第七話「教室にてⅡ」その二
次の化学の授業中、板書もそこそこに、僕はずっと考え込んでいた。
彩さんは何でまたこんなことを頼んできたのか? 何で僕に頼んできたのか? そこにどんな意図があるのか? そこにどんな目的があるのか? そしてまた、僕自身にはどういう影響があるのか?
だってそもそも、『あたしに渡して』も何も、この箱は元々彩さんが持っていたものじゃないか。単に一時預かって返すようなものだ。僕が受け取って、もう一度これを彩さんに渡すことに、一体何の意味があるのだろうか?
おまけに、この紙に書いてある文章もよくわからない。
一通り読んでみたけれど、そこからは何も分からなかった。何も読みとれなかった。確かに、そこに書かれている文章は純然たる日本語だ。読めないわけはない――――しかし、表現が抽象的すぎて、意味がこちらに全く伝わってこないのだ。何かの映画かドラマのセリフっぽい気もするが、どんなジャンルのもので出てくるのかわからない。どんな場面で出てくるのかもよくわからない。
結局わけがわからないまま、次の授業が終わってしまった。
彩さんは、『次の休み時間に』と言っていた。つまりは、この十分の休憩の間に、僕は先刻言い渡されたミッションを遂行しなければならないということだ。
彼女の意図はまったく理解できなかったが、わざわざ頼まれたことを黙殺するわけにもいかない。仕方なく僕は考えるのを諦め、渡された二つのアイテムを手に持って彩さんの席へと向かった。
席では、彩さんが腕を組み、目を閉じ、厳粛な表情で座っていた。まるで出前ピザが一時間経っても届かないような、イライラとしびれを切らしているような雰囲気だった。
「え、えと、あ、彩さん……」
僕は彩さんの傍らに立つと、箱をすっと差し出し、逆手に持った紙のセリフをカンニングしながら、
「え、えと……せ、『先月の君の気持は嬉しかっ……』…………いたっ!」
――机の下から向こうずねを蹴られた。
僕は紙箱を机の上に落とし、膝を抱え、「ううう……」と悶える。悶えながら、涙目で彩さんを見上げ、
「な、何するんだ……」
「もっと大きな声でっ、クラス中に響き渡るようにっ」
彩さんは僕の耳元に顔を寄せ、ヒソヒソ声で怒鳴ってきた。
「え、え~っ? そんな恥ずかしいじゃ――」
「――きっ……」
今度は睨まれた……。
僕は仕方なく立ち上がり、こほんという咳払いに次いで、
「…………え、えーと、せ『先月の君の気持は嬉しかったよ。橡彩さん。もちろんあれは社交辞令でしかないことはわかってはいるけれど、それでも僕は本気なんだ。僕、この加賀原元に、あらん限り、精一杯のお返しをさせてください。どうぞ、これを』」
先刻よりいくらか大きな声で、書いてある通りの文章を読み上げた。いくらか棒読みだったろうけど(というか、どんな感情を込めればいいのかもよくわからない)、意味はちゃんと伝わったはずだ。
「うむ。しようがない。受け取ってやろう」
彩さんはどこかの王様のように仰々しく頷くと、片手でぞんざいに僕の手から紙箱を奪い取った。
渡すというより取られたという感じだが、しかしこれで彩さんの目論みは達したことになるはず。これで僕は、任務を達成したことになるはずだ。
しかし、渡したはいいけど、この後どうするのかまでは聞いていなかった。次の任務を待つがごとく、
「…………」
と、そのままそこに立ち尽くしていると、
「…………しっしっ」
と、彩さんは『あっち行け』というジェスチャー。
僕はわけがわからず、すごすごと彩さんの席を離れた。自分の席にたどり着き、ちらりと彩さんの方を振り返ってみたが、彩さんは自席で腕を組んだまま、言外に誰かに何かを誇示しているような、自慢しているような、尊大で雄大な姿勢及び表情で座っている。
……最後まで、まったく意味が分からなかった。
ここまでの一部始終を説明されれば、もしかしたら大概の人は予想がついてしまうことかもしれない。客観的に見れば極めて明確で明白で明快なことだったのかもしれない。
しかし、その時の僕にはまったくわからなかった。これっぽっちも考えが及ばなかった。僕がようやくその答えに気付いたのは、ふとカレンダーを見た時――――その日が、三月十四日であったことを思い出したときだった。
すなわち、今日はホワイトデー。
先月のバレンタインを単なる平日として過ごしていた僕は、返す相手などいるわけもなく、その存在を全くと言っていいほど忘れていた。今日この日こそ、一年で三本の指に入るほど、男子が女子に贈り物をして意味がある日であるということを。
その日の昼休みに、佐々谷から聞かされた話によると、つまりはこういうことだったらしい。
先週、彩さんと佐々谷を含めた女子四人で会話をしていたところ、そのうちの一人が、同級生に告白された返事をどうしたらいいのかと相談してきたのである。
年頃の女子が集まっている場だ、その話題は大変盛り上がり、流々とその類の会話が繰り広げられた。そしてついには、それぞれの過去男子に愛の告白をされた自慢話大会になったそうだ。
しかしその中で一人だけ、彩さんだけがついていけなかった。
別に彩さんに魅力がないとは(僕は当然)思わないけれど、一般的には珍獣とさえ揶揄されるような性格であり、さらには学年上位ランカーの鷹野と親密な人だ。わざわざこの人に真っ向から恋愛感情をぶつけようとしてくる男は今までいなかったらしい。そんなわけで、彩さんはその場で自慢できる話が皆無だった。
おかげで、彩さんは他人の自慢話を唇をかみしめながら無言で聞き続けるだけになってしまったそうだ。それが、彩さんにとって殊更に悔しかったらしい。
そんなわけで、彩さんは何とか他の三人を見返してやろうと画策し、その次の週に控えていたイベント、すなわちホワイトデーに目をつけたのだ。
さらにクラスの中で目ぼしい人物として僕に目をつけ、あんな依頼をしてきたということ。……まあ、彩さんらしいっちゃあ、彩さんらしい。僕への被害も損害もまったく省みないところとかも。
もちろん、その真実に行き当たった直後の僕は、放心し、うなだれるだけだった。
そんなつもりはなかったのに、僕は公衆の面前で堂々と彩さんに告白してしまったということになる。……そりゃあ、僕の感情にのっとれば間違ってはいない行動ではあるだろうけど、あんな告白、アホにもほどがあるだろう。そもそもセリフがバカバカしい。恥知らずもいいところだ。あの文面を僕自身が考えたなんて絶対に思われたくない。
唯一の救いは、明後日から春休みだということだ。
一カ月弱のこの休暇中に、クラスメイトにはぜひともさっきのあの出来事は忘れ去ってほしい。そして僕自身も、きれいさっぱりと忘れ去りたい。そのためには、当分彩さんに会いたくないというのが本音である。といううか、クラスメイトにもあまり会いたくない。家でひっそりとゲームに没頭していたいものだ。
なのに、その日の昼休みには、
「おっす、加賀原。お前、見かけによらず大胆なんだなあ」
と、さも感心したかのような表情で南川が近づいてきた。
「まあ、若いっていうのはいいことだ。……と、それより、見たか? 今朝の新聞?」
「…………新聞? いや、読んでないけど、まさか――」
「そうだ。その通りだ」
南川はこっくりと頷き、
「来月、また怪盗『砂時計』が出るらしいぞ」