第一話「橡彩宅にて」その二
かくして、部屋の中には僕と、僕の目の前でいまだに黙々と鉛筆を動かしているメガネ装備少女、佐々谷という図。
佐々谷は顔も上げず、ロングの髪の先端でテーブルを撫でながら模写を続けている。なので、僕は今度こそ完全に手持ち無沙汰になり、しかたなくウーロン茶を減らしていく作業に専念することになった。
――と、程なくして、
「……ふう。何とか、私も終わったわ」
佐々谷もため息をつきながら顔を上げた。そして、眼鏡越しに僕をじろりと睨みつけてきて、
「……というか、加賀原、あなた、字が汚いのよ。解読するのに時間がかかっちゃって。おかげで遅くなっちゃったわ」
口を尖らせながら言ってくる。
僕は、だったら僕のノートを強奪するなこっちが頼んだ覚えはないってのにこの誘拐魔という正論を飲み込み、
「……悪かったよ」
と肩をすくめる。……我ながら実に弱気な対応であるが、佐々谷とは橡さん以上に疎遠なため、余計に接し方がわからないのである。
佐々谷は僕の返答にふんと鼻を鳴らすと、脱力するように背後に手をついて、そこに体重を預けた。そしてそのままテーブルのウーロン茶を一息で半分ほど飲むと、
「……でも、あなた、私に感謝しなさいよ?」
ふいに、ホクロの張り付いた口元をにやつかせながら、僕に言ってくる。
「私の手引きのおかげで、あなたの〈念願〉が叶ったんだからね」
「僕の念願? ……って、何だ、それ?」
「ふふ、ふふふふ。まったく、もう、何言ってるのよ?」
佐々谷はふふんと勝ち誇ったような顔をして、
「全部バレバレなんだから。今さら隠さなくてもいいわよ。取り繕っても無意味。本当は今、あんた、すごくすごくすごーく嬉しいんでしょう? 舞い上がってるんでしょう? だって――
――『愛しの』橡彩の部屋に入れたんだから」
「な……!」
僕は思わず前屈みになった。そして何とか言い繕うと思って口を開く――――が、次の句が思いつかず、
「あっはは。ほら、やっぱりぃ」
口をパクパクさせるだけの僕は、けらけら笑って僕を指さしてくる佐々谷に、完全に主導権を奪われるままになってしまう。
「わかりやすいのよ、あなた。教室じゃあ、他の人は興味なさげに眺めるだけなのに、彩のことだけは一生懸命目で追ってるんだから。私みたいによく彩の周りにいる人間には一目瞭然なのよ。あなたが、彩に気があるんだってね。……しっかし、あなたも変わった男よね。よりによって彩を気にするなんて。半年もクラスメイトやってきて、彩の性格が理解できてないわけじゃないでしょ?」
「……そ、そりゃ、わかってるけど」
「大体、あんたと彩じゃ性格が釣り合わないのよ。彩みたいな能天気で明るい子っていうのはね、同じように明るい性格の男にしかなびかないの。……だって、当たり前でしょ? 自分よりローテンションな人間といたら、気が重くなってしょうがないじゃない。そんな男といても楽しくないのよ。例外は顔がいい男か金持ちな男だけど、残念ながら、あなたはそれらにまったくもって当てはまらないしね。だから――あなた自身がどうかはともかくとして――彩があなたといて幸せに感じることなんてまずないと思うけど」
……な、なんって言われようだ。ただのクラスメイトに、そこまでなじられる筋合いがあるのか? ここまで人の人格を否定する権限があるのか?
…………が、しかし、いかんせん、今の佐々谷の言い分は、どこを切り取っても正論のように思えてきてしまう。ツッコミどころが見つからない。僕には言い返せない……。
「というわけで、残念ながら私はあなたを応援する気はさらさらないわ。望みが極細なのに応援しても、こっちが疲れるだけだからね。そんな無益なことは私はしないの。今日あなたをここに連れてきてあげたのはね、単にあなたに恩を売っておくためよ」
「恩を売る? 僕に? ……何のために?」
「決まってるじゃない! 決まりきってるわ! 紀元前から決まりきってるわよ! 南川君のことよ!」
……南川のこと?
「そうよ! ――――ああ、ああ、私の私の私だけの白馬の王子様! 南川準様! 知的で優しくて笑顔が麗しい世界一の殿方! 我が高校に舞い降りた神の使い! 私の未来の旦那様ぁぁあ!」
佐々谷は胸の前で両手を握り締め、虚空を見つめて声を張り上げている。鼻血でも流さんばかりの発狂振り。……というか、そんな大声で叫んで、ここがよその家だということを忘れてないか、この人?
「そんな素敵な南川君が、なぜかなぜかなぜなぜか、よくあなたと一緒にいるじゃない? 絵面的にはまったくもって釣り合ってないけれど、二人でよく話してるじゃない? だったら仕方がない。南川君のことを知るために、より深く知るために、私はあなたとも少しばかり話をする必要が出てくるじゃない? だから私はあなたをここに呼んだのよ。そして聞くのよ! 南川君はどういう女の子がタイプなの、と!」
「……知らないよ」
僕は即答した。
実際、僕は南川と女性のタイプについて話し合ったことなど一度もなく、本当に知らないのだが、たとえ知っていたとしても、今までの会話の流れからして教える気にはならなかっただろう。当たり前だ。
僕は脱力しながら、
「そんなの、本人に聞けばいいだろ」
「聞けるわけないじゃない!」
佐々谷はまたも叫んだ。
「私が直接聞いたら、優しい優しい南川君のこと、きっと『オレのタイプは髪が長くて絹のように綺麗で、メガネが知的に素敵で、そして口元のホクロがチャーミングな娘かな。……そう、君みたいに』って言ってくれるに決まってるじゃない! そう言って私に微笑んでくれるに決まってるじゃない! そんなこと、そんなこと言われたら、私は! 私はぁぁあ!」
「――うるさい」
ばたんとドアを開け、橡さんが帰ってきた。
「響子、さっきから何叫んでんの。あんたが学校でいくら叫ぼうが構わないけど、ここがあたしん家だってこと忘れないでよね。近所迷惑になっちゃうでしょ。ただでさえ、うちはご近所さんに『カラオケ無法地帯』の名で知れ渡ってるってのに。余計に怒られちゃうっての」
「あ、ごめんごめん」
佐々谷は平静を取り戻し、頭をかきながら素直に謝った――――が、一拍おいた後「ん?」と眉を吊り上げながら、
「……ちょっと待ちぃ、彩。今の話を冷静に聞くと、どうもあなたに私を糾弾する権利はないように思えるんだけれども」
「なーに言ってるの。あんたがあたしん家で迷惑かけたんだから、謝るのは当然でしょ」
「そりゃそうだけど、でも、現時点であんたん家は最低評価をくらってるじゃない。残念ながら、私には『カラオケ無法地帯』を越える称号を承るほどの力量はないわよ」
「すると、何かぁ? 影響が小さければ罪は罪でないとお前は言うのか? 例えば、他人のプリンからカラメルだけを盗んで食した場合、プリンのプリンたる本体は無事なんだから無実だと、お前はそう言うのか?」
「……い、いや、プリンからカラメルを抜き取るのは、神の冒涜にも等しい大罪よ。死罪以外が言い渡されようものなら、裁判官が死罪をくって然るべき罪状よ」
「ほら見ろ! つまり、たとえどんなに小さい罪だとしても、その深刻さは人によって千差万別、罪は罪なんだよ! 許されるものじゃないんだよ!」
「…………うぬぬ」
言い返せなくなり、唸り始める佐々谷。僕の方に一瞥をくれ、「お前はこれでもこいつに惚れるのか!」と言わんばかりに睨みつけてくる――――が、どうしたらプリンからソースだけを抜き取れるのかその手法はいかなるものかと考えることに忙しかった僕は、やんわりと無視した。
橡さんは、なおも今この場では自分が最もまともな人間であるとでも言っているような真面目くさった顔のまま、
「――というか、あんたたち、終わったんなら早く帰りな。もう六時過ぎてるよ」
「…………そうね、私もそろそろ帰んないと。プリン談義してて冷蔵庫にストックしてあるおやつのプリンを食べ損ねたら元も子もないわ」
佐々谷はよっこらと立ち上がり、テーブルの上のノートをカバンにしまった。そして肩に掛けると「じゃね、また明日」と手を振りながら部屋を出て行った。程なくしてトストスと階段を降りていく音が聞こえてくる。傍から見ると何ともさっぱりした去り際だが、この二人はよくよく一緒にいることが多いので、家に遊びに来るのも行くのも帰るのも珍しくもないのだろう。二人の性格のせいもあるだろうけど。
僕も僕で、テーブルの上に残された古典のノートという名の我が人質を取り戻すと、
「じゃ、じゃあ、僕も帰るね」
「ああ、加賀原、今日はサンキューね。助かったよ」
橡さんはぽんぽんと僕の肩を叩いてくる。
「また何かあったらよろしく頼むよ。ウーロン茶ご馳走するからさ」
いつもの屈託ない笑顔の橡さん。その眩しい笑顔と叩かれた肩の感触に僕は変に動揺しながらも、佐々谷と同じように「また明日」と言いながら部屋を出て、階段を降り、玄関を出て行った。
そしてとぼとぼ家路を急ぐ。
……僕の時給はウーロン茶一杯か、というツッコミを飲み込みながら。