出会いと別れ
「体調はいかがですか? お母さん」
決して広くない家の隅で寝ている母親・ササランを気遣い、チユは話しかける。
「おかげさまで、今日は調子が良ですよ」
ふわりと優しく笑ってから、ササランは弱々しく答えた。
彼女は体を煩っており、整っている顔も、少し痩せこけて見える。
チユはそんなササランの長い黒髪を、撫でるように触ながら「そうですか」と言い、ふわりと笑顔を返した。
「今日は何を食べますか? チユ、腕を振りますよ!」
楽しそうに腕を激しく振り回しながら、チユはそう言う。
ササランはそんなチユを見てからクスリと笑い、「チユにお任まかせします」と優しく言った。
その言葉を聞いたチユは、たちまち表情が明るくなり、満面の笑みを見せる。
「わかりました! では早速、畑のお野菜を収穫してきますっ!」
チユは勢いよく立ち上がると、「いってきます!」と声を張り上げ、ぼろぼろの扉をこれまた勢いよく開けて出ていく。
そんなチユを見ていたササランは、少し失笑してから呟いた。
「本当は“腕をふるう”ですよ。……全く、あの子は」
ササランは開けっ放しの扉を眺めてから、体を布団に埋めた。
◆◆◆
大きな煉瓦積みの壁とチユの自宅の間にある小さな畑で、歌を口ずさみながらチユは野菜を収穫していた。
「今日の~夕飯はぁ~チユ特製の~グリブ~の~スープですよぉ~」
チユは機嫌が良いのか、聴いたこともない歌を口ずさみながら、ごつごつとした形の黄色い野菜・グリブを籠の中へと入れていく。
「ふんふん~」
チユは鼻歌混じりでそのヘンテコな形のグリブを見ていると、何処からか呻き声のような音が聞こえてくる。
その音が何なのかと気になり、チユは耳を澄ませてみた。
「んーっ! ……んーっ!」
その声は、畑に近い壁の方から聞こえてくる。
チユは声が聞こえる辺りをよく見てみるが、草が生い茂っていてよく見えない。
気になってしかたがなかったチユは、その声がする所まで近付いてみた。
「あれ……やばい、抜けない。どうしよう……」
チユはまじまじとその光景を見る。
その光景を見た瞬間、驚きのあまりにチユは籠を落とし、収穫していたグリブを地面に撒き散らす。
「お、お、おお、お…………」
「抜けな――…………ん?」
「おおお、女の人が壁から生えてきてますぅうぅぅううううぅううぅぅ!!」
初めて見るその状況に、チユは目に涙をためてから慌てふためいた。
チユの瞳には、壁から女の人が生えてきているようにしか見えなかったのだ。
「ちょっと…………ちがっ……! 穴から出れなくなっただけよ!」
壁の穴から抜けれなくなったと言う女は、顔を真っ赤に染めてチユに向かって必死に叫ぶ。
チユはそれを聞くと急に落ち着きを取り戻し、ほっとした表情で「そうなんですかー」とへらへら笑った。
「本当に、壁から生えて来ちゃったのかと思いました」
「違うわよ!」
チユは、上から女を見下ろす形で女とそう話す。
女は顔を歪め、未だに抜けない腰の辺りをくねくねさせながら、ニコニコしているチユを見上げた。
「…………」
チユはこれでもかというぐらいに、くねくねと動く女を優しく微笑みながら見つめてくる。
……二人が見つめ合ったのはどの位だろうか。
微笑むチユは、女を見ているだけで助けようという気配すらない。
痺れを切らせた女は、更に顔を歪めてから口を開いた。
「……ねえ、私から言うのも変なんだけど、助けてくれないの?」
「ほえ……へ、はっ! ごご、ごめんなさいですぅ!」
のほほんと笑っていたチユは、その言葉を聞くと急に顔を赤らめて女の手を掴む。
そうしてから、チユの持てる力を振り絞って女を引っ張った。
「んーっ」
「もう少し……もう少しで抜けそう!」
チユは女の手を引っ張り、女は腰をくねくねさせる。
腰を動かす度に、少しずつだが穴から抜け出せてきている気がした。
「ありがと、もう一人で大丈夫かも」
女はそう言ってから、チユの手を離す。
そして思いっ切り壁に手を当ててから、腰を動かしてみる。
「頑張ってください!」
「頑張ってるわよ!」
女は腕に力を込めて、穴から出ようとした。
すると、お尻の辺りがするりと穴を通り抜ける。
そこまで来れば、あとはトントン拍子で穴をくくりぬけた、
やっとの思いで狭い穴から抜け出せた女は、溜め息を漏らし、服に着いた土埃を手で払いいながら立ち上がる。
女は頭に手をやり、髪を束ねていた髪留めを取り、頭を左右に振る。
すると、ふわりと蜘蛛の糸のように細長い髪の毛が風に舞う。その色は太陽の光に反応してか、銀色に光輝いた。
「ありがと……助かったわ」
さっきまでとは真逆で、チユは立ち上がった女を見上げた。
八頭身のすらっとした体型。大人びていて、尚且つ気品ある顔立ち。
こんなに整った女性は、チユの暮らしている集落ではまず居ない。強いて言うなら、チユの母親・ササランぐらいだろうか。
女は銀色の髪を慣れた手つきで束ね、くるりと一捻りすると、髪留めで止めた。うなじの辺りからは、少しだけ髪の毛が出ていて、それがまた色気を感じさせる。
女は腰に手を添え、その紫色の瞳を小さい背丈のチユに向けた。
「あなたは、“部落”……いえ、集落の子?」
女は言葉を言い直すと、チユに聞く。
“部落”と言う言葉は差別的意味を持っていて、この街の貴族はこぞって貧困層の集まった集落の事を“部落”と呼んでいた。
その言葉の意味を全く解らないチユは、「はい」と言って、にこっりと笑ってから頷く。
「そう。…………自己紹介がまだだったわね。私はラウイ。あなたの名前なんて言うの?」
「チユです」
女――ラウイは、チユの気が抜けたような笑顔を見て、ふっと笑った。
そして、足元に数個落ちているグリブと籠を見て、ラウイはしゃがみ込むとグリブをひとつ拾ってからチユを見る。
「ねえ、チユ。これはこのままでいいの?」
「あああ! お母さんに手料理を振ってあげようと……。早く支度しないと!」
チユはまた涙目になり、慌て始める。
ラウイはそんなチユを見て、落ち着きがない子だな、と思ってしまった。
……チユが慌てるのも無理はない。
太陽は沈み始め、辺りを黄金色に輝かせ始めている。
ラウイはまた溜め息を漏らすと、落ちているグリブを籠の中に入れた。
「あんたには助けてもらったからね。今度は私が助けてあげるわ」
グリブの入った籠を持ち、立ち上がったラウイは微笑んでから、籠をチユに差し出した。
「ほほほ、本当ですかぁ? ありがとうございます! お家すぐそこなんですよ……。助かっちゃいますー」
籠を受け取り、チユは嬉しそうに自分の家を指さした。
嬉しそうに喋るチユを横目に、ラウイは壁をチラリと見つめた。
壁の向こう側が騒しい。
「ラウイさん?」
「あ、うん、今行くわ」
ラウイは何事もなかったかのように笑顔で言うと、今にも崩れてしまいそうな木造の家へと足を運んだ。
「ただいまーです。……遅くなりました」
チユは扉を開けると、その後からラウイはそっと家の中を覗く。
「……狭いわね」
チユが慌てて家の中に入っていくと、ラウイは聞こえない程に小さな声で呟く。
ラウイは中を物珍しそうに眺めた。彼女にとってその中ある物は、ただのガラクタにしか見えない。
眺めているばかりで、一向に入ってこないラウイを見かねて、チユは声をかけた。
「どうぞ上がってくださいー」
「……あ、うん。お邪魔します」
ラウイの身長が高いのか、ギリギリの高さの出入り口を潜り抜けてチユの家の中へと足を踏み入れる。
すると、その人の家特有の温かな香りが充満していた。
その香りを嗅いだラウイは、温かな気持ちに包まれる。
「遅いですよ、チユ」
「あ……お母さん! 寝てないと駄目ですよ!」
「だって、今日は本当に調子が良いんですもの。こういう時に動かないと」
火の点いた薪の上に、クツクツと煮える鍋。
その近くで楽しそうに料理をするササランは、嬉しそうにチユに話す。
いつでも使えるように、近くには木製の板と、切れ味の悪そうな包丁が置いてある。
「後はグリブを切って、用意した野菜とグリブを鍋に入れて、味付けするだけにしておきました」
ササランは微笑むと、得意げにチユに言う。
そしてすぐにラウイの顔を見て、優しく笑ってから口を開いた。
「始めまして、ラウイちゃん。私はササランと言います。よろしくお願いしますね」
その言葉を聞いたラウイは、心の中で驚く。
チユの家に来てから、まだ「お邪魔します」と小さな声で「狭い」としか言っていない。
チユもラウイの名前は言っていなかったのだ。
疑うようにササランを見つめるラウイ。ササランの漆黒の瞳に見透かされているような、そんな気分がして気持ち悪くなる。
「……始めまして」
「ラウイちゃんは手伝わなくても大丈夫ですよ。汚いし狭いのでくつろげる場所がなくて申し訳ないのですが……。お構いなく、お好きな所でくつろいでくださいね」
ササランの言葉を聞いたラウイは、ふと嫌な予感がして後退る。
ラウイは一歩一歩と、入ってきたボロボロの扉まで近づいた。
幸いにも、ササランは危なっかしく包丁を扱うチユに気をとられていて、こちらを見ていない。
逃げるなら今だ。と、ラウイは扉に手をかけた。
「心配しなくて大丈夫ですよ。貴女のお父様、今日は探しに来ないですから」
ササランは心配そうにチユの包丁使いを見ながら、そう言う。
「どうして……私、まだ何も……」
ラウイは、警戒した目でササランを見る。
ササランは視線をチユからラウイに移し、ふわりと微笑んで見せた。
「私には……未来が見えますから」
そうササランは言うと、危なっかしく包丁を構えているチユに視線を戻す。
ラウイには、「未来が見える」だなんて信じがたいことであった。でも、この二人が嘘を吐くような人間では無いことだけは解る気がした。
「お母さん、本当に未来が見えるんですー。明日の天気もわかっちゃうんですよ」
「でも、『未来が見える』ことはとてもつまらないことですよ。それに、未来は絶対ではないん、で……――っ!」
刹那。
ササランは話の最中に、胸を掴み苦しそうにする。
そんな姿を見たチユは驚き、包丁を手放してしまう。手放された包丁はそのまま落下して、チユの足元スレスレに突き刺さった。
ササランの口からは血が滲み出て、ぽたぽたと流れ落ちる。
その光景を見てしまったラウイは、警戒していたことなど忘れてしまい、ササランの近くに駆け寄った。
「だから……だから寝てなきゃ駄目たと言ったんです!」
「…………ごめんなさい。……チユ、お水を、汲んできて、くれますか……?」
呼吸を整えながら、笑顔を絶やさずにササランは言う。
ササランの白目は真っ赤になり、苦しそうだ。
「…………ラウイさん、すいません。ちょっと、お母さんを布団に連れて行ってもらっても良いですか?」
「え、ええ……」
ラウイがササランの肩を支えるのを見たチユは、「お願いします」と言い残し、大きめの桶を持ち扉から飛び出していく。
苦しそうにするササランを気遣いながら、ラウイは布団へとゆっくり向かう。
ササランの肩を支えてみて、初めて知った。
女であるラウイですら、持ち上げられてしまいそうな重さ。やせ細り、骨がむき出しになっている体。
健康な人の体ではないと言うことを、ラウイは今更ながら知る。
ラウイはササランを布団へ寝かし、布団を掛けた。
まだ息を荒げているが、少し落ち着いてきたのか、ササランは口を開く。
「……ありがとう、ラウイ。貴女が今日、此処に来たのは……本当に、運命だと、思いました…………」
「え……?」
「私は……今日、死にます。……これも、運命なん、です…………」
ササランはその漆黒の瞳でラウイを見つめた。どこか寂しいそうな瞳だと、ラウイはそう思った。
「まだ大丈夫ですよ、ササランさん。チユが泣いちゃいますよ」
「あの子は……泣けませんよ。仕方が、無いことです。感情が、欠けて、しまっていますから……」
ササランは天井を見つめ、遠くを見るように言った。
ラウイには、ササランの言っていることがさっぱり解らない。
「……チユと、お友達で、いてあげてください、ね。……私の代わりに、あの子を、守ってあげて、くたさい…………」
「そんな言い方……。本当に死んじゃうみたいに言わないで!」
ラウイは声を張り上げた。涙ぐみ、ササランを見つめる。
「ありがとう、ラウイ……。娘が、二人出来たみたい、です」
こんな時にも、ササランはクスリと笑顔で言う。
ラウイはこらえていた涙をポロポロとこぼし始めた。
「貴女は、やっぱり……強くて、優しい子、です。この先、何があっても、乗り越えれますよ。貴女が、未来を切り開く、鍵……なんです、から」
ふわりと笑ったササランの顔が、少し苦痛に歪む。
その時、チユが一生懸命に水の入った桶を持ってきた。慌てていたのか、少しずつ水がこぼれている。
「お母さん、お水持ってきました!」
「ありが、とう…………」
苦しそうにするササランの近くに寄り、チユは桶を置く。
その桶に入った水は、勢いよく置いた反動で、波紋が広がる。
「チユ……、私が死んだら、ドイル運河に、沈めて、ください……。サウが、孵化して、出てきます……から」
――サウとは、赤月から生まれし魔物。
人間の体内に卵を産みつける魔物で、産みつけられた人間はサウの卵に栄養をとられてしまい、死にいたる病気だ。だがサウは水を嫌う魔物で、水に触れるとサウは溶けるという。
ササランの顔は蒼白の色をして言うと、また息を荒げる。
痛みを堪えながらも、笑顔を作り続けているササランの顔を見ていると、ラウイは胸が張り裂けそうだった。
「……わかりました」
チユは無表情でそう言った。
ササランが言っていた「チユは感情が欠けている」と言うのはこのことなのか、とラウイは思う。
「チユ……、貴女は、夢に見た彼女を、助けに、行きたい……の、でしょう?」
苦しそうに言うササランは、段々と声も弱々しくなっていく。
唇が震え、上手く動かせなくなる口を必死に、ゆっくりと動かした。
「行って、きなさい。……チユは、彼女に、会って、助けて――」
ササランは痛みに耐えかね、苦痛の表情になってしまう。
必死に堪え、目を瞑り、痛みを誤魔化すように深呼吸をした。
「ウィンティアの、所に、訪ねて……。力に、なって、くれま、す…………」
「……はい」
そう言い終えたササランは、うっすらと目を開ける。
ササランの視線の先には、無表情のチユと涙を流すラウイの姿が。
もう喋る体力も残っていないササランは、最後の力を振り絞ると、こう言った――。
『ありがとう』
その声は、チユとラウイに聞こえることは無かった。
だが、その口の動きを見てなんと言っているかぐらいはわかる。
痛みに耐えていたササランの顔が、安らかな表現に変わった。
目を瞑り、静かに息を引き取る。
それを見た瞬間、ラウイはいっそう涙を零す。
今日知り合ったばかりなのに。
やはり、人の死と言うものは悲しくて。
ラウイは涙をひたすらに零していると、チユは冷静に堅くなっていく母の亡骸を抱きかかえようとした。
「あんた……実の母親が死んだって言うのに、涙一つも流さないの……?!」
ササランの言っていた言葉を忘れていたラウイは、チユに対して怒りがこみ上げる。
なんて薄情な人間なのか。
そう思ってしまい、ラウイは頭ごなしでチユを怒鳴りつける。
だが、チユは表現ひとつも変えようとしない。
「お母さんは実の母親ではないですよ。……あと、ごめんなさい。悲しい、と言う感情は何となく解る……きがするんですが。でも、涙って解らないんです」
チユが淡々と喋ると、ラウイはその言葉を聞いて我に返る。
――感情が欠けている――
何も考えなしに口走ってしまった自分に嫌悪感を感じたラウイは、チユに言葉を掛けようと思った。
だが、掛ける言葉が見つからなくて口籠もってしまう。
「でも、この悲しいって感情が痛くて痛くて仕方がなくなった時、涙とは言えないのですが、目から血が流れてくるんです……」
無表情なチユから流れ落ちる赤い水。
ぽろぽろと流れるその赤い水が、チユにとっての涙なのだ。
ラウイは小声で「ごめんなさい」と言うと、下唇を噛んで俯ことしかできなかった。
「ラウイさん、ごめんなさい……。お母さんを運ぶのを手伝ってもらえませんか? サウが……」
服の袖でその赤い涙を拭ったチユは、ラウイを見つめる。
「あ、うん……」
何も知らないことに少し胸を痛めながら、ラウイは頷いた。
ラウイは動かなくなったササランの上半身を持ち上げるが、肩を持った時よりも軽く感じる。
安らかに眠るササランの顔を眺めていると、また目を開いて、微笑んでくれそうな気がした。
「少し歩くと、〈ドイル運河〉が見えてきます。そこまで……お願いします」
チユはラウイに気遣うように、笑顔を作る。
その笑顔を見て、ラウイも気遣い笑顔を作る。そしてまた「うん」と頷き、二人は家の外へと歩き出した。
外は真夜中。
赤月と白月が大地を照らしている。
その光を頼りに、〈ドイル運河〉を目指して歩いた。
一年前から書き直して、途中までしかないです。
一年前の文章もつたないので、また少し手を加えていますw
なので本当にのろのろと更新していきますが……
どうかチユとラウイの冒険記を温かく見守ってください。
……人が死にまくりますが;;