第二話「教室にて」その二
昼休みで、和気藹々とした雰囲気の教室後方。
そこでは、四人の生徒が談笑している。そのうちの一人が女子生徒で、残りの三人が男子だ。みんなで笑い合って、小突きあって、また笑いあって。楽しい高校生活っていうのはきっとこいううものなんだろうというお手本のような風景だった。
そしてこの中の唯一の女子生徒というのが、首元まで伸びた黒髪をゴムで一つに縛っていて、ウサギみたいに笑っていて、そして強く輝いた目をしているクラスメイト――――橡彩なのである。このクラスで楽しい会話が行われている場合、たいがいはその輪の中に彼女がいるもんだ。起爆剤になっているのか促進剤になっているのかは知らないが、とにかく橡さんがいれば、周りの男子も女子も楽しく話をする。彼女はそういうノリとペースを持った人間なのだ。
そして、残りの三人の男子のうちの一人。
清潔感のある短髪で、バスケ部所属だからかややしっかりした体格。南川ほど端正な顔でもないが、しかし人のよさが全面に滲み出したような微笑が張り付いている男。クールな男好みが南川を支持するなら、明るい男が好みな女子に人気がある生徒――――鷹野則唯である。
僕も今までに二、三度話したことがあるが、まるで数年来の友人であると錯覚してしまうほどに、彼は自然に当たり障りなく僕のパーソナルスペースに入ってきた。どうせ友人に持つなら、わけのわからん怪盗の捕獲に躍起になっている南川より、鷹野の方が断然いいと思わしめる雰囲気をかもしだしていた。その歯切れのいい性格からして、女子からだけでなく男子からも支持されるクラスメイトである。
そんな男が、橡さんと楽しそうに話している。
お互いアハハハハと笑いながら、時に叩いたり、時にどついたり、時にヘッドロックをかけたりしている。それはまあ、何てことはないコミュニケーションの一種でしかないのだろうが――――しかし僕にとっては、どうにも虚しくなる光景だ。
僕が橡さんにヘッドロックを掛けようとするなら、数分間の心の準備と気持ちの整理とそれ相応の覚悟が必要なものだ。反射的に、当たり前にそれをやろうなんて不可能に近い。ときに、名前を呼ぶのですら躊躇するくらいなのだ。
そんな、僕には決して超えられないハードルを、小石をまたぐかのようにいとも簡単に越えていく男。本心としては苦々しい限りだが、だからといって鷹野をライバル視する気にもならない。嫌いになる気にもならない。つまるところ――――勝負にもなりはしないというところなんだろう。
鷹野は、特に何か卑怯なわけでもない。ズルをしているわけではない。彼が彼であるからこそ、そういうことができるのだ。そういうことが許されるのだ。そういう次元の問題なのだ。そういう次元での僕の敗北なんだ。
――このもどかしさはどこへぶつけるべきなのだろうか?
――一体全体誰を恨むべきなんだろうか?
これが、今年の四月に橡と初めて出会ってから、僕がずっと反芻している悩みである。
「……はあ」
嘆息しながら、僕はようやく五割り増しでおいしくなくなってしまった弁当を食べ終えた。そして弁当を包んでいると、横から、
「――まったく、また彩のこと見てるの?」
と、至極とげとげしい声が投げかけられてきた。
首を回すと、腰に手を当てた佐々谷が僕の横に立っている。背中まで伸びた黒髪を後ろに払いながら、銀縁の眼鏡の奥から呆れたような視線を僕に向けている。
「……やれやれ。あなたったら、休み時間のたびに一人で席に座ったまま、彩の観察ばかりしてるんだから。傍から見てると、気色悪いったらありゃしないわよ。そんなに気になるなら話しかければいいのに。彩はそんな壁を作るような女じゃないのはわかってるでしょうに」
「……そんな、簡単に言うなよ」
「あからさまに簡単なことじゃない! ただ単に『こんにちは。何の話してるの?』って言えばいいだけなんだから。これほど簡単なことはないわよ。まったく…………あ、言っとくけど、そんなコソコソ観察ばっかしてて、ストーカーなんかにならないでよね? そんなことになったら、私の責任になっちゃうじゃない。そんなことさせるために家に連れてったわけじゃないんだから。気をつけてよ? ……とは言っても、現時点ですでにストーカーみたいなものだけどね」
うるっさい! ――――と叫びたかったが、もはや叫ぶテンションも維持できてなかったので叫べなかった。代わりに、僕は佐々谷をジト目で見返すだけに留める。
佐々谷はそんな僕の視線を気にすることなく、僕の隣の席にどっかりと腰を降ろしながら、
「……そうね、ここで一つ、あなたにためになる話をしてあげましょうか?」
「……ためになる話?」
「そ。あるいは興味深い話と言ってもいいかもね。いいからありがたく聞いておきなさい。もちろん見返りはきっちり要求するけど――――ところで、あなたは映画とかドラマとか見るほう?」
「いや、まったくもって見ないな。テレビ自体あんまり見ないし」
「そんなんだから友達が誰もいないのよ」
誰もいないって、一応、南川は友人と呼べなくもなくもな…………いや、あいつは怪盗『砂時計』にかこつけて絡んでくるだけだし、確かに友達とは呼べないのかもしれない。
反応できずにいる僕を、佐々谷はふんと鼻で笑いつつ、
「……まあ、あんたに友達なんてできたら天変地異が起こっちゃうわね。世界平和のために、あんたはいつまでも一人寂しく生きてなさい。とにかく、そんな些事はいいとして」
よくねえよ!
「そういうフィクションの物語にも、いわゆる『元気な女の子』っていうのが主役として出てくることがよくあるわ。もちろん、そういうキャラクターを前面に出すことで作品を明るく前向きなものにするっていう意図もあるだろうけど。……でも、そういう元気なキャラを出すメリットっていうのは、それだけじゃない。より作品を味わい深いものにする手法が簡単に使えるのよ。それはつまり――――ギャップよ」
「ギャップ?」
いまいち話が繋がらず、僕は聞き返しながら首をかしげた。
佐々谷はこの僕のリアクションに対して、にやけ面になり、何だかの優越感を持ったような表情になって、
「そう、ギャップ。もっと言えば、内面と外面のギャップよ。つまりね、いつもは明るく振舞っているけど、内面はすごくナイーブで、気を使い過ぎてて、寂しがり屋で、でもそれを隠すために、人に嫌われないように、演技で明るいキャラを演じている。そういう内面と外面の差異。これが、フィクションの明るいキャラが魅力的に仕上がる理由の一つよ」
「……まあ、話はわかるが、それで僕に何が言いたいんだ?」
「うっふふ。で、ここからが本題なんだけど――――あなた、彩の家族構成って知ってる?」
「家族構成? 橡さんには兄弟姉妹が何人いるか、とか? いや、知らないけど……」
「この前あの子の家に行ったけど、実はね、あの子、今、両親と一緒に暮らしてないのよ」
「…………えっ?」
僕は思わず素っとん狂な声を上げてしまった。上げてから、他の人に変な目で見られてないかと周りを見回し、どうやら他の人はまったくもってこちらを気にしていないようで少々安心しつつも、再度佐々谷の方を見て、
「……両親と別居って、どういうことだ? 離婚とか?」
「いや、単に仕事で外国に行ってるだけよ。だからあの家では彩と、お兄さんと、妹の三人だけで暮らしているの」
……そ、そうか。そうなのか。そう言えば確かに、彩さんの家の玄関じゃあ皮靴やハイヒールなんてのは見なかった気がする。
「……まあ、そのお兄さんがしっかり者な人だからね。生活で困るようなことも全然ないみたいよ。私も何回か会ったことあるけど、すっごく生真面目な人だった。おまけに、彩と妹の男友達の選別について、両親から全権を託されてるって話だし。だから、あんたの最終目標は、その人にちゃんと気に入られることになるかもね。無理だろうけど」
……最後の一言が余計だ。
「とにかく、そんな非現実な希望から話を戻すけど――――彩はしばらく両親と会ってないってことなのよ。あの子もあんな明るい性格してるけど、その実は両親がいなくて寂しい思いをしてるんじゃないかってね。それを隠すためのあの突拍子もないキャラとか。……そう考えると、辻褄が合う気もするでしょ?」
――橡さんのあの性格が、演技? 造られたもの?
僕はその思いがけないアイディアに驚きながら、ちらりと教室の後ろを向いた。
そこではまだ、橡さんと鷹野が談笑を続けていた。そして、その談笑の内容が耳に入ってくる。
「――そういやさあ、橡、昨夜の九時からやってた特番見た?」
「特番? いんや、あたしは見てないけど……。何かおもしろいのやってたの?」
「いやー、おもしろいってか、オレ、気味が悪かったんだけど。最近の最先端技術ってのが紹介されててさ。何でも、『ナノ・マシーン』ってのが実際に開発されて、実用化されてるらしいんだ」
「な、なにぃ! な、『ナノ・マシーン』だってっ!」
「そう、そうなんだ。医療現場じゃあ、実際に人間の体内に注入されてるとか。そういう映像が流れてた。……でもさあ、実際自分が注入されることを思うと、少し気味悪いよなぁ。そんなもんが自分の体に入るなんて。自分の体が内側から操られるみたいで」
「……確かに、恐ろしいもんだね。まさか『ナノ・マシーン』とは。…………その名前から察するに、その効力ってのは、注入されたが最後、語尾に『~なの』という愛くるしい助詞がついてしまい、生粋の萌え系に生まれ変わってしまうってところだろう。響子のツンデレですら台無しではないか。現代科学の何と恐ろしいことか。恐ろしい、ああ恐ろしい、本当に恐ろしい……」
腕を組み、時代の行く末を案ずる薩摩藩主のような真剣な表情で「う~む……」と考え込んでいる橡さん。
…………う~ん、演技?
むしろこれが演技であった方がどれだけありがたいことかと思いながら視線を佐々谷に戻すと、
「……ま、例えばの話よ」
佐々谷は取り繕うような顔で答えてきた。
「つまり、背景を考えるとそういう可能性もあるってこと――――そんでもって、前述の明るい女の子が主人公の物語ではね、王子様役っていうのは、その女の子の寂しさをわかってあげることができて、さらに癒してあげられるような男なのよ。つまり包容力。それがあなたにあるのかってこと」
……包容力、ねえ。
「ノリも金もルックスも包容力もありゃしないあんたに、一体全体どうやって彩を射止めることができるのかって話。……いえ、彩だけじゃなく女性一般についても同じよ。あんたに、一体何ができるっていうの? その人のために、あんたができることって何? あんたにしか出来ないことって何? 何か一つでもあるの?」
……僕にできること。
……僕にしかできないこと。
「…………ほら、反論できないでしょう? 何一つ思い浮かばないでしょう? だから、あんたもさっさと考えを改めて――」
――キーン、コーン
黒板の上のスピーカーから鐘の音が響いてきた。時計を見ると一時十五分。五時限目は一時二十分からなので、つまりは予鈴だ。あと五分で授業が始まってしまう。
「あ! やばい、昼休みがあと五分しかないじゃない! まったく、くだらない話してて時間を無駄にしたわ! どうしてくれんのよ!」
……満場一致で僕の責任じゃないだろ。
「私がわざわざあなたに話しかけたのは、こんな意味のない話をするためじゃないの! もっと大切で有意義な情報を共有するためよ!」
「……有意義な情報?」
「そっ! つまり――――さっき、あなたは南川君とどんな会話をしてたのかってこと!」
バシンッと、南川ばりに僕の机をはたく佐々谷。
何も悪いことをしていないのにさっきから叩かれ続けている僕の机が不憫になりながらも、僕は肩をすくめて、
「……別に、いつも通りだよ。いつも通り、『砂時計』についてさ」
「ああ、やっぱりぃ!」
表情をころっと変え、両の手を胸元で握り締める佐々谷。
「そりゃそうよね。あの南川君がこんな冴えない男と交わす話題なんてそれくらいよね。当たり前よね」
なんだとこのやろー。
「……うふふ。それにしても、南川君ったら、相変わらず正義感に熱い人よね~。そこがまたいいのよ。あの悪を憎む真剣な眼差しにシビれるの」
「……だったら、君も来りゃいいじゃないか。何なら、僕の代わりに参加すればいい。怪盗『砂時計』討伐に、加賀原元の登録名で参加してもらったって一向に構わないよ」
「そんなヤボなことできるわけないじゃない。私はただ、あの人の悪に立ち向かう横顔を眺めてられればそれでいいの。そっと見守っているだけでいいのよ。……ああ、なんて健気な私!」
そんなことを叫びながら、くるくると舞い踊るように自分の席へ帰っていく佐々谷。
実際問題お前の方がストーカーじゃないのかという僕が呈すべきだった質問は、残念ながら、彼女に届けられる機会をしばし失なってしまった。