黒い瞳
ハナは昨日泣きわめいたことが恥ずかしくてカエンの前で顔が上げられなかった
改めてお詫びをしなければ…と思うのだが言葉が出てこない
ハナは馬車ではなく王と同じように馬に乗って移動していた
カエンはいつもトウゴと先頭をゆくのだが、その日はハナと馬を並べて移動した
日差しよけのストールを頭から被り小さくなっているハナに、前を向いたままカエンは話しかけた
「ハナ、アナン王がそんなに好きか」
ハナはそのカエンの口調がいつも通りであったことにほっとした
ハナは初めてアナンに会ったとき膿のにじむ手を両手で包んでもらい感激したことや、肌さえ治ればお前は普通の娘だと励まし続けてもらったことなどをカエンに語った
そしてアナンには少し顎を上げて伏し目がちで人の話を聞く癖があったことなどを
カエンは
「そうか」
と一言残しハナから離れ団の先頭に馬を進めた
さて、ここでこの日の朝の庶民の様子を記しておく
アナンの櫛が見つかった後の話である
朝の炊き出しの支度をしながら一人の女がアナンの思い出話をし始めた
「私はね、娘時代白国にいた頃、市でアナン様を見かけたことがあるの」
「その日は初めて一人で森から出て市で林檎を売っていた」
「私が売っていた林檎はちょっと小ぶりだったけど、他の店の物より赤くてつやつやとしていた」
うんうん、それで?
「そしたら店の前にちょこちょこっと二、三歳の男の子が来てね、じっと売っている林檎を見つめているの」
「その様子が可愛くて可愛くて」
「帰って父さんに怒られると思ったけど、思わずその男の子に林檎を一個差し出してしまったの」
うんうん、それでそれで
「そうしたら男の子はペコリとお辞儀をして林檎を持ってお母さんのもとに走っていったの」
それでそれで
「私はその方がゆるく横で一つに髪を縛っていたから女の人だと思っていたけど、こちらを振り向いた時、この国の次期国王様だと気づいたの」
「もちろん私はアナン様を拝見したことはなかったんだけど、その美しさは噂になっていたし、もう直感的にわかったのっ」
「その男の子はカエン様だったのよ」
キャーッ、それでそれで
「アナン様は私のほうをチラッと見たんだけどにこりともせずしゃがんでその林檎を一口カエン様にかじらせて…」
かじらせてどうしたのよっ
「もう一度私のほうを見ながら…」
見ながら何よっ!
「ご自分も…少し顔を上にあげて…」
「でも視線だけは私に向けて林檎をかじり…」
「ほんの一瞬だけかすかに微笑んで」
「そして立ち上がって…カエン様の手を引いて去っていったの」
「私はその時のアナン様の黒い瞳と赤い林檎が忘れられないの…」
…
その場に居合わせた女たちからはため息しか出なかった
アナンを知るものも知らない者も、上は58歳下は10歳の女たちは皆頬を染めた
そしてその場には焦げたお粥の匂いが流れた
重鎮たちからの評判はあまりよろしくなかったが、いまだこの国の半分の種族の心を潤すアナンであった




