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第九話「美術館にて」その四

 僕は、無我夢中で走った。

 手元の地図を見ることもなく――というかぐしゃぐしゃに握りつぶしながら――ただただ前だけを見つめて走り続けた。どんな道順で走ったのかとか、どんな人とすれ違ったとか、そんなことも覚えてないくらい無心だった。

 僕がようやく自意識を認識したのは、屋根の上だった。

 どうやってそこに昇ったのかさえ、僕はまったく覚えていない。どころか、どんな思考でもって、どういう目的があってそこに昇ろうと思ったのかすら記憶の外だった――――とにかく、見降ろした建物と周囲の庭園の形状から、ここが遠野岩美術館の屋根上であることに、僕はそこで初めて気づいた。


「……はあ、はあ」


 息が苦しい。脇腹も痛い――――当然だ、とにもかくにも、僕があの駐車場からここまでの数キロを全力疾走で走ってきたのは事実なんだから。僕にとって、半年前の校内マラソン以来の長距離走だった。

 ふうと大きく深呼吸し、冷たい夜の空気を喉の中で感じながら、僕は視線を真正面に向けた。

 とさかのような形の群青色の屋根の上、その先端に立っている黒いスーツ姿の男を見据えた。


「……ふふ、くくくく」


 帽子を目深にかぶっており、おまけに月光の影になっているため、その表情は見えない。しかしその息遣いや肩を震わせる仕草から、そいつが笑っていることはわかる。楽しそうに愉快そうに、笑い声をこぼしている。


「……ま、間に合っ、た」


 まだ整っていない呼吸の中、僕は呟く。そして一歩前へ進みながら、


「お、追い詰めましたよ、怪盗『砂時計』。…………いや――


 ――『橡冬香』のお兄さん!」

 

 僕は糾弾するように言った。

 目の前のその人は、ようやく笑いを止め、


「……へえ、よくわかったじゃないか。あいつ、何かミスをやらかしてたかい?」

「いえ、特に。僕にしたらノ―ヒントに近いもんでしたけど。……というか、そもそも、僕が『彼女』のことを『彩さん』だと思ってたのは、僕の勝手な誤解でしたからね」


 僕はそろりと前へ進みながら、言葉を紡いでいく。


「今まで二回あった『彼女』との邂逅。その中からわかる事実のみをまとめて考えれば、どうとでもわかることです――――『あの人』について確かなのは、橡彩さんに顔が『似ている』ということだけです。……もちろん、『あの人』が彩さん本人である可能性だって十二分にありました。しかしそれが間違いだとわかれば、答えは自ずと一つに絞られてくる。自動的にそうだとわかる。『あの人』は四、五年後の彩さんではなく――――『七、八年後の冬香ちゃん』だと、ね」

「……ふふ。まあ、そりゃそうだ。俺も冬香も、その誤解を利用させてもらっただけだからね」


 言いながら肩をすくめる『砂時計』。


「しっかし、よくもまあ、君が冬香の誕生日なんて覚えてたねえ? 少なくともあいつは、『この時点』で君に誕生日を教えた覚えはないと言ってたのに……。一体全体、誰に聞いたんだい?」

「別に、誰でもないですよ。たまたま偶然聞いただけです。以前彩さんの家に行った時、冬香ちゃんが彩さんに対して『先週の私の誕生日』について不満を言ってるのを、ね。そこから逆算して、なんとかわかっただけです。……今回ばかりは、本当に運が良かった」


 僕はさらに一歩前へ踏み出して、


「……しかし、こっちこそよくわかりませんよ。あなた、今回はずいぶんとここでゆっくりしてたんじゃないですか? 冬香ちゃんが僕を襲ったのは結構前なのに、まだこの美術館の敷地の中にいたなんて。前回も前々回も、盗んだらすぐに帰ってたのに。今回は何か別な用事でもあったんですか?」

「は? ん? へ?」


 僕の問いかけに、怪盗『砂時計』は首を右に左に傾げた。シラをきる――――というよりかは、本当に悩んでいるような、本当にわけがわかっていないような、そんな所作だった。次いで、わざとらしく手をポンとついて、


「ああ、そうか…………………ふっふふふ。君、まだ気づいてないんだね? 無我夢中だったから」

「……気付いてないって、何にですか?」

「うっふふふ。時計、見てみなよ」

「……時計?」


 この時の僕の頭には、もちろん『これは僕の視線を逸らす罠なんじゃないか?』という疑いが巻き起こった。……が、かと言って、『時計を見ないことが罠なんじゃないか』という疑惑も拭いきれないし、見ないままでは話が続かない。少しばかり迷った後、僕は『砂時計』から視線を逸らさないよう腕を持ち上げ、横目でちらりと自分の腕時計を見た。その時計盤は――――こちこちと、相変わらず秒針を動かしている。その柄も形も動きも、毎日僕が見ているそれだった。


「……別に、いつも通りの僕の時計ですが?」

「はははは。時間だよ。時間を見てみなよ」

「……時間?」


 僕は再度、手首をチラ見した。時刻は、八時九分。別に何ら問題ない――


 ――……あ、あれ?


 僕は思わず、時計を二度見してしまった。

 八時? 九分? 九分? 本当に? あれ? だって、そんな、おかしい。手錠を外して立ちあがった時、僕はちゃんと時間を見たんだ。その時が確か、八時六分だったはずだ。あの後、僕は数キロの道のりを走ってきたんだ。あれからたかだか三分しか経ってないなんて、そんな、ありえない。もしかして、時計が壊れているのか? ……で、でも、秒針はちゃんと動いているし。

 僕は慌ててズボンのポケットから携帯を取り出した。

 パカリと開き、電源を入れ、その画面に映っているデジタルの時間を見る――――やはり、PM八時九分。腕時計とまったく同じ時間を示している。……やはり、この時間が正しいのか? しかし、そんな、なんで……。

 僕は茫然としたまま『砂時計』の方へと視線を上げた――――『砂時計』は腕を組み、僕の反応に満足したような仁王立ちで、


「はっはははは。いやいや。俺は何もしてないよ。君に対していかなる干渉もしていない。それは純然たる『君の力』だ」

「……僕の、力?」

「そう、君の力。そして、それは俺の力とも同じものだ」


『砂時計』と同じ力? それって、まさか――


「――そう。時空遡行」


『砂時計』は、白い歯をむき出しにして言ってくる。


「君のレベルでは、まだまだタイムトラベルとまではいかないがね。しかしそれでも、極めて短い時間の間に、おおよそ常人では不可能なくらいの運動をすることはできるはずだ。ここまで来る最中、君も気付いただろ? もしくは、夢中すぎて気付かなかったからこその反応か? 君が走っている間、周りの人間はみな止まってるんじゃないかと思うほどにのろのろと動いていたように感じたはずだ。君が速く動きすぎてるだけなんだがね。他の人たちは、君のことを視認することすらできないのさ。……わかっただろう? それが、この俺、すなわち怪盗『砂時計』の能力だ。くっくっく。おめでとう! これで君も一人前だ」


 説明に頭が――――というより、感覚が、現実感がついていっていない僕の目の前で、『砂時計』はぱちぱちと乾いた拍手をした。


「よおし、じゃあ、これは祝い代わりだ。今日の戦利品。オーストリアの貴族の指輪だ。多分これが、君が一番『必要としている』ものなんだろう? ほら、オークションにかければ三千万以上する品なんだから、失くさないように気をつけな」

 すたすたと僕の真ん前まで歩を進めた『砂時計』は僕の右手を掴んだ。そして双方の目の前、しっかりと、僕の掌に深い藍色の宝石がついた指輪を握らせた。


「さあ、これで君も一人前。これからは、君の望む通りの生き方をすることだ。応援してるからね」


 からからと笑いながら、砂時計は再び屋根の先端に立った。そして、ひゅんと飛び上がると――


 ――そこから、見えなくなった。


 僕はただ、それを見送るばかり。

 思考も、言葉も、距離も、すべてに僕はついていけていない。

 僕が、『砂時計』と同じ能力――――超能力の類を発現した? 時空遡行? タイムトラベル? ……意味が分からない。どこまで本気なのか分からない。どこから冗談なのかわからない。わからないことだらけだ。

 ……いやいや、そうだ。呆気にとられ過ぎて『砂時計』の説明に聞き入ってしまったが、そもそも、その説明自体が奴のペテンである可能性も否定できないんだ。僕が冬香ちゃんに拘束された時点から、何かのトラップが発動していた可能性もあるのだ。

 確かに、時空遡行なんて能力があるのなら、怪盗『砂時計』の盗みの手口にも説明がつく。数年後の冬香ちゃんがこの時代に存在している理由も説明できる。納得できる。けれど……。

 僕はそろりと掌をひらいた。

 そして、そこで輝いている指輪を見つめる。

 これを遠野岩美術館に返さなくてもいいのか――――と迷わなかったと言えば嘘になる。貰ったものとはいえ、これは盗品。倫理にのっとれば、僕が持つべきものではないのだ。

 しかし、これを返した場合、必然的に僕はこれを手に入れたいきさつを聞かれる。そして、ここで奴と出会ったことを警察なんかに言わなければならなくなる。それはつまり、冬香ちゃんやそのおにいさんについても話さなければならないということだ。

 少なくとも僕は、今の段階でそんなことをしたくない。一応のところ冬香ちゃんは、僕にとって少なからず関わりがある人だ。この時代においても、お互い顔も名前も知りあっている人だ。事情もよくわかってないのに、そんな人のことを警察に売るなんて、とてもじゃないができない。したくない。……というか、数年後の人間がタイムトラベルしてきただなんて、説明して信じてもらえるとも思えないし。それじゃ、僕が妄言者扱いを受けるだけだ。

 やはり、この指輪は僕が持ってなくちゃならない。

 ……まあ、いいか。元々、怪盗『砂時計』を捕まえた者には一つ好きなものを与えるというおふれが出ていたんだ。この指輪をその対価としてもいいだろう。僕が好きなように扱ってもいいだろう。そう――


 ――いつか、僕が怪盗『砂時計』を捕まえれば。


 僕は自身の心の中に、はっきりと、そんな物語を描いた。そんな決意を描いた。そしてもう一度右手を握りしめ、屋上の入り口へと歩いて行く。

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