第一話「橡彩宅にて」その一
僕が女の子の部屋に足を踏み入れるのは、実に九年ぶりのことだった。
……とはいえ、九年前と言えば、僕は小学一年生。
当時の僕は相手方をほとんど女の子として認識していなかったし、部屋に入ったことに対してもたいした感慨はなかった(本やらオモチャやらがキレイに整理され、フローリングもピカピカで、ベッドもきちんとメイキングされており、棚の上にぬいぐるみが蒼然と並べられていて、あんまり汚しちゃいけない場所だなあと思ったくらいだ)。
それにそもそも、僕がその娘に直接呼ばれたわけでもなかったのである――――言ってしまえば、母親の友人の家に一緒にお邪魔し、そこの子供である小学二年生の女の子の部屋で、親同士の世間話が終わるまでの一時間強、一緒にオママゴトをしていたというだけのことだ。当時の僕としては、幼稚園で遊ぶのと何ら変わりない感覚だった。
こんな些細な出来事ですら九年経った今でもしっかりきっちり記憶していることから、僕の人生においていかに〈そういうチャンス〉が少なかったかということが容易に伺い知れてしまうが――――そんなことで落ち込むのは後にして、とにかくだ。
僕は本日、女の子の部屋にお邪魔したのである。
我がクラスメイト、橡彩の部屋へと。
九年前の印象が強く残っていたため、『女の子の部屋』というものに対して、僕の中に半ば一方的なイメージがあったことは否めない。――――が、それにしても、である。本日伺ったこの橡さんの部屋と言うのは、何というか、明らかに――――『それ』と真向かいの対極にあるような印象だった。
僕の語彙力を最大限に駆使し、できうる限りポジティブな言葉を選ぼうとすれば、いわゆる『生活感あふれる部屋』とでも表現しようか……。
本棚にはマンガ本やゲームのケースが雑多に積み上げられており(一応、マンガ本のほとんどは少女マンガのようで、そこは女の子らしいっちゃあ女の子らしいが)、床の上には空のペットボトルやらお菓子の空箱やらが放置されている。おまけに、部屋の片隅には脱ぎ捨てられた衣服が山になっていた(ところどころ水色や白のレース状のものまで見えてる気がする)。何だか、それを凝視するだけで犯罪者になったような気分になってしまい、僕は目を背けざるを得なかった。
こんな様子を平然と見せているあたり、橡さんの中における僕のランク分けというのが垣間見えるけれど(いくら橡さんと言えど、好いた男にまでこの有様を見せたりはしないだろう。それくらいはこの人を信じたい)、しかしこれはそれだけで救われる話ではない気がする。
僕は周囲をあまり見ないようにし――――代わりに、目の前の二人の人物へと視線を向けた。
この部屋の主たる、肩上まで伸ばした髪を犬の尻尾のように後ろで一つに縛っている女子、橡さん。
そしてその友人たる、銀縁眼鏡と目元のホクロが印象的なクラスメイトその二、佐々谷響子。
二人は現在、フローリングの床にひかれたカーペットの上に座り、一生懸命かりかりと、丸テーブルの上で古典の宿題の〈模写〉を行っている――――この二人が手本として写しているのが、何を隠そう、実は僕のノートなのである。つまり、僕は『提供者』としてこの部屋に呼ばれたのだ。
正直、ノートを貸した時点で僕のするべきことは何もなくなり、実際僕は
「じゃあ、明日学校で返してくれればいいよ」
と言って帰ろうとした。……のだが、その際、目の前のセミロング髪少女、橡さんが
「あたしの速記をなめるなよっ!」
と、さながら邪眼使いのようなセリフを吐いて、僕を部屋の中に押し込んだのだ。そしてドアの鍵を閉めてしまい、僕を軟禁したままで模写を始めてしまったのである。そんな速記スキルがあるなら授業中から発揮しろこの誘拐犯というツッコミを飲み込んだ僕は、そのまま黙って座り、テーブルに出されたウーロン茶をちびちび飲みながら、二人の模写が終わるのを待っている次第である。
腕時計をちらりと見ると、もう六時だ。
僕は高校からここまで直接連行されてきたわけで、帰りが遅くなることを家族の誰にも言っていない。家に帰ってもゴロゴロする以外に別段することはなく、遅くなること自体は別に問題ないのだが、あまり遅くなりすぎると夕飯を片付けられてしまう恐れがある。それだけは避けねばならない。
あと十分したらこのドアを強行突破して帰ろう――――と、ようやく僕が腹を決めたところで、
「……ふい、終わった~」
僕の目の前、橡さんが手を止め、ノートから顔を上げた。そして、その真円にほど近い丸目でもって僕の後方の壁がけ時計を見やり、
「今回のタイムは一時間五分か……。ふん、どうだ! 自己ベストを更新したよ! これなら、次回は一時間を切れそうだね!」
にんまりと、まるでフルマラソン完走者のような、やり遂げた感をかもしだした微笑を僕に向けてくる橡さん。
次回もあるのかよっ! ――――というツッコミを飲み込んだ僕は、
「そ、そう……よかったね」
と、愛想笑いと共に、至って穏やかに返事をしておく。……実際のところ、僕は今まで橡さんとそれほど会話を交わしたことがなく、少なくとも僕の方としては、まだまだ直情的なツッコミがはばかれる間柄なのである。そんなクラスメイト(しかも男子)を自室に軟禁するこの人の性格は、まあ、各々推して知るべしと言ったところだろうか。これまで半年ほど同じ教室で授業を受けている僕ですら、どうにもこうにもよくわかっていないというのが本当のところだが……。
橡さんは自身のノートをパタンととじると、僕の方に視線を向けてきて、
「というか、そもそも、何であたしらは古文なんてものを勉強しなきゃなんないんだろうねえ? そこが甚だ疑問だよ。数学とか英語ならともかく、こんな数百年も前の言葉なんて、将来どうやったって使いようがないし。これならまだ、クラス対抗大食い大会でも開いてた方が数倍有意義だよねえ」
……週三でフードファイトの方が数百倍ハードだと思うけど。
「……ふむ? 考えてみれば、このカリキュラムなら、給食の時間が丸々浮くんじゃないか? おまけに生徒の健やかな食生活をサポートできるし! 一時間目から催されるなら、朝食もいらないじゃないか! 家計にも優しいじゃないか! 欠点が何も見当たらない! これはすごいぞ! 素晴らしいぞ!」
……いや、クラスに肥満が増えるだろうし、おまけに給食費がバカにならなくなる。
「もしかしたら、あたしは今世紀で一番素晴らしい――――いや、恐ろしいことを考え付いてしまったんじゃないのか? これは世紀の大発見なんじゃないか? ……ふーむ、これはやばいな。やばやばだな。さっさと特許出願なり商標登録なりしておかないと、誰かに取られてしまうじゃないか――」
……大丈夫、世界人口六十億人、誰一人として奪わないから。
「よし、加賀原。この素晴らしき発明の瞬間に運よく立ち会えたあんたにも、一つ、メニュー拒否権を与えよう。ニンジンでもピーマンでもセロリでも、何でもルールから外してやる。それを世界標準ルールにしてやる! これは発明者たるあたしだけの特権だからね! 今のうちだぞ。さあ! あんたは何を取り除きたい?」
「…………え? ええ? えと、い、いや、僕は、まあ、別に、いいよ。好き嫌いとかあんまりないし。橡さんの好きにすれば――」
「――だ、だめだぁああ!」
橡さんは急に叫び、ばたんと後ろに倒れた。そして四肢をばたばた動かしながら、
「だめだだめだだめだだめだ! なってない! なってない! まったくもってなってない!」
「……え? な、何が?」
「あんたはツッコミがなってない!」
橡さんはがばりと上半身を起こすと、そのウサギのような寄り目でもって僕を見据え、びしっと人差し指を僕に向けてきた。
「そんなありきたりな返事じゃ、何も盛り上がりゃあしない! もっとマシな返答はできないの!」
僕は、橡さんに対してこれまですでに心の中で四つほどツッコミを施していることは言わないでおいて、
「……え? じゃ、じゃあ、例えば、どんなツッコミをすればよかったの?」
「そんなの『お前、まだ隠し芸大会の方がおもしろいだろっ!』とか、色々あるでしょーがっ!」
人差し指を左右に振りながら、僕を諭すように言ってくる橡さん。……ええと、それはボケ返しになってるね。
「他にも色々あるっての。誰だって一つや二つ思いつくもんなんだから」
橡さんはくるりと首を回し、いまだカリカリと模写に精を出している佐々谷の方へ視線をやると、
「ほら、響子、あんたも一例出してあげなさい。この迷える憐れな子豚に、道標を一つ与えてやっ――」
「――うるさい、殺すわよ」
ノートから顔を上げた佐々谷は、そのロングヘアーを蛇のようにざわざわと逆立て、おどろおどろしい声で言ってくる。
僕と橡は同時に肩をびくつかせ、石にでもなったかのように固まった。
初セリフが「うるさい、殺すわよ」である女子高生は一体小説至上何人目だろうという疑問を飲み込んだ僕の前、ひやりと冷や汗を一つ垂らした橡さんは、ひきつった笑顔とともに僕の耳元にそばだててきて、
「……ほ、ほら、加賀原、今のが佐々谷先生直伝、『巨人の一撃』とさえ呼ばれる、世界最強の攻撃力を誇るツッコミの一つよ。何でも、このスキルを発動すれば、男ですら誰一人として寄り付かなくなるという……。そのせいで響子は、『彼氏欲しい、彼氏欲しい』とやたらにわめいているにも関わらず、いまだに一人身――」
「――あぁっ?」
『一人身』という単語に反応するように、またしても睨んでくる佐々谷。
ぞくりっ――――と、僕と橡さんは再度固まる。
橡さんは肩を震わせ、どもりながら、
「……一人、み、見事に世の荒波を乗り越えていて、その生き様はすばらしく、べ、勉強になるなあって、は、はははは。……じゃ、じゃあ、あたしは、ちょっと、トイレに、行こうかなー。……加賀原、あんたは、しばらく、人生の自主学習を、しておく、ように……。じゃっ」
橡さんはあたふたと立ち上がると、その後ろ髪を闊歩する猫の尻尾のように左右に揺らしながら、逃げるように廊下へと出て行った。……出て行ってしまった。
おかげで、完全アウェイなこの場所で僕を一人にするなこの拉致犯という僕の魂の叫びは、僕の反応がコンマ一秒遅かったばかりに、モノローグだけで終わってしまったのだった。