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ヨークシャーテリヤの真似をする男

作者: 池田コント

私が高校に通っていた時分、なんだったか教科書に載っていたドイツの話に触発されて書いた代物です。習作。

 世の中には言わなくてもいい事を言ってしまうやつがいるもので、このヨーゼフという男もそんなやつの1人だった。

 ある夜、うらびれた酒場の一隅で、ヨーゼフは唐突にこんな言葉を言った。

「ところで、なんだって君はヨークシャーテリヤの真似なんかするんだ?」

 この言葉の受け取り主は、愉快に酒気帯びしていたのだが、途端にムッとした表情になった。

「なんだ、その言い方は。俺がヨークシャーテリヤの真似をする事に何か文句でもあるのか」

「いや、別段文句はない。だが、君がヨークシャーテリヤの真似をする事に何の意味があるのか、それが私にはどうにも不可解なんだよ」

「俺にはお前さんの方がよっぽど不可解に思えるね」

 ヨークシャーテリヤの真似をする男は皮肉を込めてそう言って、ぐっとグラスをあおった。

 ヨークシャーテリヤの真似をする男はヨークシャーテリヤの真似をする事がとても上手い。彼が道端で鳴き真似すれば、犬達は振り返り、子供達は喜び、主婦は買い物カゴを取り落とす。彼の腕前は、町中、いや、国中でも一番だともっぱらの評判であった。

「だが、私には、それがなにか社会の役に立っているようには思えないし、君の生活になんら利益を与えているようにはどうしても思えないのだよ」

 確かにヨーゼフの言う事はもっともだ。ヨークシャーテリヤの真似をする男がいくら本物と寸分違わぬ程の見事な物真似をしたところで、パンの値段は上がったままだし、政治家が国民の声を聞こえるようになる耳を持てるわけでもなく、切られたり焼かれた森はそのまま手付かずだ。

 ヨークシャーテリヤの真似をする男の生活にしてもそうだ。彼の職業は漁師である。夜も明け切らぬうちから船で沖へ出て、網を仕掛けたり、釣り糸を垂らしたりする。今日みたいなお空が荒れ模様の時以外は今ぐらいの時刻には1人波に揺られて働かなければならない。

 海の上にはヨークシャーテリヤの真似を聞かせる相手も、何も、居はしない。

「だからなんだってんだ。俺は好きでヨークシャーテリヤの真似をしてるんだ。社会がどうの、生活がどうの、なんて、関係ない。はは、社会なんてなんぼのものよ」

 ヨークシャーテリヤの真似をする男は、実際、そういった現実的なものなど、屁とも思っていなかった。彼の価値基準の中ではヨークシャーテリヤの真似をする達人は、難しい手術をする偉い医者先生と立場は違えど、同じくらい偉いものだと考えられていた。

「だが、しかし、君の家族はどう言っているんだ」

「長女の方は俺がヨークシャーテリヤの真似すると、わっと手を叩いて喜ぶよ。箸が転んでも笑う年頃でも、あんなにゃ笑わねえだろう。長男の方は、なんだ、あの野郎。昔はもう一回もう一回って何度もせがんだくせしやがって、今は澄まし顔で、そんな事してる暇があったらもっと常識でも身につけたらどうですか、なんてほざきやがる。たく、誰のおかげでそこまで立派に育ったんだってんだ」

「ふむ。でも、息子さんの言う事も一理あるだろう。常識が欠けてるとまでは言わないが、これから先、君も近代化に向けて色々と知識を得るのが良策だ」

「息子の顔を今はっきりと思い出したよ。お前さんにそっくりだ」

 ヨークシャーテリヤの真似をする男は鼻を鳴らしてグラスをあおぎ、そしてグラスがからになっている事に気付いた。お代わりのブランデーがグラスの中で波打つのを待って、ヨーゼフは口を開いた。

「君よ。ヨークシャーテリヤの真似をやめてみないか」

 ヨーゼフにはもう、なんで自分が彼にそんな事をすすめるのか理由を失っていたに違いない。けれど、ヨーゼフは言わずにはいられない。そういう自己中心的な親切心が正義感と寄り添って動き出す人間なのだ。

「ふん、そんな事ができるものか。俺がヨークシャーテリヤの真似をやめたなら、あるいは先達が、仲間が、俺を裏切り者だと罵るだろうさ。それに何より、俺は俺として生きていけない」

「そんなに重要な事なのか、ヨークシャーテリヤの真似をする事が」

「お前さんには理解できないだろうさ。ヨークシャーテリヤどころか、ラブラドール・レトリバーも、イングリッシュ・セッターも、真似ようともしないお前さんには」

 その時のヨークシャーテリヤの真似をする男の瞳には、アルコールには惑わされぬ、ある醒めた意志が見て取れた。それがなんなのか、検討もつかないヨーゼフは、しかし、納得したそぶりで諦めた。

「わかった。もうこれ以上は何も言うまい。ここの酒代は私がもとう」

「その金はもとはと言えば俺のもんだ。しかし、まあいい。おごられてやるよ。ヨークシャーテリヤの真似が懐かしくなったら、いつでも戻って来な」

 ヨークシャーテリヤの真似をする男はそう言って、過ぎ行くヨーゼフを静かに見送った。

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