第八話「教室にてⅢ」その四
佐々谷が言いたいことはいまいちよくわからなかったが――――ようは、彼女も少しばかり僕を慰めてくれたということなのだろうか? まあ、まったくもって慰められた気にはならなかったけれど。
ともかく、そんなことより、だ。
そんな内情的問題よりも、ずっと深刻で現実的な問題が僕の目の前に転がっている。すなわち、彩さんはどんな頼みごとを僕にしてくるのか? 彩さんの思考回路は極めて読みづらいため、余計に恐怖心が沸き起こってしまう。
……しかし、考えてみれば、これまたおもしろい展開ではある。
僕はこれから、彩さんに怪盗『砂時計』討伐の助力を得るということ――――そして、その怪盗『砂時計』の助手が、その〈彩さん本人〉なのである。言ってみれば、彩さんが彩さんを捕まえるために動いているようなものとも言えるかもしれない。
数年後の彩さんなら、この展開もちゃんと既知なのだろうか? この時に彩さん自身が僕たちにチケットを渡すこと。そして、そのために僕と南川が美術館を訪れるということ。これから僕たちが起こす行動など、あの人たちにしてみれば単なる前提条件に過ぎないのだろうか?
……いや、それはあまり考えられないか?
だって、路地裏で出会った時、『あいつ』はちゃんと僕に驚いていた。予定外、予想外という反応だった。つまりあの人たちも、過去のすべてを知っているわけじゃないってこと。だから、僕らの行動で彼らを止めることも可能だということ――――やれば、彩さんのお兄さんの犯罪を止め、彩さん自身が犯罪者になることも止めることができるということ。
……そうか。お兄さんは、彩さんと冬香ちゃんの交際に関する可否の全権を握っていると言っていた。つまり、僕が怪盗『砂時計』を捕まえれば、お兄さんに認めてもらえるチャンスもあるということだろうか? 『これ』をそういう物語にすることも可能だと、そういうことなのか? 悪を挫き、ヒロインとの障害を乗り越える、そんなヒロイックな話になるのだらうか?
………いやいやいやいや、まったく言っててバカらしい。お兄さんにどころか、僕はまず、彩さんに見染めてもらわなきゃならないわけだし。そんな自信もそんな資格も、僕は一ミリたりとも有していない。妄想もいいところだ。そんな妄言より先に――――とにもかくにも、まずは目先の問題だ。
彩さんは一体全体僕にどんなお願いをしてくるのか?
――その時は、昼休みに訪れた。
気が気でない午前中を送った僕は、そわそわしながら、それでも何とか心を落ち着かせて昼食のお弁当を黙々と食べていた。そして、ハンバーグの最後の一きれを口に運んだところで、
「おっす、元」
と、何やら気合の入った表情をした彩さんが話しかけてきた。
僕はハンバーグを飲み込みながら、
「こんちは…………えと、その、願い事が、決まったの?」
「その通りだ」
両目を閉じながら、彩さんはううむと頷く。そして、
「はい、これ」
と何やら僕の目の前に差し出してきた。
視線を落とし、それをまじまじと見てみると、それは――――B4サイズの茶色の封筒だった。封筒自体は、どこでも売っていそうな、『封筒』と言われて真っ先に思い浮かべるそのままのものだった。表面は黄色くまっさらで、特に何も文字は書いていない。が、その表面が三か所だけ、四角く切り取られてきた。そして、その隙間から何やら白い紙がのぞいている。
僕はそろりと視線を上げ、
「……えーと、なに、これ?」
「ここの隙間のところに、書いて」
「……何を?」
「あんたの名前」
「……はあ?」
僕は声を裏返した。もう一度封筒を見降ろし、再び顔を上げて、
「僕の名前? ここに? 書くの? 何で?」
「いいから! 早く!」
「い、いや、だって……」
ずいと眼前に封筒を差し出されながら、僕は言い淀む。
「だって、そんな、意味が分からないし。……それに、何やら怖いよ。だって確か、どこかの漫画じゃ、こうやって名前を書かされたFBI捜査官は、その直後に殺されたし――」
「あ、あと、ここにはあんたの親の名前ね!」
「僕の親まで殺す気か!」
――あ、悪魔か、この人は!
「……や、やだよ、なんか怖いよ! 不気味だよ!」
「大丈夫だ。死にはしないよ」
「ほ、本当に?」
「本当だって」
「本当の本当に?」
「ああ、本当の本当だ」
「本当の本当の本当に?」
「ああ、本当の本当の本当だ――――というか、あんた、漫画の読みすぎだ。名前を書くだけで実際に死ぬわけないだろ」
……そりゃまあ、そうだけど。
「とにかく、ここに名前を書け。そうしないと、チケットあげないからね」
「……うーん」
しょうがない、と僕は肩を落としながら、しぶしぶとその記入欄に必要事項をつらつらと書いて行った。……まあ、さすがに命までは取られないだろう(彩さんの性格もそこまで破綻はしていないと信じたい)。それに、もしこれが何らかのアンフェアな書類だったとしても、僕自身が内容を知らされていない以上、公文書偽造とかそこら辺の罪に引っ掛かるはずだ。法的手段に訴えれば、後から無効にすることも可能だろう。ここはあくまで法治国家日本であり、僕は日本国籍なのだ。
一通り埋め終わると、彩さんは僕の手から封筒をひったくり、
「よーしよしよし、これでよし」
と、むふふと気味悪い笑顔を浮かべた。次いで、封筒の中から紙きれを取り出すと、じゃじゃじゃんと、見せびらかすように僕の目の前に広げて見せてくる。
その一番上の文字列を読んでみると、
「――こんいんとどけ?」
「そう、その通り」
彩さんは感じ入るように両目を瞑り、深く深く頷いた。そしてぱちりと片目を開いて、
「昨日一日、この世界最高峰の頭脳を使って、あたしはずっと考えていました。考えに考えました。昨日の昼休みに、あんたから得た『どんな頼みごとも引き受ける』という権利。これを使って、いかにして最大限の金儲けをするのかということを」
……か、金儲け?
「残念ながら、あんたにとって至極残念ながら、あたしはまったくもって愚かではない。例えばあんたに数千万円の宝物を盗んでこさせるとか、あるいは一億円が当たるまで宝くじを買わせるとか、あるいはあるいは油田を掘ってこさせるとか、そんな非現実的なことにこの権利を行使するなんてことはしません。あたしはもっとずっと着実な方法を選びます」
……愚かというか、それが普通だと思うけど。
「一般人の生涯年収は、二億円から三億円と言われています。つまり、このお金から、最大限の金額を搾取すること、これが安全で着実な方法だと言えます」
……まー、そりゃそうだ。
「そして、あんたのこの三億円を手にする権利を得るにはどうすればいいか? その方法を、あたしはずっと考えていました。……そして、昨日の夜、というか明け方四時頃になって、あたしはついに考え付いたのです!」
……んなことで徹夜したのか、この人は? ――――というツッコミを飲み込んだ僕の目の前、彩さんは口を大きく開け、
「――保険金があるじゃないか、と!」
びしっと、彩さんが僕の鼻先に人差し指を突き立ててきた。
「もちろん、今のあんたじゃ保険に加入したところで、大した保証金は得られません。最低、就職でもしない限り。しかし、そんなのを悠長に待っていたら、他の人間に取られてしまうかもしれない。先を越されてしまうかもしれない。そんなわけで、先手を打つために、あたしはあんたの自署を手に入れたの! これが、数年の後に二億円の価値を持つようになるのよ! どう? 恐れ入った?」
「……そうか、そうだった、君はバカなんだった」
「な、なんだとぉぉおお!」
彩さんは頬を膨らまし、ぎちぎちと僕の首を絞めあげてきた。しかし、すぐにぷいっと投げ捨てるように僕の襟から手を離してくれて、
「…………ふん、まあ、いいわ。泣こうが叫ぼうが、あんたの一生はもうあたしの掌の上なんだから。せいぜい、滑稽にもがくことね。後悔したって遅いんだから。こんなもの、あたしにはもう必要ないから、あげる」
そう言って彩さんは、ようやく僕に遠野岩美術館のチケットをくれたのだった。