最終話
商店街の大通り、彩さんの後ろをついて歩く僕の足取りは、この上なく重かった。
トボトボとズルズルと、一歩一歩の歩幅は猫よりも短く、頭は枯れたヒマワリのようにひしゃげ、脱臼でもしたかのように両肩はだらんと地面に垂れている。この様を見た他の通行人の九割九分は、恐らく僕のことを、手錠に紐を繋がれ引っ張られていく捕虜のようだと形容することだろう――――いや、事実、僕は敗軍の兵なのである。
今日、僕は彩さんに再戦を申し込んだのだ。
発端はもちろん、四か月前のあの敗北。遊園地のゲーセンでパーフェクト負けを喫したあの試合だ。百三十六日と三時間四十三分も前のことはとはいえ、僕にとっては昨日の出来事のように思い出される鮮明で克明な雪辱。思い返すたびに頭に血が上り、わなわなと全身が震えるほどのスピリチュアルダメージを負ったのである。
僕は、自分の力でこの悪夢を乗り越えようとした。
自身の力でこの悪夢に打ち勝とうとした――――のだが、やはりというか、何というか。
僕だって、あれから幾重もの鍛錬を積み重ねてきた。血の滲むような試練を超えてきた。日々ゲーセンに通い、精進に精進を重ねてきた――――はずなのに、それだけでは彩さんとの距離はまったくと言っていいほど縮まらなかったのだ。まるでただのリプレイのように、画面上では前回と同じアクションが繰り返されただけだった。
「……はあ」
僕の今までの努力は何だったのだろうか? 投じたお金は何だったんだろうか? かけた時間は何だったんだろうか? さっきから、溜息ばかりが口を衝いて出てくる。自然と肩が落ちてしまう。僕にはもはや、自宅まで帰る気力もありはしない……。
って、いやいや、違う。
そうじゃない。そうじゃなかった。僕が今日、彩さんと二人で連れ立つ機会を伺ったのは、こんな目に会うためだけじゃないんだ。再戦を申し込んだのだって、単なる名目的なことだったんだ。
僕は気を入れ替えるように、ぶんぶんと首を横に振った。そして顔を上げ、目の前で鼻を高々と上げながら通りを闊歩していく彩さんに、
「あ、あの、ちょっと待って、彩さん」
と声をかけた。
彩さんは一つ縛りの後ろ髪をたなびかせ、スカートの裾をふわりと浮かしながらフィギアスケートのようなターンを決めて、
「ん? なんだ、元? …………というか、あんた、『ちょっと待って』だなんて、その言葉使い。少しばかり、あたしに馴れ馴れしすぎるんじゃないのかい? あたしに対して称すべき『敬意』っていうものがあるんじゃないのかい? まったく、そんなこともわかっていない輩に、あたしがわざわざ声をかけてやる義理なんてあるのかなあ? ない気がするんだよなあ? なあ、この――――敗北者ッ」
「ぐっ……」
僕の胸にメラッと激情が巻き起こる。思わず肩がわななく。ぎりっと歯が軋む。……しかし僕は何とかそれを堪え、無理矢理ニコリと笑みを作って、
「……あ、あの、彩、さん…………あ、彩、様。時間を取らせてしまうのは、まことに、申し訳、ないのです、が、す、少しばかり僕の話を聞いてく……聞いていただけません、か?」
「はっはっは、あっはっはっはっはっは。しょうがない。しようがないなあ、聞いてやろう」
胸を張り、肩を揺らして尊大に笑う彩さん。
僕はジャケットのポケットから小箱を取り出すと、彩さんの目の前に歩み寄った。そしてお辞儀するように上半身を傾け、さも召使いのように彩さんの眼前にその小箱を差し出す。
彩さんはそれを見降ろし、こくりと首を傾げて、
「……? 何、これ?」
「いや、あの…………これは、こういうもんです」
言いながら、僕はぱかりとその小箱を開いた――――その中から、黄金色のリングに、藍色の宝石がついた指輪が現れる。その光沢が夕日を反射し、彩さんの顔を僅かに橙色に染め上げた。
少しばかり眩しそうに目を細めた彩さんは、
「……へ?」
と呆けたような声を上げた。そしてぱちくりと瞬きをし、ぽかんとそれを見降ろして、アホウドリが一頻り鳴き終えるくらいの間を開けた後、
「な、なに、これ? え、と…………くれるの?」
「う、うん」
僕が頷くと、彩さんは戸惑ったように、僕の顔とその指輪を交互に見てきた。そして恐る恐るとその指輪を手に取り、目の前にかざし、その宝石やリングをしげしげと眺める。
「……いや~、これ、何だかすっごい高そうな指輪だけど。一体何でこんなもんを、急にあたしに――――ああ、なーるほどっ! わかった! あんた、あたしに弟子入りしたいのねっ! これは弟子入りするための対価、いわゆる授業料ってことねっ! あたしの才能に魅入られたあんたは、ついにあたしに師事することを心に決めたと! そのくだらない一生を、ワトスン博士よろしく、あたしの伝説を隣で語るために費やす決心をしたと! つまりはそういうことねっ!」
「――い、いや、あの、ち、ちが…………というか、ワトスン博士をくだらないとか言うな――」
「そうね。そりゃそうね。あんな試合の後じゃあ、そんな心境になるのも無理からぬことだよ。うんうん。……しかし、あたしの弟子を名乗るからには、あんたもそれなりの実力を有してもらわなきゃ困るよ? あたしまで恥かいちゃうから。……よし! しょうがない。明日からみっちりあたしが直々に特訓をしてあげるから! 喜びなさい! とりあえず毎日、学校が終わったらすぐにあたしの家に直行するように! 夕飯までみっちり鍛えてあげるから! 一度でもすっぽかしようものなら即破門だ!」
「――だ、だから、違、そうじゃな――」
「……ふん? そうだ、そう言えば、来週、にいさんがサークルの合宿に行くって言ってたな……。ふふふん。つまり、冬香さえ口止めしておけば、その間邪魔者はいないというわけだ。ふーむ。…………よーし。その間、こっちも合宿を敢行するか! 泊まり込みで、朝から晩まで、晩から朝まで、徹夜で徹底的に鍛えてやる!」
「――ちょ、ちょっと、僕の話を――」
「そいじゃ、そういうことだから! それまでにちゃんと実力をつけてくるのよ? あたしのハードペースについてこれるようにね! 覚悟しておきなさい!」
完全に僕の反論を無視しながら、彩さんは自分の提案を自画自賛するように頷いて、そのまますたすたと前へ行ってしまった。
僕はずっしりと肩を落とし、溜息を一つつく。
……しかしまあ、どこまで本気か知らないが、話通りにいけば、あと数回彩さんの家にお邪魔できるってことか。これはこれで好結果は好結果だろう。もうしばらくは一緒にいられるということなんだ。この間にもう少し彩さんとの距離をつめて、あともう一度何かしらのチャンスがあれば、きっと――
「――じゃ、なくて!」
自省する――――というより、もはやノリツッコミのような体で、僕は声を上げた。……悲しいかな、知らないうちに、僕の右手も自然にツッコミのジェスチャーをしていた。……誰の影響だろう、これは?
彩さんはくるりとこっちを振り返り、
「ん? 何?」
と、小首を傾げながら問うてくる。
僕はこほんと咳ばらいをしながら、
「そうじゃなくて、僕が君にしたいお願いは、そういうことじゃないんだ」
「へ? 違うの? じゃあ、何? あたしに教本を書いて売ってください?」
「違う」
「あたしの爪の垢を煎じたお茶を売ってください?」
「違う」
「一日五回あたしに向かって祈らせてください?」
「違うって……」
僕は疲れたような溜息をつき、
「だから、僕がその指輪と共に君にしたいお願いというのは、つまり、ええと、何というか……」
さっきのノリツッコミのおかげで、僕の心情にも勢いがついていたはず――――はずなのに、言っているうちに、僕の声はまた段々とトーンダウンしてしまう。
伝えるべき言葉はしっかりとあるのに、それを口に出すことに戸惑いやら不安やら恐怖やら、そんな負の感情が入り混じってしまう。少しでも気を許せば、そのまま曖昧にして逃げてしまいそうな、逃げたくなってしまいそうな、そんな心持になってしまう。元々、それが僕の性格だ。それが、僕の普通なんだ。
だけど、
だけど、だけど、だけど、だ。僕にできることなど、しがない怪盗に出会えることくらいなんだ。怪盗から指輪を譲ってもらうことくらいなんだ。これ以上僕に誇れるものなんて、これ以上の機会なんて、僕にありはしないんだ。
それに、たとえここで僕が撃沈したとしても、きっと明日からもまた彩さんは僕に笑いかけてくれるだろう。今までと変わらず接してくれるだろう。そんな確信がある。これもまた、彩さんだからこその信頼だ。何も怖がることはないんだ。
だから、僕は息を大きく吸い込んで、そして言葉を続けた。
「……ええと、だから、彩さん、その――
――僕と、付き合ってください」
…………舌が震えて、危うく噛みそうになった。
けれど、一応伝えた。ちゃんと伝えることができた。
視線を上げて、ちらりと彩さんの顔を伺うと――――彩さんはきょとんとした顔で、
「へ? 付き合うって……どこに?」
「いや、どことかじゃなくて、彼氏彼女のお付き合いをしてくださいって、こと」
「あんたと?」
「そう」
「あたしが?」
「そう」
「今から?」
「そう」
僕が三度頷くと――――彩さんはさらに目を丸くし、ハトが豆鉄砲を食らった――――というか、銃弾が羽をかすめたような顔になった。ここまで驚いた彩さんの顔を見たのは初めてだ。
……まあ、無理もない。
友好範囲の広い彩さんだ。男友達の中で僕のことを特別視なんてしていなかっただろうし、僕のことを異性として見ていたかも疑問だし、僕からこんな告白を受け取るなんて予想の範疇外だっただろう。返事を前もって用意していたなんてまったく考えられない。
予想通り、彩さんは続ける言葉が見つからないように、きょとんとしたまま黙ってしまった。
この間が段々居心地悪くなり、いよいよ彩さんのことを困らせてしまったかなと、僕が後悔し始めたところで――――ふいに、というより突然に、目の前の現象であるにもかかわらず僕が飛び上がって驚いてしまいそうになるほど突然に、眼前の彩さんが、目をつぶってるんじゃないかと思うほど目を細め、目尻をこれでもかというほど垂らし、ひん曲がるんじゃないかというほどに口を歪め、饅頭を丸呑みしたかのように頬を丸くし、耳を真っ赤にして、何だかもう――
――気持ち悪いくらいの笑顔になった。
僕は思わず一歩後ずさった。
引いてしまった。
ヒいてしまった。
位置的にも、心情的にも。
しかし彩さんは「ふへへ」という不気味で気味悪い笑みをこぼして、
「へー、なるほど、へー、へー、へー」
と、あからさまにわざとらしく呟いた。
「なるほど、あんたが、あたしと、このあたしと、付き合いたいと、今、今すぐに、あたしと、付き合いたいと、ほー、ほー、へー、ふーん、なるほど、ふふ、まあ、そりゃそうだよねえ」
彩さんは腕を組み、後ろ髪を揺らしながら、うんうんと顎を縦に振る。
「そりゃまあ、あたしみたいな美しく麗しく、それでいて優しくしおらしい、女性の鑑のような女の子が近くにいれば、そりゃああんただって告白しないではいられないよね。付き合いたいと思わずにはいられないよねえ。うんうん、それは当然だ。当然で自然だ。自然で当たり前だ」
鼻を高々と天に向け、神様にでも自慢するかのように言う彩さん。次いで、僕の目の前に人差し指と中指を立てた手を差し出して、
「――しょうがない、二年間だけだよ?」
と言ってきた。
…………二年?
最初、僕は言われた意味が分からなかった。
二年? 二年? ……何でだ? 何で彩さんは、いきなりそんな期限を設けてくるんだ? 何の前提があっての時間制限なんだ? どんな意図があるリミットなんだ?
男女の関係なんて、それ以上続く可能性だってあるし、はたまたその前に終わってしまう可能性だって十分ある(そもそも僕としては、彩さんと半年以上付き合っていられる自信もあんまりないくらいだ。数時間、あるいは数分で振られやしないかと戦々恐々としているほどである)。それなのに、どうしてそんなリミットがあるんだろう?
少し考えて、僕は思い至った。
……そうか、今現在僕らは高校二年生。そして、今年度が始まったばかりという時期――――つまり、僕らは約二年後に高校を卒業するのだ。僕と彩さんは、同じ高校の同級生という範疇から出てしまうのだ。毎日同じ学校に通い、毎日顔を合わせ、言葉を交わすという習慣が無くなってしまうのだ。日々一緒にいられるという確約がなくなってしまうのだ。
つまり、高校の間だけ付き合おうということだ。
……まあ、僕と彩さんが同じ大学に進む可能性なんてほとんどないだろう。試験結果もだいぶ違うし(どちらが上かという話はあえてするまい)、性格が違いすぎる分、進路がダブるなんてことも考えにくい。
加えて、彩さんには、遠距離になってまで僕との関係を持続させるモチベーションはないということだ。残念ながら、彩さんはそこまで本気ではないということだ。僕に対して、そこまでの執着心はないということだ。
僕は肩を落とした。
これは落胆ではなく、ただの単純なる納得だ。
今のやり取りからして、彩さんの好意に甘えて僕が〈付きあわさせてもらう〉ようなもの。主導権は彩さんにある。決定権は彩さんにある。僕は彩さんに従う他ない。
目の前の彩さんは、どんどん前へと進みながら、
「さて、二年しかないとなると、時間がないな。どんどんカレカノ的なイベントをこなしていかなければ。ふーむ、これから忙しくなるな~。とりあえず当面の問題は、初ちゅーのシチュをどうするかということになるが……」
と、ぶつぶつ呟いている。
……まあ、たった二年だけでも、一緒にいられるだけで、僕は幸せ者だ。
僕は微笑のような苦笑のような顔になりながら、彩さんの後を追おうとした、ところで――
「――ふふ、おめでとう」
いきなり、肩の後ろから声がした。
半年前のお化け屋敷でもなかったくらいにびくついた僕は、飛び上がり後ずさり振り返り、その声の主を見た。
……いや、見る前に、その声からそれが誰なのかはわかっていた。昨日の夜、美術館の屋根の上で少しばかり話した男の声だ。そこで僕のことを褒めてきた男の声だ。僕に指輪を渡した男の声だ。すなわち――――怪盗『砂時計』の声だ。
しかし、僕が驚いたのはそれだけじゃなかった。
僕は今まで、こいつと夜にばかり出会っていた。さらに逆光やら帽子やらの影になっていたせいで、僕はこいつの顔を見たことがなく、今この瞬間に初めてこいつの顔を見たのだが――――その顔の造りは、とてもとても見覚えがあった。細目にややとがった鼻、少し角ばった輪郭、そして右耳の上の癖っ毛――――それは、僕が毎日見ている顔、毎日鏡に映している顔、つまり――
――僕だ。
僕の目の前、ポロシャツにジーンズというラフな格好をした『僕』が、僕に対してにんまりと笑いかけている。
……いや、まんま僕というわけではない。僕の顔にしては少し丸くなってるし、顎のあたりの髭も濃い気がする。今の僕の顔とは少しばかりかけ離れていて、まるで――――〈数年後の僕はこんな感じだろうという顔〉だ。
……そうだ。僕はすでに数年後の彩さん――――ではなく、冬香ちゃんにも出会ってるんだ。だから、数年後の僕が〈ここ〉にいることに、今更驚くこともないんだ。数年後の僕がこの時代にいることだって、ありえる話ではあるのだ。
しかし、それでも驚愕を禁じえないのは――――怪盗『砂時計』の声の主が僕であること。
だって、この声は今まで何度も聞いているが、日々発している僕自身のものとは印象が全然違う…………い、いや、そうだ。そもそも僕は客観的な自分の声というものをここしばらくまったく聞いていなかった。聞く機会がなかった。小学一年の頃、父親が撮った運動会のビデオが最後だった。
これが客観的に聞いた僕の声だというなら、それはそうなのかもしれない。
……しかし、だからと言って、何で数年後の僕が怪盗『砂時計』なんだ? 何で僕は数年後に怪盗『砂時計』なんてものになるんだ? 確かに、南川と違い、僕自身が彼に対し嫌悪感を抱いていないのは確かだけれど……。イービルガーネットの音色や、オランダ貴族の指輪に魅入られてしまったりと、そういう兆候がなかったかというと、否定はできないけれど……。でも、だからって何で僕が怪盗にならなければならない? そこにどういう理由があったんだ? どういう経緯があったんだ?
そんな疑問が、次々と浮かんでくる。
浮び続け、僕の胸の内が押しつぶされそうになる。
けれど『砂時計』はあくまでにこやかに、
「ふっふっふ、前も思ったけど、やはりというかなんというか、俺の場合と少しばかり違うねえ。俺がたどってきた過去とは場面やタイミングが違う。おかげで、ちょくちょく驚かされて、楽しいもんさ。……それに、違うと言っても、前提は変わらない。そして結果も変わらない。そりゃそうだ、どうであれ、君は俺なんだから。だからこそ、親近感もわく」
そう言って、『砂時計』は僕の肩をぽんと叩いた。
「じゃあ、まあ、君も君で頑張ってくれ。俺ももう少しここで働いたら、すぐにおいとまするからさ。それじゃ、お元気で」
肩越しに手を振りながら、すたすたと去っていく怪盗『砂時計』――――僕。
僕はただ茫然と、それを見送ることしかできなかった。
そして見送りながら、ぐるぐると考えが巡る。
……そうだ。そもそも、怪盗砂時計の正体を彩さんの「おにいさん」だと勘違いしていたのだって、ようは、彼女が「……まったく、にいさんたら」と呟いたのを聞いたからだ。それだけの根拠にすぎない。
だから、たとえばそれが僕の聞き間違いであるとか、はたまた、彼女がそう僕に誤解させるよう嘘をついたという可能性だってある。これもまた、僕の勘違いに過ぎないんだ。
……いや、違う。そうだ、それを呟いたのは彩さんではなく、あくまで冬香ちゃんなんだ。それもまた僕の誤解だっ――
――ん?
待てよ。確かに、三人兄妹の長女たる彩さんの「おにいさん」っていうのは、ただ一人しかいない。養子でも取らない限り、できるわけがない――――けれど、それがもし『冬香ちゃんのおにいさん』というなら、もう一つ、もう一つだけ〈別の可能性〉もあったんじゃ……。そうだ。〈お兄さん〉ではなく、『お義兄さん』なら――
「――おーい! 元ぇ! 何してるんだぁ!」
今まさに繋がりそうになった僕の逡巡は、彩さんの叫び声で霧散した。
声のした方を向くと、数十メートル離れた先で、彩さんがぴょんぴょん飛び跳ねながら僕に手を振っている。
「ほら、早くしろ! まずはイベント第一弾! 『吐きそうなくらいに甘ったるい恋愛映画を二人で見る』を敢行するぞ! ほら、早く映画館に向かうぞ!」
……何でまた、吐きそうとわかってる映画をわざわざ見なきゃならないんだ?
僕は内心で呟きながら、しかし肩をすくめるだけで、あくまで従うように彩さんの後をついて行った。
その様を見た彩さんは、
「なんだ、そのツッコミを寸でのところで我慢したような顔は! 何か文句あるの!」
「い、いや、何もないよ……」
僕は慌てて顔の前で手を振った。そして愛想笑いを作って、
「ただ、彩さんと二年しか一緒にいられないとなると、これから頑張って楽しまなきゃなあって、そう思っただけだ。二人でいられるのは貴重な時間だからね。大切にしようってね」
と答えた――――言い訳のようになってしまったが、しかしこれも僕の本心だ。彩さんと一緒にいられるとも期待していなかった僕にとって、これは天国のような時間なのだ。もしかしたら、僕にとって一生で一番大切な二年間かもしれないなのだ。だから、僕は何よりも大切にしたい。大切にしなければ。僕はそう思ったのだ。心の底から。
しかし彩さんは、この僕の発言に、きょとんとした顔になった。そして口元に手を当て、考え込むような顔になった後――――ああ、と納得したような表情をして、
「そうか、あんた、忘れてんね」
「忘れてる? ……何を?」
僕の問いに、彩さんは再びにんまり笑顔になった。そして右肩に掛けたかばんをおもむろに開くと、そこから一枚の紙切れを取り出す。
「これ、忘れたの?」
そう言って、彩さんは僕の目の前に、それをひらひらとたなびかせる。
僕は、その紙切れをよく見た――――よく見ると、それは数週間前、僕が強制的に描かされた――
――婚姻届だ。
……いや、確かに、僕はこれの存在をすっかり忘れていたけど。……でも、何で彩さんはこのタイミングでこれを取りだしたんだ? どういう話のつながりだ? 婚姻届と『二年』という期限。そこにどんな関係が? ――――と数秒考えたが、それは考えるまでもなく、すぐにわかることだ。
……そうだ。今日から二年後には、三月二十日が誕生日たる僕は十八になるんだ。
その婚姻届が、やっと効力を発揮するようになるんだ。
そうか、そういう意味での二年だったのか。
やっとわかった。
合点がいった。
すべてを納得できた。
「ほら、わかったら、さっさと行くよ!」
叫ぶように言いながら、彩さんは半ば照れたような、半ば恥ずかしがっているような、やたらと眩しい笑顔になる。眩しすぎて、目が眩みそうになって、僕はしばし言葉を失ってしまった。
僕といることで、彩さんが嬉しそうにする。楽しそうにする。そんな感覚だけで、僕は生まれて初めてともいえるくらいの、〈幸せ〉という感情に浸る。これが〈幸せ〉ってものかと、生まれて初めて理解する。何だかもう、うじうじと悩み続けて生きてきたこの十六年間が、今この瞬間に、今この一瞬だけで、一気に、綺麗に、さっぱりと、完全に報われてしまったような、そんな感覚になる。そんな感覚に浸る。
僕は何も言えない。何も言えなくなる。ただただ、顔がにやけてしまうのを懸命に押し殺しながら、彩さんの後ろをついて歩くだけ。飛び跳ねるのを我慢するだけで精一杯だった。
おかげで、
「あんた、それ、いつも持ち歩いてたのかよっ!」
という、できれば今聞いておきたかった僕の疑問は、しばらくの間、彩さんに伝わる機会を失ってしまったのだった。
〈怪盗『砂時計』と僕 END〉
というわけで、「怪盗『砂時計』と僕」でした。お読みいただきありがとうございました!
この作品を書き始めたきっかけというのは、実は――――ラブコメ、というものを書いてみたかったのです。
しかし、一体何をどうすればラブコメというジャンルたるのかよくわからず、さらに今の主流である「主人公がたくさんのヒロインにもてはやされる」という形式も式織が書いてもなんだかな~と思って、考え直し。結果として、今回のような「主人公の恋愛感情を主軸にした話」を書いてみました。
これがラブコメなのかまったくもって自信が無かったので、ジャンルもファンタジーとなっております(汗)。
元々は連載中の拙作「つくみフェイズ移動論」よりも書き始めたのは早かったのですが、「つくみ~」の方がおもしろいんじゃないかと思い、先に向こうをこちらのサイトに乗せた経緯があります。しかし、書いてみるとこちらの方が筆が進んだので、「怪盗~」の方が先に完結することに……。行き当たりばったり出すいません(滝汗)
「つくみ~」はもうしばらく時間がかかると思うので、気長に待っていただけたらと思います。
ではでは、ありがとうございました!