのか。
となれば、畳み掛けるまでだ。
「閣下がすばらしい戦功を挙げるたび、彼らは内心忸怩たる思いを抱いていたのではないですか。本音を言えば、あまり活躍して欲しくない、目立って欲しくないのですよ」
俺は意味もなく手で十字を切った。キリスト教がどうこうじゃない。ハッタリになるかと思った。
「ああ、なんと哀れな公爵閣下。彼らはいずれ貴方に妬み、嫉み、やがては恨み始めるはずです。功績に応えるだけの領地をいただけましたか? 兵の指揮権は与えられましたか?」
「だが、貴様らは俺に降れと言ってきた。こちらにつけという話ではない」
「言葉のあやです」
出まかせ出まかせ。
「それに、降伏という体裁を取ることで、閣下の御身も守られるのです。臣下として我が帝国に加わる形を取れば、我らとて貴方を厚遇せざるを得ない。それが裏切りという形での加入となればどうなりますか。不忠者を斬ることこそが善となりませんか」
「俺を斬らねばならなくなる、か?」
「その通りです」
人間の営みは変わらない。
それは西洋でも東洋でも同じだった。裏切り者は信頼できないということで殺される、そういう事例は枚挙に暇がないってやつだ。
きっとこの異世界の歴史でも、同じような事例があっただろう。あいにくデュランくんは歴史に興味がなかったらしく、俺の頭の中はさっぱりわかってないままなんだがな。
「なるほどなるほど、言いたいことはわかった」
「おわかりいただき光栄です」
「ところで……」
タコ公爵が俺に剣を向けた。
おやおや?
「不忠をするようそそのかす敵を斬ることは、間違いなく善行だよな?」
「うーむ」
一本取られたぜ。
「敵だ、敵がいるぞ!」
タコ公爵め、とんでもない大声を張りやがった。
戦場慣れしているということか。
元の世界でも警察や軍隊に所属し、何度も現場を経験した人間は、その声を大きくし、上司に部下に伝達できるようになるところから始めるという。
タコはまさしく現場の人間だ。戦士だ。
天幕が開く音がした。後ろには武装した兵士がいるだろう。
「帝国の犬だ。斬れ」
通常なら絶体絶命。
その状況で、俺は口元に笑みを乗せた。