第九話「美術館にて」その三
頬に、冷たくてざりざりとした感触を覚えた。
目を開けると、視界は暗い。しかし、何となく見える。それは灰色のデコボコの平面――――アスファルトだ。長方形がいくつも並べられたこの白線の引かれ方からして、明らかにここは駐車場――――僕が網を張っていた、ホテルの駐車場だ。
感じる重力の向きと背中の感触から、自分が地面に寝転がっていることにも気付く。起き上がろうと四肢を動かすが、うまくいかない。その原因は、手首と足首の圧迫感。両脚と両手がそれぞれまったく開かない。視線を動かすとそこには、テレビとかおもちゃ屋でしかみたことがない、銀色の鉄の塊――――いわゆる手錠が巻かれていた。
「おっはよー」
ふいに聴覚に入った女性の声に、僕はびくりと肩を震わせた。そしてその声が聞こえた方――――僕の背後へと首を回して何とか視界を持っていくと、そこに一人の女性が立っていた。
黒いジャケットに黒いパンツ、そしてダークレッドのインナーという、僕の同級生じゃ誰も似合いそうもないような、いかにも大人びた服装。けれど、その上の顔は、僕が毎日クラスで見ている顔――――を少し時間進行させた顔。
四年後に彩さんがそうなるであろう顔。
「ふふ、ごめんねー」
その人は、しかしまったく悪気のない声音で言ってくる。
「だって、あんた、いっぱしに隠れてるんだもん。それはもう、あたしたちを捕まえるつもりだって、明らかに見て取れたからね。先手を打たせてもらったわ」
「……くそっ、バレバレだったってことか」
「まあねー。なんてったって、猫がじっとそっち見てたんだもん。そりゃあ、あたしだって『そこに何かいる』って思っちゃうよ。タイミングが悪かったね、あっははは――――それに、こっちは二人だからね。作戦通りあんたがあたしを捕まえに来たところで、勝ち目はなかったと思うよ」
「……二人? ってことは、もう一人は……」
「うん、ふふふふ。今頃、美術館に入ってるはずだよ。もうお宝は盗みだした頃かな? ――――じゃあ、あたしも、迎えに行かなきゃなんないから」
そう言いながら、その人は手を振り、駐車場を出ていこうとする。しかし車道へ一歩踏み出したところで、何か思い出したようにぴたりと立ち止まった。そして、くるりとこちらを振り返ってきて、
「……おっと、そうだった。言うの忘れてた。さすがに、一晩あんたをそのままで寝かしておくのはかわいそうだからね。その手錠のカギ、ナンバー合わせにしておいてあげたよ。四桁の数字を合わせれば、ちゃんと開くから。ヒントは『あたしの大切な日』。それさえ思い出せれば、今夜中にちゃんと帰れるよ。ふふふ。じゃあ、頑張って」
悪戯に笑うと、その人は今度こそ走って駐車場を出て行った。
僕は追いかけようと体をくねらせたが、体が転がるばかり。足首も閉じられているんだ。立ち上がれもしない。
僕は手首を視界の真ん前に持ってきた。見ると、そこには自転車のチェーンについているような、ドラム式のナンバー合わせのキーがついている。手首をいっぱいまで曲げれば、薬指がどうにか届く。なんとかドラムを回せる。
今現在は、0000という、まるで回答を待つかのような番号が並んでいる。
さっさとこれを外さなければ、あいつらを追えやしない。折角潜伏場所は当たってたっていうのに、逃げられてしまう。潜伏場所が当たったのだって、よっぽど運が良かった結果だ。このチャンスを逃したら、次あいつらと会えるのはいつになるか分からない。
早く、これを解かなければ。
……ええと、確かあの人は「あたしの大切な日」とか言っていた。大切な日、彩さんの大切な日――――と言われて、思い当たる日は、一つしかない。
すなわち、彩さんの誕生日。
つまりあの人は、僕が彩さんの誕生日をちゃんと覚えているかどうかを試したってことなのだろうか? 思い出すまでにかかる時間を、時間稼ぎに利用しようとしたってことなのか? ……ふん、あの人が一体何年後の彩さんなのかは知らないが、しかし、〈あの人〉は重要なことを知らない。というか、覚えていない。
僕は先日、彩さんの誕生日を見たばかりなのだ。
彩さんが公文書偽造したあの婚姻届には、ちゃんと彩さんの氏名および誕生日も記されていたのだ。そして僕はその日付を見たのだ。ちゃんと覚えているのだ。
十月二十三日と書かれていた。
僕はぎちぎちと薬指を動かし、ドラムを1023に合わせる。そして脇にあるボタンを押した――――が、
「……あ、あれ?」
ボタンが、動かなかった。
何度も指に力を入れるが、感触は変わらない。硬いまま。再度ドラムを見ても、番号はちゃんと1023になっている。ずれているようにも見えない。
――ど、どういうことだ?
だって、彩さんの大切な日なんて、それ以外にありはしないだろう? 誕生日以外ありえないだろう? それとも、なにか? 彩さんの勝手な記念日でもあるのか? 彩さんが勝手に作ったっていうのか? そんなの、僕が知るわけないだろう。
このままじゃ、番号を一つ一つ試していかないといけなくなる。
三百六十六回トライする必要がでてきてしまう。
それじゃ、遅すぎる。
――いや、待て。そうか、そうだ。そうだった。
そもそも、あの人は「あたしの大切な日」としか言ってないんだ。そして――――『あの人が彩さん自身であること』も、実は確実じゃないんだ。
元々、僕があの人を『あの人』としか呼ばないのは、あの人が彩さんであるとは限らないから。あの人が彩さん以外の別人である可能性を捨てきれないから。排除しきれないから。怪盗『砂時計』が非科学的な何かを用いているとしたら、その非科学的な何かで『あの人』が彩さんになりすましている可能性だってゼロじゃないんだ。
……じゃあ、『あの人』の大切な日ってのは?
というか、『あの人』の正体とは?
それこそわからない。怪盗『砂時計』の手品の種を知らない僕には、見当もつかない問題だ。そんなどこかの誰かの誕生日なんてわかるわけないし、それ以外の記念日ならなおさらだ。
それじゃどうしようもない。どうしようも――
「――ん?」
ごろんと転がり、頭を小石にぶつけた衝撃のせいなのかどうかはわからないが、一つ、一つだけ僕の中に、おぼろげな、頼りなさげな、しかし考えてみると現時点では唯一無二のようにも思える、たった一つの『ありそうな可能性』が沸き上がってきた。
それが『真実』なのかはよくわからない。
判断できない。判別できない。
けれど、それを試してみる価値はある。
僕は再び手首を折り曲げ、ドラムを回した。……ええと、確か『あの日』、僕が彩さんの家に行ったのは、十二月の最初の頃だった。そして、その時に確か『先週』と言っていた。つまり、『その日』は、十一月の最終週あたりということになる。
僕は『1130』と入力した。そしてボタンを押す――――しかし、ボタンは動かない。
『1129』にする――――ボタンは動かない。
『1128』にする――――ボタンは動かない。
『1127』――――動かない。
『1126』――――動かない。
『1125』――――動かない。
そして、僕がついに『1124』と入力した時だった。
ボタンを押すと、感触が明らかに違った。
明らかに軽かった。
そしてついに、ボタンが動いた。
カチリというこぎみいい音が鳴り、
――ぱっかりと、手錠が外れた。
僕はふうと安堵のため息を漏らした。そして足首の手錠にも同じ番号を入れる――――そっちも、同様に外れた。
僕は立ち上がった。腕時計を見ると、八時六分。
「……間に合う、のか?」
僕は呟いた。しかし呟いた後で、我ながらバカらしくなった。
間に合おうが間に合わなかろうが、僕にできることは『それ』しかないんだ。
だったら、やるしかないだろう。
可能性だけを見据えて走れる。
それが、高校生たる僕の特権だったはずだ。
高校生でしかない、僕だけの特権だったはずだ。
僕は大きく息を吐いた。
そして――――思い切り、地面を蹴った。