第一話 転生
俺は最後の最後まで、自分が死ぬことになろうとは思わなかった。働き過ぎて過労で死ぬなんて、高校生の頃は思っても見なかった。車に撥ねられるより、よほど小さい確率に違いないと信じていた。
三十三歳、男。学歴高卒。職歴フリーター長し。ブラック企業勤務。趣味はネットで煽ること。それが俺の経歴であり、マスコミが哀れな被害者に見た客観的事実のすべてだっただろう。親父とお袋が、俺の六畳間にあったパソコンを調べて、データを抽出したらしい。デスクトップにエロ動画フォルダへのショートカットがあるのを見て、一体どんな顔をしてたんだろうな?
だが、俺は生きていた。正確には俺の魂が生きていたらしい。目覚める直前まで、誰かと会話をしていた気がする。神か悪魔か、それとも宇宙人か。そこらへんはわからない。わからないが、どうでもいい。俺は目覚めたんだ。見知らぬ場所。泥。雨。薄汚れた体。血を流して事切れた死体。死体は鎧兜をつけていた。ちょうどルネサンス期の騎士ってやつがつけてるような出で立ちだ。俺も鎧を着ていたが、兜はなかった。すぐ近くに、割れた兜が転がっている。これが俺のかもしれないが、試してみる勇気はない。めちゃめちゃに破壊されている以上に、血がべっとりとこびりついていたからだ。
記憶がどうもおかしい。俺のものじゃないはずの思い出がよみがえってきた。この肉体の持ち主の名前は、デュラン・スクルトゥヌス。十三歳、男。学歴なし。職歴なし。殺人歴多数。帝国の伝令兵をやっている。
そこまで思い出したところで、ふいに力がみなぎってきた。俺は立ち上がり、自分の体を見回す。全身がカッと熱くなっていた。試しに、その場で跳躍してみる。重力が何分の一かになったように、天高く舞い上がった。このままでは地面に激突するかと思ったが、俺の脚は地上数メートルからの落下の衝撃さえも吸収しきり、泥濘をはねつつ着地に成功した。
手を開き、五指を親指から小指まで順番に握り直す。もう一度手を開いた時、そこには魔法の光球が現れていた。破壊魔法だ。これを投げつければ爆発が起き、敵を死に至らしめることができるだろう。破壊の光球を握り潰すと、跡形もなく消え去った。まるで蛍をこの手で圧殺したかのようだった。
これからどうする?
俺は肉体の記憶の糸を手繰り寄せる。ここはヴォルトゥラグ。巨大な帝国と、小王国の連合体である十三王国との係争の地。デュランは帝国兵として従軍し、総司令官の側近として伝令兵の業務に当たり、敵と遭遇して落命したらしかった。
帝国の本拠地に帰る必要があるな……。
右を見ても左を見ても死体だらけだ。ほとんどが帝国兵のものだったが、十三王国の軍勢もいくつかは死骸となって転がっていて、他にも騎兵が乗っていたのであろう馬の息絶えた姿もあった。
「帰るんだ」
記憶が明晰になってくる。どちらに戻れば帝国の兵営にたどり着けるか、ぼんやりとわかってきた。降りしきる雨が全身を叩くが、体内からは止めどなく熱が噴き出している。本来のデュラン・スクルトゥヌスは死に、俺の意識がこいつの肉体に入った。それはわかっている。
「早く帰るんだ」
口が勝手に動く気がする。体の熱さはますます強くなった。俺は一つの意志によって支えられていた。二つの世界の生命が交わった今、無敵の肉体と無窮の叡智が完成した。百の敵あらば百の敵を滅し、千の敵あらば千の敵を平らげ、万の敵あらば万の敵を屠る。そんな絶対的な力を得たのだ。
殺せ。遍く敵を殺せ。
俺の意識は、あるいはわずかに残っていたであろうデュランの意識は、自らの敵を完全に殺し尽くすことを望んでいた。
それは俺の願いと同化し、正しく生きる意味となって固着する。
俺は……無残な人生を送った挙句に死んだ。レールから外れた人間を阻害する社会が、貧困の再生産をせせら笑う世間が、果てしなく憎かった。
天を仰いだ。雨が無情に降る。戦場で散った者の血を洗い流し、大地に魂を還そうとしているかのようだ。熱さを感じて横を見れば、俺の肩からは湯気が立ち上っていた。鍛造されたばかりの鉄みたいになってやがる。
「助けてくれ……」
馬の下敷きになった兵士が、俺に向けて手を伸ばしてきた。
あれは助からない。俺はそう直感した。下半身は潰れてしまっていて、大量の血が流失している。たとえ引き出してやったとしても、体力が保たないだろう。
だが、それでも俺は馬の死骸を軽々と持ち上げ、彼をその重荷から解放してやった。
「ありが……」
男は最後まで感謝の言葉を言い切れず、小さく呻いて事切れた。男の体の状態がどうなっていたかは語りたくない。今後二度と肉料理が食べられなくなりそうだからだ。
こいつは笑える。笑えないから笑える。ブラック企業で神経をすり減らし、まったく良い思いをすることなく事故で死んだ。これで多少は天国へ行って良い思いをできると期待したら、戦場で泥を噛んでいるときた。
もう、うんざりだ。
殺せ。遍く敵を殺せ。
デュランの残留思念とでも言うべきものが請求する通りに、俺は敵という敵を討ち果たしたい気持ちになっていた。そのためにも、帝国軍の陣地まで帰る必要がある。
雷が鳴った。雨は激しさを増している。視界がさえぎられ、数歩前に何があるかも判然としない。平野だと思っていたら、すぐそばに木々が表れる。では、森かと思えば、今度は増水した川が音を立てて流れている。
迂回してもいいが、ここを通った方が陣地は早い。
俺は両足に力を込め、助走をつけて跳んだ。
川幅は二十メートルほどあっただろうか。水面に落下することなく、俺は対岸に到達した。超人的な能力を手にしたことを確認し、思わず笑ってしまう。遺伝の世界では、雑種が最も生命力にあふれているという。それは新しい環境に順応する適性の高さも示しているわけだが、俺は二つの世界にまたがって生まれた雑種ということになる。
頑健にして、精強。
俺は自由を手にした気がした。国家や上司から与えられる恩恵的な自由ではない。下も下、使われる立場から手にした根源的な自由だ。
デュラン・スクルトゥヌスの記憶をさらに探っていく。十三歳のデュラン少年は、十歳のころから伝令兵として活躍していたらしい。この異世界とでも言うべき場所でもセオリーは変わらないようで、伝令は優秀なエリート候補がやることのようだ。
意外と軽視されがちだが、伝令という役割は優秀でなければ勤まらない。命令や伝達事項を誤認させないよう、ハッキリと伝える必要がある。敵の妨害を受けても伝えられるよう、強い必要もある。もちろん道を間違えるなど論外だ。記憶力にも優れていなければならない。
デュランもまた帝国の将官級になることを期待されていたようだが、彼の出自は貧乏貴族の妾腹というもので、地位としては非常に厳しいスタートだったようだ。それでも伝令として引き立てられたのは、彼の並々ならぬ努力と、実力主義で取り立てる上層部の意向があったのが大きいらしい。帝国は一時期から十三王国に押されたために、能力の高い者を採用するシステムを採用したとのことだ。
惜しむべきかな、デュランもこの世を憎んでいた。出自と運で決まってしまう世界を、ぶっ壊したいと思っていた。
その志、俺が継いでやるよ。
今や故人となったデュラン少年に哀悼の意を表しつつ歩いていくと、ようやく帝国軍の陣地が見えてきた。雨はやや落ち着いてきて、陣地に翻る真紅に一角獣をあしらった旗が確認できた。
「止まれ!」
見張りの兵士が制止してきたので、俺は立ち止まった。ここで無茶をして弓を射かけられては堪ったもんじゃない。
「俺だ」
「デュラン?」
驚きが波のように広がっていくのがわかった。そんなに俺の生還がすごいことか。
「早く入れ!」
言われるまでもなく、俺はなおも体内から出る熱を持て余しつつ、帝国軍の陣地の中に入った。
どこに行くべきかはデュランの記憶が教えてくれた。彼は帝国軍の総司令官、ローカリス公の命を受け、最期の伝令に出撃したからだ。ローカリス公に遭う必要がある。
陣地の中には厭戦気分が漂っていた。戦いが長引いたせいで、どの兵士も疲労の色が隠せない。しかも、この雨である。憂鬱になるのは避けられないばかりでなく、貯蔵している水や食料にも影響が出かねない。
まあ、俺には関係のないことだ。
そう決めつけて、帝国軍の本営へと向かう。俺の姿を見た兵士は皆、ぎょっとして道を譲ってくれた。いったいどんな格好をしているのか知りたいもんだ。自分の目では顔や頭や背中を見ることができない。よほど表現に困ることになっているのか、はたまた元から大層なブ男なのか。
いや、顔に関しては問題ないだろう。デュランの記憶によれば、かなりの質の面構えをしていた。武勇伝の一つも持ち帰れば、娘からの誘いが切っても切れないほどになるほどだ。
天幕に入る。帝国軍の重鎮たちが、作戦会議をしているところだったようだ。
「デュラン……生きていたのか!」
席を蹴って、ローカリス公が立ち上がった。五十代にしては老けているおっさんで、すでに七十を過ぎた老人と言われても納得してしまいそうだった。その横には三十代ほどの男であるモートルード伯がおり、冷ややかな視線を投げかけてきている。逆隣には少女。まだ十代にして軍師の任を拝命したレオノラ・バルドアトだ。
「ただいま戻りました」
俺は膝をついて言った。
「伝令は皆死んだと思ったが」
「どうにか生き延びました」
それから、伝令先で起きた出来事について思い出した。届けに行った先の友軍はすでに壊滅しており、逆に十三王国軍に待ち伏せを食らったのだ。俺はそのことについて、誤りがないようにローカリス公に伝えた。
「むうぅ」
老獪だが小心でもあるこの公爵は押し黙ってしまった。
「報告ご苦労。体を温めて休んでいなさい」
レオノラがそう告げてきたため、俺は頭を下げて退出した。
それにしても、かわいい少女だった。俺だけでなく、生前のデュランの記憶にも、その美しい情景が描かれていた。彼女はまさしく天から遣わされた勝利の女神だった。大きく押し込まれていた帝国軍を立て直し、どうにか反撃できる体勢にまで持ち込んだのは、かのレオノラの手腕があったからこそだと言われている。
俺は兵舎に戻り、軽装を解いて、ごろりと横になった。不思議と疲れを感じていなかった。代わりに、体の中の熱いものばかりが強まっていく。どれだけ動いても疲れず、どれだけ戦っても満たされることのない渇望。そんな感覚が、ずっと影のようについてきていた。