第五話「橡彩宅にてⅡ」その二
これで二度目の橡宅訪問だが、前回と違うのは、今回は佐々谷が同行していないことだ。
どうやら、佐々谷はすでに部活の友人に見せてもらっており、準備は万全らしい(それに、明日は佐々谷が指される番ではない)。なので、僕の古典のノートを必要とするのは橡さんだけであり、本日の僕は、橡さんのためだけに彼女の部屋にお邪魔したのである。
橡さんに促されるまま、前回以上に緊張した心持ちで、
「お、お邪魔します」
と、橡さんに続いて玄関に上がった。そして靴から出されたスリッパに履き替えた――――ところで、
「ああ、ねえさん、お帰りなさい」
と、初めて聞く声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、廊下に一人の女の子が立っていた。
背丈は、僕より頭一つくらい低い。服装は僕が通っていた中学の女子用セーラー服。ストレートの髪を赤い髪留めで二つに分けていて、その顔は落ち着いた印象を受けるような澄んだ造り――――けれど、パッと見て、明らかに橡さんと似ている。橡さんの四、五年前の写真を見ているような気になる。どこからどう見ても、佐々谷の話にも出ていた、橡さんの妹だろう。
その橡さんの妹は、姉に挨拶をした後、僕に焦点を合わせ、そのままピタリと固まってしまった。口を丸く開け、目を見開き、まるで雷にでも打たれたかのような、信じがたい現実をつきつけられたかのような、茫然とした表情。
その変化に小首をかしげながらも、橡さんは何ともなしに、
「ああ、こいつはクラスメイトの加賀原。ちょっと宿題見せてもらうの」
と僕を紹介した。
その説明ではっと我に返った妹さんは、
「え? あ、ああ、クラスメイトですか。そうですか。そうですよね。そりゃそうですよね。ねえさんに、こんなまともな彼氏ができるわけないですもんね。そんな日が来たら、世界が滅んでしまいます。いやあ、あたしったら何てイタい勘違いを。恥ずかしいったらありはしない」
「……なんだとこのやろー!」
「それじゃあ、まあ、後でお茶でも持っていきます」
そう言って、妹さんはリビングの方へ入って行った。
橡さんは「まったくもうっ」と不機嫌そうに唸って、
「さ、行くよ」
と階段を上って行った。
どことなくどぎまぎしながらも、僕もその後について行った。
前回同様、棚と言う棚がマンガ本とゲームのケースで埋め尽くされた部屋。壁際の洗濯物の山も相変わらずだ。まったくもって片付いた様子もない――――というか、前回よりも床の見える面積が減っているような気もする。……もしかしたら、今なおこの部屋は発展(というか、悪化の)途上なのかもしれない。来年のこの場所が一体どんな状態になっているか、想像するだけでそら寒かった……。
そんなイメージしても損なだけの想像をぶんぶんと振り払いながら、僕はペットボトルとお菓子の空箱の間にどうにか自分が座るスペースを見つけ、とすりと床に腰を下ろす。そしてカバンからマイノートブック取り出して、
「はい。じゃあ、これ、古典のノート」
と、テーブルの上に置いた。
しかし橡さんは床には座らず、カバンを肩から降ろしながら、
「あ、ちょっと待ってて。冬香がもしかしたらウーロン茶以外の飲みモノを持ってきちゃうかもしれないから。ちょっと見てくる」
と言って、僕が「いや、他の飲みモノの方が嬉しいんだけど」と意見を述べる間もなく、たったかと部屋を出て階下へ降りていってしまった。
僕は橡さんの部屋で独りぼっち。自分の部屋に男を一人放置するなんて、無防備不注意もいいところだと思うが……。まあ、逆にこれは信用はされてるともとれるんだろうか?
僕は仕方なしに、妹さんの名前は冬香というのかと反芻したり、あるいは階下から聞こえてくる、
「ちょっと、冬香、さっきの発言はどういう意味よ」
「どうって、そのままの意味ですけど?」
「こおんの~! まったく! なんって可愛げのない妹だ!」
「ねえさんに言われたくありません。ねえさん以上に人の期待を裏切るような性格の人間なんて、この世に存在しませんから」
「なんだとっ! 何を根拠に!」
「だって、そうじゃないですか。先週のあたしの誕生日だって、プレゼントが『煎茶の六缶パック』なんて意味不明もいいところ――」
という言い合い罵り合いを聞かない振りしたりしながら、座って待っていた。
そしてふと、棚上のマンガ本とマンガ本の隙間から、何か白くて平べったいものが覗いているのを見つけた。
他人の部屋のもの(しかも、異性の私物)を勝手に見て回るなんてのはこの世で最も行儀の悪いことであることは、僕だって十分にわかっている。橡さんに対する罪悪感だって一応あるにはあった、が――――この時ばかりは、それ以上に僕の興味が勝ってしまった。
なんせ、数か月来の想い人であるにも関わらず、僕は橡さんについてほとんど何も知らないのだ。
趣味も知らないし、特技も知らない。どういう生い立ちなのかも知らないし、将来の人生設計も(もちろん、本人がちゃんと設計していればの話だが)知らない。日々部屋でどんなことをしているのかさえ知らないのだ。だから余計に、憑き動かされるように、僕はその平べったいものへと手を伸ばしてしまった。
僕が取りだしたもの。それは白いプラスチックでできた――――写真立てだった。
写真立て自体はなかなか頑丈な造りで、高そうだなあとか、写真立てをマンガ本の陰に隠してたんじゃあ写真を立てる意味がないじゃないかとか、そんな取りとめもないことを思っていたのも束の間――――僕はその写真内の人の並びに、驚愕を隠せなかった。
そこには四人、並んでいた。
一人は、当然の如く橡さん。赤いパーカーにジーンズという私服で、こちらにいつもの不遜な笑みを向けている。そしてその右隣りには先刻会ったばかりの冬香ちゃん。その隣にも大学生くらいの男性が立っており、どことなく二人と顔の輪郭や目元口元が似てることから、恐らく彼が二人のお兄さんなんだろう。さらに隣には四十くらいの女性が立っていて、彼女が橡さんのお母さんであることも見て取れた。
そして問題は、橡さんの逆隣りだった。そこに立ってこちらに満面の笑みを向け、びしっとピースサインを決めていたのは――
――鷹野だった。
そこにいるのが当然であるように、そこが自分の居場所であるかのように、その人当たりのいいにこやかな笑顔をこちらに向けている。まるでこの家族の一員であるかのように、その並びに溶け込んでいる。
僕は、理解が追い付かなかった。
意味が分からなかった。
息が止まった。
思考が止まった。
時が止まった。
……何だ? 何だ? 何だ? 何だ? 何だ?
一体全体これはどういうことなのだと、鈍くなった僕の頭がようやく再び回転し始めた時――
――がちゃり
ドアが開く音がした。
僕は肩を震わせる。
驚きすぎて、呆気にとられすぎて、僕はその場に固まったままだった。固まったまま、くるりと、あるいはギクリと、入室する橡さんを見返すだけだった。
橡さんは
「おっまたせ~」
と能天気な声を上げ、ウーロン茶の入ったコップを両手に持っている。そして写真立てを手にとって立ちつくしている僕を見て、
「お? 何見てるの?」
と、ウーロン茶をテーブルに置きながら、僕の手元を覗いてきた。
僕は、乾いた舌を濡らし、慌てて、
「あ、ごめん、勝手に見ちゃって」
と写真立てを棚に戻した。
橡さんは、
「ああ、その写真」
と、納得したように一つ頷き、
「よく撮れてるでしょ? 先月……いや、二か月前だったっけ? ハイキングに行った時にとったやつだよ。夕方から雨に振られたんだけど、冬香がそれをあたしのせいにしてくんのさ。家族旅行にあたしを連れてくといっつもこうだってね。ほんと、あったまにきてねー」
「そ、そうなんだ」
自分でも無理やりなのが分かるほどの作り笑いを作りながら、僕は相槌を打つ。次いで、
「……こ、これ、鷹野だよね? あいつも一緒に行ったんだ?」
「ああ、実はあたしとあいつ、幼馴染でねえ。母親同士が友達だったんだ。おかげで、家族旅行の時はちょくちょくあっちの家族も誘ってんの。かれこれ、幼稚園以来の付き合いだからね。案外永いよ」
橡さんは何ともなしに答える。けれど――――幼馴染、家族ぐるみ、幼稚園以来という言葉を聞いて、僕は腹の奥に気持ち悪いものを感じた。単なる言葉なのに、ただの単語に過ぎないのに、単純な空気振動でしかないはずなのに、その一つ一つが、深く深く、僕の中にめりこんできる。
視界がぐにゃりと歪んだ。
今目の前にいる橡さんがあっという間に手の届かないくらい遠くに行ってしまったような、そんな感覚に襲われる。僕が過ごす二十四時間と、橡さんが過ごす二十四時間が、これでもかというほど違っていることを認識した。僕が見ている世界と橡さんがいる世界はどうしようもなく違うことを、心の奥底から思い知らされた気がした。思い知ってしまった。
――と、
「失礼します」
という声が聞こえて、再びドアが開かれた。振り返ると、冬香ちゃんがトレイを持って部屋に入ってきた。
「お茶菓子持ってきました。良かったら食べてください」
そう言って、運んできた紅茶のカップとクッキーが乗ったお皿をテーブルに置く。
橡さんは口をぷっくりと膨らまし、
「何だよ、冬香。おもてなしの品はちゃんとあたしが持ってきてるんだから。余計なことするな」
「……おもてなしの品って、もしかしてこの、氷も入ってないウーロン茶ですか? まったく、これがおもてなしてないから、わざわざあたしが持ってきたんじゃないですか」
「なってるよ! この前だって、加賀原はちゃんとこれで満足してくれたんだから! ねえ?」
「え? あ、ああ……」
僕はそんなことを話してる心境ではなかったのだが、取り繕うような相槌を打つ。
僕の方をちらりと見やった冬香ちゃんは、はあと溜息をつきながら、
「……やれやれ、やっぱりちゃんとあたしが気をきかせなきゃならないですね。せめて、ねえさんがこれ以上嫌われないように」
「嫌われてなんかないよ! むしろ尊敬されてるくらいだ!」
「……そうですかねえ? あたしの見立てでは、恐らく、今この瞬間に、加賀原さんの中のお嫁さんにしたい女性ランキングで、あたしがねえさんをぶっちぎりで追い抜いてしまったことでしょう。ねえさんはどんどん最下位まっしぐら。そのうち女性としてすら見てもらえなくなるかもしれない。……ああ、何て哀れなあたしのねえさん」
「なにぃ! そんなバカな! おい、加賀原! そうなのか! そうなのかぁ!」
そう言って、レスラー張りにぎちぎちと僕の首を締めあげてくる橡さん。
もはや精神的および肉体的ストレスをこれでもかというほど加えられて泣きそうになりながら、というか泣きたくなりながら(実際泣いてたかもしれない……)、僕はじたばたと、
「い、いや、あの、だけど、く、橡さん、も、素敵、だよ……」
「どっちっ!」
「い、いや、橡…………彩さんも、素敵、だって……」
「『も』ってどういう意味!」
「い、いや、あの、だ、大丈夫、ま、まだ、彩さんの方が、ランキングは……」
「『まだ』ってどういうことだぁ!」
「いや、だから、その、あ、彩さんが、あの、未来、永劫、い、一番、です、から……」
ここまで言うと、ふっと彩さんは首から手を放してくれた。
僕は糸の切れた人形のようにどさりと床に倒れ伏す。そのままうつむき、エホエホとえずいた。
彩さんはふふんと鼻を高々と上げ、
「どうだ? 聞いたか、冬香?」
「……そんなの、無理やり言わせただけじゃないですか」
冬香ちゃんはすました顔で答えた。そしてすくっと立ち上がり、
「とにかく、お客様に失礼のないようにだけはしてください。……そうだ。あと、にいさん、今日は帰りが早いみたいですからね。この逢引きがばれて大事にならないよう、お気をつけあそばせ」
そう言って、お盆をかかえて部屋から出ていった。
彩さんは鼻を鳴らしながら、
「ふん、まったく、我が妹ながらなんて厭味なやつだ。誰に似たんだろうねえ? ……さあ、さっさと宿題を終わらせよう」
テーブルに座り、宿題の模写を始めた。完全に目の前の宿題に集中してしまったようで、世界記録の更新でも狙っているんだろう。
ようやく部屋に戻った静穏。
僕はため息をつきながら、テーブルの横に座り直した。そしてそろりとテーブルのクッキーに手を伸ばした――――その瞬間、彩さんがいきなり顔を上げ、こちらをキッと睨んできた。
僕は慌てて手を引っ込め、ウーロン茶を飲む作業に入る。そして、半年にわたる慕情の告白を首を絞められた状態で苦し紛れに果たす男はどうなんだと自問しながら、文字通りの身も心もボロボロの状態で、マイノートが帰ってくるのを待っていた。