第四話「テーマパークにて」その三
さて。
その後の一時間、一体僕の身に何が起こったのか、なぜだか僕はまったく思い出せなかった。思い出そうとすると、僕の頭に黒いモヤがかかったようになり、記憶が一つも掘り起こせなくなってしまうのである。……まあ、「忘却こそが人が幸せに生きるための最重要なツールである」とかいう話も聞いたことがあるし、僕の脳もよくできているんだなあという神秘的な感動と共に、僕はあまり深く考えないことにした。
一人ふらふらと売店脇のベンチに向かう途中、地上二十メートルのところから一気に落下するアトラクションが視界に入った際、なぜだか僕の体が勝手にガタガタと震えだしたのだが、これは一体なぜだろうか? もしかしたら、その忘却の一時間と何か関係があるのだろうか?
とにもかくにも、今まさに乗り込んでいる人たちに、たとえ係員が安全レバーをきちんと確認してくれていたとしても隣に座った傍若無人な奴が勝手に安全レバーを持ち上げていないことを確認するまでは決して安心しないように、というわけのわからない助言を心に浮かべながら、僕はベンチに腰を降ろした。
「……はぁ、やれやれ」
何だか命の危機をすんでで乗り越えた後のような、そんなくたびれきったため息が僕の口をついて出てくる。何でここまで精神的に疲れているのかはやはりよくわからないが、いずれにせよ、僕が疲れているのは確かだ。
橡さんは現在、ブランコのようなものに乗せられて空中をぐるぐる回るアトラクションに夢中になっている最中である。僕が分かれた時点で四回目を並んでいたが、あの分じゃああと十数回はチャレンジするだろう。あと数十分くらいはここでゆっくりする時間があるはず。
「……生きてるって、すばらしいなぁ」
なんていう、これまたわけのわからない悟りを呟き、言い知れぬ安堵感に包まれながら、ふうと嘆息する。そして気分がようやく落ち着いてきたところで、周りの喧騒を他人事のように眺めながら、どさりと背もたれに体重を預けた。
眼前には、売店の棚が並んでいる。
店内には、お菓子やキーホルダーが所狭しと並べられていた。そうだ、記念にお土産の一つでも買って行こうか――――と思ったところで、ふと、棚の中段に並べられた商品群が目に入った。手のひらサイズの置物が十個近く並んでいる。値札は八百円。少しばかり高いなあ、と思ったそのお土産は――
――砂時計。
イルカの造形があったり、あるいは蛍光だったりと、様々な種類がある。こういう観光地では売店にあまり立ちよらない性質なので知らなかったが、こうやって改めて眺めてみると、そのバリエーションは本当に多彩だ。多彩すぎて、どっちつかずな性格の僕では相当迷ってしまうだろう。土産選びで何十分もかけてしまう人たちの気持ちもわからないでもない。
――しかし、
しかしやはり、この「砂時計」というワードを心に浮かべた際、僕の中に沸き起こってしまう思考は、どうしても先週の日曜のことになってしまう。住宅街のT字路でで出会った人物。
怪盗『砂時計』
その日、僕は人生二度目の邂逅を果たしたわけだが、彼は一体僕のことを覚えていたのだろうか? 去り際、あいつは僕の服装に見覚えがあるようなことを言っていたが…………あの頃と昨夜、何か同じ服を着ていたんだろうか? 正直、前回のときのことはよく覚えていないため、整合のしようがないんだけれど。
……とはいえ、彼は微妙にもったいぶったような言い方をしていたために、彼が本当に怪盗『砂時計』であるという確証は、残念ながら持てていないのだ。証拠はまったくないのだ。彼がわけもわからず僕の話に無理やり乗っかってきた通りすがりの一般人である可能性も否定できないのだ。
――しかしまあ、僕自身は確信している。彼こそがこれまで五年間様々な美術品をかっさらっている怪盗であり――――そして先週もまた、一千万程の値打ちがある宝石をまんまと美術館から盗み出した張本人であること。あんなタイミングで偶然通りかかった人がそんなトーキングスキルを有している可能性の方が、明らかに低いだろう。
正直、彼が実際に使っている手法というものを知りたいという欲求もあるのだが、それを知ることはやはり困難だろう。なんせ、それがばれてしまえば、彼の生業も今までの成果もすべておじゃんになってしまうのだ。彼がどんなにお人好しだったとしても、教えてくれるとは思えない。本当に知りたければ――――やはり、彼を捕まえなければ。
次また南川に連れだされることがあれば、今度はそれを目標にしてみるのもいいのかもしれない。昨夜のことを南川に言うと何を言われるかわかったもんじゃないので言えないし、言う気もない。なので、あいつの助力を請うことはないだろうけど、それでも独りで――
「――加賀原?」
僕は思わず体をびくつかせ、背後の壁に思い切り後頭部をぶつけ、悶絶しながら頭をさすりながら目に涙を浮かべながら首を回すと、
「何やってんの」
と、腰に手を当て、あきれ顔を僕に向けている橡彩だった。
「もーっ! あんた、いつの間にかいなくなってるんだから! 左に座ってた人に『あと何回乗る?』って聞いたら、見ず知らずのおじさんでびっくりしたよ! まったく! せめて一言言ってきなさいよ!」
腰に手を当て、頬を膨らましながら言ってくる橡さん。
腕時計を見ると、文字盤は現在時刻が二時半だと言っている。つまりは、僕がドロップアウトしてからゆうに二十分経っていることになる。その間自分が取り残されていることに気付かない橡さんにも幾ばくかの責任はあるんじゃないかと思いながらも、
「……いや、悪かったよ」
と、殊勝に謝った。
「で、あのアトラクションはもう気が済んだ? だったら、少し喫茶店で休憩でも――」
「さ! 次行くよ! 次!」
そう言って、僕の肩の服を握りしめて歩き出す橡さん。
僕はよろけながら、
「次って、ど、どこ行くの?」
「お化け屋敷」
橡さんは歩みを止めることなく首だけ回し、にたりという効果音が聞こえてきそうな笑顔を僕に向けてきた。
「あんた、そういうの苦手そうだからね。あたしが直々に特訓してあげるよ。さっ! ついきなっさい!」