第七話「教室にてⅡ」その一
先日の美術館遠征以降、僕はいよいよもって彩さんに話しかけることができなくなってしまった。
元々、鷹野との関係性を知らされてからというもの、何となく避けてしまってはいたのだが――――彼女が怪盗『砂時計』の実行犯の一人であるという事実を知らされたことで、余計に彼女への接し方が分からなくなってしまったのである。
教室でちらりと彩さんに視線を送ってみても、見る限りでは、彼女は楽しそうに学校生活を満喫している。授業中のつまらなそうな顔をのぞけば、大概ケラケラと笑顔を絶やさない人なのである。客観的には、それだけで人生が満ち足りているように見える。何かへの不満とか渇望とか、そんなものはまったく見えない。そんなものを何一つ抱えることなく、日常を日常として日常らしく生きているようにしか見えない。
そんな彼女が、どういう経緯で犯罪に手を貸すようになったのか?
……実際のところ、それについては少なからず予想がついている。必要以上のヒントを、僕はすでに〈あの人〉から貰っているのである。それはすなわち、〈彼女〉がぽつりとこぼした言葉――
「――まったく、にいさんたら」
つまり〈彼女〉の黒幕というのは、あの写真で彩さんの隣に立っていた男、彩さんと冬香ちゃんの唯一の男性同居人にして血縁者、そして二人のお相手の可否について一切の権限を有しているという人物――――彩さんのお兄さんだ。彩さんの兄たる人物など(もちろん彩さんのご両親が今後養子でも取れば話は別だが、三人も子供がいる夫婦が今更十八以上の男を家族に迎える可能性なんて微々たるものだろう)、世界にただ一人しかいないのである。
そのお兄さんが、彩さんを怪盗の道へと引き込んだのだ。
引き込み、自身の仕事を手伝わせているのだ。
まったくもって突拍子もない事実ではあるけれど――――しかし、これで僕はようやく『合点』がいった。
数か月前、路地で怪盗『砂時計』本人と対面した時、彼は僕に対して
「〈それ〉は見覚えのある服装だ」
と言っていたのである。この言葉を聞いた当初はその意味がいまいちよく分かっていなかったけど――――そうだ。そうだったんだ。あの時着ていたのと同じ黒のアウターで、僕は〈彩さんの家〉に行ったんだ。その時、僕はお兄さん本人とは対面していないけど、それは僕がお兄さんを見かけなかったというだけのこと――――もしかしたら、あの時僕は、お兄さんに見られたのかもしれない。帰り際、どこかの道ですれ違っていたのかもしれない。その可能性は高い。なんせ、あの家は〈彼〉の家でもあるんだから。
これでようやく、一つ、胸につかえていた疑問が解消された。
けれど、まだまだ謎は残っている。残りに残っている。そうだ――――一体どんな経緯があって、どんな目的があって、そのお兄さん本人は怪盗『砂時計』なんて真似を始めたんだ? そしてまた、どんな意図があって妹に自分の仕事を手伝わせているんだ? どういう感情でもって、あの人は仕事を手伝ってるんだ? その辺のことがよくわからない。わからないというか、想像すらつかな――
「――起立!」
突然の号令に、僕は驚いてしまった。
前を見ると、クラスメイトが皆立ち上がっている。
僕も慌てて立ち上がり、一拍遅れで礼を遂行する。そして教師が教室から出ていくのを見送ると、僕はどさりと椅子の上に崩れ落ちた。
――あーあ、びっくりした。
熟考に浸ってしまっていて、授業の終わりの方の話を完全に聞いてなかった。板書すらしていない。……まあ、たかだか十数分聞き逃したくらいで、僕の人生にたいした被害があるわけでもない。教師がすらすらと黒板に書いていた数式なんかより、もっとずっと大きな難問が僕の頭の上にのしかかっているのである。
――これから僕は、どういう風に彩さんと接していけばいいのか?
先日対面した〈あの人〉は、今この教室にいる彩さんではないことはわかっている。外見も雰囲気も微妙に異なっていた。〈あの人〉の方が、全体的に少しばかり大人びていた。
恐らく、あれは三、四年後の彩さんなんだろう。
どうやってそんな彩さんが目の前に現れたのか? どうやってこの時代に来ることができたのか? ――――なんてことに考えを巡らせるのは、ナンセンスだとわかりきっている。相手は、数年間世界中の警察を弄んでいる犯罪者だ。不可能を可能にしている存在なのだ。少々の非科学的要素を認めなければ、そんな人達とまともに向き合えやしない。この程度のことで混乱している場合ではない。
今僕が早急に考え、できる限り早く結論を出すべき問題は――――今現在の彩さんに〈そのこと〉を伝えるべきか、ということだ。
今この教室にいる彩さんには、まだそんな兆候は見られない。窃盗の常習犯に成り下がるような素振りはないし、そんなモチベーションも見られない。だから、止めるなら今ということなんだろう。
彼女が想い人だということをのぞいたとしても、少なくともクラスメイトとして、友人として、何かしら言うのが当然だろう。たとえ佐々谷の言う通り、『これ』が僕と彩さんの恋愛模様を描いた物語なんかじゃないにしても、そんな純情なハッピーエンドへ向かう物語なんかじゃなくても――――せめて、せめてせめて、僕が友人を悪の道から救う、そんな勧善懲悪的な物語にする必要はあるんじゃないか? 未来的事実を知ってしまった僕が、それを止めるために奔走する物語にする必然はあるんじゃないか? そんな正義感――――とはいかないまでも、それでもいくらかの焦燥感を伴った義務感のようなものが、僕の中に沸々と沸き起こり、巻き起こる。
……しかし、一体、何を言ってあげるべきなのだろうか? どうやって止めるべきなのだろうか? どんな言葉で止めるべきなのだろうか? 例えば、休み時間に彩さんが「よっす、加賀原」なんて声をかけてきたときに、一体全体僕はどういうリアクションを――
「――よっす、加賀原」
僕は飛び上がった。
その反動で膝を机の裏面に強打し、椅子ごと転びそうになり、「うつつ……」とうめきながら顔を上げると、
「何やってんだ? 新たなリアクション芸?」
と、小首を傾げている彩さんだった。
僕はなるたけ冷静を装って、
「……や、やあやあ、彩さんじゃあないか。ぐーてんたーぐ。一体僕に何ようでござるかな」
と、極めて当たり障りなくナチュラルにオーソドックスに返答をした。
しかし、ナチュラル過ぎたのが逆に不自然だったのか、はたまた偶然にも読心術のスキルでも持ち合わせていたのか、彩さんは首を右に傾げ、
「なんじゃ、その、明らかに動揺を押し殺したような不自然な返事は」
……簡単に見透かされた。
「いや、別に、用ってほどでもないけど。ここ最近、お前と話してないからさあ。どんな調子かと思ってね」
そう言って、腕を組みながら笑みを僕に向けてくる彩さん。
この数日間、僕と全然話してないことに、彩さんもちゃんと気付いていたとは……。いやはや、少々驚きで、そして――――少し嬉しかった。彩さんの中で、僕も話し相手の一人として数えられていたということだ。声をかけることもまともにできなかった数カ月に比べれば、これは大きな進歩だ。
そんな感慨に浸っている僕の目の前、
「……ところで、加賀原、一つ聞きたいんだけど」
と言いながら、彩さんは前の席の椅子をがらがらと引き、その上にどさりと座った。その顔には影が入り、背後にはおどろおどろしい空気がまとわりついているのが何となく見える。どことなく、今から彩さんの口から発せられるだろう話題の不穏さ――――というか、厄介さを暗示しているようだった。
僕のこめかみをたらりと冷や汗が垂れたが、彩さんはそんな僕の反応に目もくれず、机上に肩肘をつき、手の上にあごを乗せて、
「あんた、アクセって、持ってる?」
「……え? アクセサリー? ……いや、持ってないけど」
「ネックレスも?」
「持ってない」
「ピアスも?」
「持ってない」
「指輪も?」
「持とうと思ったこともない」
「…………よし、うん。いい子だ」
あごを撫でられた猫のような満足げな表情になった彩さんは、ずいっと手を伸ばし、僕の頭をごしごしと撫でてきた。
なされるがまま、僕は頭をがくがく揺らしながら、
「……というか、何で急にそんな質問を? ……えーと、何か、あったの?」
「うむ。よくぞ聞いてくれた。あったもあった、オオアリクイだ。実は、昨日――」
「そうか、あったんだね! そりゃあよかった! 本当によかった! じゃあ、そんな素晴らしい結論が出たところで、僕からちょっとばかし新鮮で深遠な話題を振りたいんだけれ――」
「――いいから、聞きなさい」
むんずと襟首を引っ張られ、ぐえっと喉を詰まらせる僕――――話の流れが変だったんで、何とか断ち切ろうと思ったのに……。僕の逃避行は甲斐なくあっけなく無駄に終わってしまった……。
彩さんは僕の襟から手を離し、再度机に両肘をついて、
「実は、昨日、響子と駅前をぶらついてたんだけどさ。そこで二人組のチャラチャラした男に、いきなり話しかけられたんだよ。『今暇?』とか『一緒にお茶しよう』とか言ってきてね。ありゃあもう、あからさまなナンパだった」
「……何か、気に食わなかったの?」
「いや、別に、ナンパされること自体は別にいいんだ。そりゃあ、あたしみたいな麗しき少女が街中を歩いてれば、声をかけたくなるのが自然の理ってやつだからね。それは当然で仕方のないことだよ。誰も恨むことはできない。強いて言うなら、あたしという存在を創りたもうた神の罪でしかないさ」
「……あ、その人達、しつこかったとか?」
「いや、そうでもなかった」
「あんまりイケてなかったとか?」
「いや、そこまでじゃなかった」
「……じゃあ、何が不満なの?」
「そう。確かに、途中まではまったくもって不満なんてありはしなかった。少しばかり時間が無駄になったけど、それくらいで憤る彩さんじゃない。普通なら、まったくもって怒る必要なんてなかったはずなんだ。なのにねえ、あいつら、響子にしつこく付きまとった挙句に、あたしの方を見てきて――」
ここで彩さんは一息つき、急に両の眼をかっと見開いて、
「――『妹さんも一緒に』とかぬかしやがったんだっ!」
どすんと、判決を下す判事がごとく、机を叩きながら言ってくる。
「だって、おかしいだろ? あたしらは同い年! 誕生日もほとんど変わらない! おまけに、あたしの方が二センチほど身長は高いんだ! それなのに、それなのに、そんなあたしを妹って! 妹って! どんだけあたしをなめてくれてるんだと! おかしい、おかしい、おかしーっ!」
どんどんどんどんと、暴れ太鼓のように僕の机を連打する彩さん――――何事かと周りのクラスメイト数人がこっちを振り返ってきて、少しばかり気まずい……。
「おまけに、その後から響子が勝ち誇ったような顔してきてね! あたしに嘲るような笑顔を向けてくるんだ! 見下したような視線を向けてくるんだ! 先週〈あんなこと〉があったもんだから、余計だよ!」
「……『あんなこと』?」
「え? あ、いやまあ、いいんだ、そんなことは。……とにかく! あたしは考えたんだよ! あの時、あの場所で、あたしに足りなかったもの! 響子にはあって、あたしにはなかったもの! ずっと考えた! 一晩考えた! そしてついさっき、一つの結論が出たんだよ!」
「……それは?」
僕はすでに八割ほど興味がなかったのだが、礼儀をわきまえるという意味で、とりあえず聞いてみた。
彩さんは顎を持ち上げ、ちょんちょんと首元を指さして、
「これだよ、これ」
「……どれ?」
「ここ、ここ」
「……首?」
「その上だ」
「……鎖骨?」
「違う! その上にかかってるやつ」
「……鎖骨の、上? ああ――――ネックレス」
僕の回答に、彩さんはこくんと頷いた。
「そうさ。誕生日にお母さんに買ってもらったとか言ってね。シルバーの一万くらいするやつをこれみよがしに付けてるんだよ、響子は。そのせいで――――たったそれだけの違いのせいで、あたしとあいつは姉妹に見られたってことだよ」
……なんだか、それだけじゃないような気もしないでもなかったけれど、僕はそれを口に出さず、
「あ、彩さんは、そういうのつけないの?」
「……ふんっ、兄貴の財布の紐が堅いのさ。買うのも許してくんないし。まだ早いってね。今時、どんな箱入り娘だ。まったく、時代錯誤な兄だよ。アクセの一つも持ってない女子高生なんて、この高校にだって滅多にいないよ。天然記念物だよ。絶滅危惧種だよ。お小遣いもなかなか堪らないしさあ……。ほんとに、これだから格差社会は……」
彩さんはぶつぶつ言う。
ゲームとマンガ本が積み上がったあの部屋を思い出し、お小遣いが足りないのは自業自得では? ――――という意見を飲み込んだところで、僕は一つ、ぽんと思いついた。
『これ』はある種の悪戯みたいなものだけれど、それでも僕にとっては急を要する疑問。僕の中に巣くうモヤモヤをいくらか晴らせるかもしれない質問。彩さん自身が『こういう話題』を振ってくれたからこその、今この瞬間だからこそのチャンス。何だか彩さんを試しているようで少しばかり気が引けたが、しかしこれもこの人のためだと考え直し、僕は言葉を続けた。
「そうか、ふふ、じゃあ――――怪盗『砂時計』にでも頼めば、いいもの貰えるかもしれないねえ?」
と、薄い笑顔を作って言ってみた。そして、じっと、彩さんの反応を見る。どんな微細な反応も見落とすまいと、ささいな違和感も見逃すまいと、じっと視線を送る――――けれど、彩さんはあからさまにきょとんとした顔をし、ぱちくりと瞬きをして、
「へ? いやまあ、そりゃそうだろうけど――――でも、わざわざ『砂時計』に頼むなら、おいしいもの食べさせてもらった方が数万倍得に決まってるだろう? なんせ、あれだけ宝石持ってるんだから、きっと大金持ちだろうし」
何バカなこと言ってるんだい――――とでもいうような表情で言ってきた。
多分、そういう思考が佐々谷との大きな違いなんだろうね――――というツッコミをまたも心にしまい込みながら、この彩さんの反応に相対して、僕は少し安堵した。……この反応からして、やっぱり彩さんは『そういう事情』は知らなさそうだ。無関係そうだ。この表情で、この返答で、僕に対しシラをきってるとか、演技してるとか、そんなことはどうしても考えにくい。そうは思えない。十中八九、この時点の彩さんはシロだ。
やっぱりか――――と、彩さんに気取られないように僕は嘆息する。
正直期待外れだと思った部分もあったけれど、これは当然喜ぶべきことだ。この友人が、現時点では犯罪者ではないということ。今はまだ止められるかもしれないということだ。
少しばかり、僕は気が楽になった。
この彩さんと話す分に限っては、何も気に病む必要はないんだ。今まで通りに接していればいいんだ。フレンドリーにしてくれた分には、フレンドリーに返せばいいだけだ。返していいんだ。難しいことを考えなくていいんだ。僕は思わず、思いもよらず、ひとりごちに笑みをこぼしてしまった。安心が顔に出てしまった。そして、何かもっと盛り上がれる別の話題でも振ろうと、微笑と共に視線を上げた、けれど――
「――あ、そうだ。怪盗『砂時計』といえばさ、昨夜の特番見た? いや、あたしも〈鷹野〉にメールもらって慌てて見たんだけどさ、あれ、めちゃめちゃおもしろかったよねえ?」
と話題を振られ、一気に気分が陰った。二週間前の人生不動のワーストな帰り道が、一瞬で僕の脳裏にフラッシュバックする。『鷹野』という名前が、ワードが、単語が、当然のごとくその引き金だった。
――そうか、そりゃそうだ。昨日も二人はメールで楽しく話してたんだ。
たかだか二週間ぶりに話しかけられただけで喜んでる自分が、なんとみみっちいのかと思ってしまう。勇気も度胸もなくこそこそと僕が彩さんと距離を取っている間にも、彩さんと鷹野はお互いに交友を深めているのだ。その間僕は一体何をやってたんだろうと、自己嫌悪が始まってしまう。
もはや僕は相槌すら満足に打てる心境でもなかったのに、彩さんときたら、
「前、鷹野に借りたDVDでもさあ――」
「鷹野に教わったんだけど――」
「そしたら、鷹野がさあ――」
と、続けざまにあいつの名前を出してくる。こっちの心内を知るわけもないとはいえ、僕にとっては苦痛以外の何物でもなかった。もう少し僕に気を使ってくれと思ってしまう。……いや、もしかしたら、僕が意識してなかっただけで、以前から彩さんの話に鷹野が登場する機会はこれほど多かったのかもしれない。この人とあいつの間柄を知らされたせいで、余計に僕がはっきりと認識するようになっただけなのかもしれない。
その後も休み時間の間中、彩さんは途切れることなく鷹野が登場する話を聞かせ続けてきて、僕は一本ずつ針を心臓に刺されているような気分だった。おかげで、休み時間の終盤には純然たる針のむしろ状態だった。
そして、休み時間終了一分前、ようやく話したいことを話し終わったのだろう、話が途切れた彩さんが、
「あ、そうだ、加賀原、ちょっと頼みたいんだけど」
と言ってきた。
これもまた鷹野が登場する話なんだろうと、僕は相槌を打つのすら嫌になっていたけれど、死力を振り絞って、僕は「何?」と返事した。
「これなんだけどさ」
と言いながら、彩さんは僕の机の上にことりと何かを置いた。視線を落としそれを見てみると、『それ』は――――紙ぺら一枚と、筆箱ぐらいの大きさの、包装紙にくるまれた箱だった。
僕は彩さんの顔を見上げながら、
「……え、と。何、これ?」
「いやあ、悪いんだけどさ」
彩さんは申し訳なさそうにぽりぽりと頭をかいて、
「次の休み時間にさ、教室で、この紙に書いてあることを読みながら、この箱をあたしに渡してくれないかな?」
「…………は?」
意味がわからなかった。まったくもってわからなかった。……ええと、今渡されたこの箱を、次の休み時間に、渡す? 彩さんに? 紙に書かれたことを読みながら? えっと、それは――
「――何のために?」
「いいから、頼むよ。お願いだから」
「い、いやあ、そう、言われても……」
済まなそうな笑顔で僕に合掌してくる彩さんに、僕は答えあぐねる。
「じゃ、頼んだかんね」
僕の困惑をすぱんと無視し、彩さんは手を振り振り、自席へと帰って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと、そりゃ、こま――」
――キーン、コーン
僕の叫びは、これでもかというほどタイミング良く鳴り響いたチャイムの音によってかき消された。