第六話「電車にて」その二
僕は最後尾車両から先頭車に向かって、トイレを探すようなふりをして歩いて行った。
乗り込んだ時からわかっていたが、やはりこの電車の乗客は少ない。容易に人数を数えられる――――というか、全員の顔を覚えられそうなくらいの少なさだ。
ずんずん前へ歩きながら、自分が気にしているのを周りに気取られないよう、顔を動かさず目の端で乗客をそれぞれ確認していく。
こそこそと『砂時計』について話し込んでいるスーツ姿のおじさん三人。デジカメの撮影画像をチェックしている大学生くらいのお兄さん。買い物袋をぶらさげた四十くらいのおばさん。並んで携帯ゲーム機に遊び興じている小学生の男の子二人。いびきをかいてねこけているおじさん。そして、読書にふけっている高校生くらいの女の子。
全部で九人だ(僕と南川を入れれば十一人だが)。
僕が通り過ぎても、誰一人として挙動不審な様子は見られなかった。無反応だった。何か隠し事をしてそうな人間などいなかった。この中に本当に『砂時計』がいるのだろうか? いるとしたら誰なんだ? 前回出会ったあいつの背格好からして、ありえるのは五人。あいつが独りで行動しているとしたら、さらに二人に絞られることになる。
大学生と思われるお兄さんか、いびきをかいているおじさん。
この二人のうちのどちらかが怪盗『砂時計』なのか?
――と、
『まもなく、珠ノ一江、珠ノ一江』
車両内のスピーカーからアナウンスが響いてきた。
――やばい。
あと一分程度で次の駅だ。電車が止まってしまう。扉が開いてしまう。奴に逃げるチャンスを与えてしまう。なんせ、僕は堂々と電車を歩き回ったんだ。『砂時計』に自分の姿を見せつけてしまったんだ。僕がこの電車に乗っていること――――そして、僕がここで『砂時計』をきょろきょろ探していることを示してしまったのだ。
――いや、待て、それはつまり、次の駅で降りた人間こそが『砂時計』だということなのか? そいつを追いかけていけばいいということなのか?
……うーむ、しかし、それも際どい推理だ。奴の都合からして、次で降りるわけにもいかないという可能性だって否定できない。それにそもそも、終電のことを考えたら、僕自身が下車できないじゃないか。
やはりこの状況で、この場所で奴が誰なのかを突き止めなければ。
どっちだ? どっちが怪盗『砂時計』だ? どっちの方が『砂時計』である可能性が高いんだ?
――いや、違う。そうじゃない、そうじゃないだろう、考え方は。奴に対抗する思考方法は。
僕はぶんぶんと頭を横に振った。
そして、ふらふらと車両を歩き出す。
窓の外の景色がゆっくりになってきた。減速し出したんだろう。もう、時間がない。
僕は腹を決め、そして――
――女の子の隣に座った。
僕が見たこともない制服に身を包んだ高校生。ロングの髪を両脇で三つ編みにしていて、白いフレームの眼鏡をかけている。前髪もなかなかに長くて顔の輪郭もあまり確認できないが、別段珍しくもない格好をした女の子だ。
僕が腰を落ち着けると、その子はちらりと、いぶかしんだような視線を僕に向けてきた。しかしすぐに顔を俯け、読書に戻る。
僕はできるだけ平静を装った声音で、
「その本、おもしろいですか?」
と聞いてみた。
その子は再度僕にグラウンスすると、少し間を置き、たどたどしく、
「え? ……ええ、まあ、そこそこ」
「何の本読んでるんですか?」
「え? あ、と……歴史小説、ですけど……」
「何て題名ですか?」
「お、『大椰子八郎兵衛伝記』ってやつですけど……」
「へえ……。それって、誰の作品なんですか?」
「す、鈴川揺籃っていう、先生、です……」
ここまで呟くように答えると、その子は視線だけを僕に向けてきて、
「……あ、あの、す、すいません……あたしに、何の用ですか?」
と、不審げな質問をぶつけてくる。
僕はにこやかな表情を作って、
「いや、気分はどうかと思いまして」
「……気分?」
「ええ――
――まんまとオランダの宝石を盗み出した直後の気分はいかがですか、怪盗『砂時計』?」
僕は一言一言しっかりと発音した。
その女の子は、しばしの沈黙。列車がガタガタいう音だけが二人の周りに響く。
もしかしたらこのまま駅に着くまでシラをきり続けるのかとも思ったが、しかしその女の子は、突然その強張っていた表情を崩して、
「……うふふ、さすがですね」
と、微笑で、嬉しそうな声音で、そう言った。そう言ってきた。次いで、
「どうしてわかったんです?」
「いや、簡単なことです。さっき、僕が一人一人確認していった時、誰一人として挙動に不審な点は見られなかった。僕を不審そうに見てくる人も、あるいは僕から顔を逸らそうとする人もいなかった。それはつまり、怪盗『砂時計』はこう確信してたからじゃないですか? 『外見だけでは、僕には絶対に判別できないだろう』と。怪盗『砂時計』にはそういう自信があったんじゃないんですか? ……では、怪盗『砂時計』がそこまでの自信を抱く、そんな外見はどんなものか? ――――そんなのは自明です。この前会った時とまったく『正反対』の外見をしていればいい。前回会った時の奴は、僕よりも十センチ近く背が高かった。そして男性だった。ならば、僕より背の低い女性――――女の子なんじゃないか、と思ったわけです。その場合、当てはまるのはあなただけだった。……ふふ。普通に考えれば、そんなことは物理的には不可能でしょう。しかしそんな理由は――『物理的に不可能』なんてつまらない理由は――残念ながら怪盗『砂時計』には当てはまらない。それだけの理由では、この選択肢を排除できない。否定できない。つまりはそういうことですよ」
「……なるほどー。いやあ、さすがです」
心底感心したように言い、その人は頭に手をやった。そしてふわっと、頭からその三つ編みの長髪を〈脱ぎ捨てる〉。その下から覗いた顔に、僕は――――僕は、驚愕を禁じえなかった。
やや丸顔で、目尻の下がった目つき、への字の唇が板に付いた口元。そして真円の寄り目。僕にはどうしても、どうやったって――
――橡彩さんにしか、見えなかった。
僕は呆気にとられる。視神経にこの人の情報が流れるのと、頭で認識するのに、明らかなタイムラグが生じる。思考が、理解が追い付かない。そして、追い付かないまま、
「……あ、あん、た、は、あ、あ…………彩、さん?」
と、考えもせず、考えなしに、条件反射に等しい動作で、僕はそう言葉にする。言葉にしながら、目の前のこの人をもう一度よく見た。
……いや、よく見ると、少しばかり違和感がある。この人が橡彩さんだとは認識しているが、しかし、『同一人物』とはどうにも認識できない。顔の作りも声音もこれ以上もなく似ている。なのに、飲み込めない矛盾がある。
――そうだ。
僕が知っている彩さんよりも、この人は少しばかり落ち着いた雰囲気がある。そしてさらに、毎日会っているあの人よりも上背が高いような気がする。そう、まるで――――彩さんの三、四年後を見ているかのように。
目の前のその人は、くすりと悪戯に笑うと、
「や、加賀原、こんばんは」
と、いつも教室で聞いているのに限りなく近い声音で、僕に話しかけてくる。
「いやー、まさかバレるとは思ってなかったよ。折角、今日はあたしがでばってきたってのに。ばれる要素が存在するなんて思いもしなかった。うっふふふ、さすがだねえ、加賀原。見直した」
僕は一瞬、反応できなかった。しかし、周回遅れで何とか思考が追い付き、
「……え? 『今日はあたしがでばってきた』って……それは一体、どういう、意味……」
「べっつに? そのまんまの意味だけど。ようは、あたしがそのままの怪盗『砂時計』本人じゃないってこと。さらにもう一人、黒幕がいるってことよ」
「黒幕? って、そ、それは誰……」
「あっはははは。そんなの、言えるわけないじゃない。いくら加賀原でもね」
そう言って、目の前のその人はぱちりと僕にウィンクをしてくる。
――黒幕がいる。
その言葉に、僕は少しばかり安堵感を覚えた――――ようは、彼女が怪盗『砂時計』の主犯ではないということだ。もちろん、彼女が犯罪者であることには変わりないが、彼女は主犯じゃない。彼女は首尾一貫この犯罪を意図したわけではない。その黒幕さえ止めれば、彼女の犯罪も止まる可能性があるということ。
ここで、僕はふっと思い出し、
「……そ、そうか、なるほど。この前『あいつ』に会ったときに、確か『見覚えのある服装だ』と言っていた。……それはつまり、君の家の近くで、僕とすれ違っていたってことだろう。やはりあの人も、君の何かしらの関係者だってことなんだろう」
「……そんなこと言ってたんだ」
目の前のその人は不満げに、あるいは不安げに口を尖らせ、ぼそりと呟いた。
「…………まったく、にいさんたら」
「……え?」
「いや、何でもないよ」
首をフルフルと振りながら、苦笑いで僕の顔を見返してきた。
「で、加賀原、あたしをどうする気?」
「どうするって、いや、別に、どうもしないよ――――というか、できないさ。こちとら丸腰だし……。しかも、今ここで君を捕まえようとしたって、傍から見れば僕は、年頃の女の子に襲いかかる変態にしか見えないだろうし。それじゃ逆に、僕が犯罪者になっちゃう」
「うっふふ。さっすが加賀原、よくわかってる」
その人はにんまりと笑い、うんうんと頷いた。
――と、
がたんと車体が揺れ、外の景色が停止した――――目の前にはプラットホーム。ドアが開き、夜風が車内に流れ込んでくる。
「うっふふ、じゃあ、そういうことで」
そう言って、その人は立ち上がった。そして出口へと歩き出す。
「そっちのあたしによろしくね。んじゃ、お休み、加賀原」
車両からすたんと降り立ち、僕にひらひらと手を振ってくるその人。
次いで、ドアが閉じられた。数秒の後、外の景色が動き出す。
僕は呆けたまま、離れていくその人の笑顔をただただ見送るだけだった。