第四話「テーマパークにて」その四
その後の展開は、僕にとって驚愕だった。
この遊園地のお化け屋敷は国内でも三指に入ると言われるほどのもので、禍々しい雰囲気漂うその洋館に初めて相対した時には、僕自身も血の気が引いてしまったほどだった。これまで三つほどお化け屋敷というものを体験したことがある僕だったが、これほど近寄りがたいと思ったものは今までなかった。
正直腹痛でも訴えて逃げ出そうかとも思ったが、先刻のようにそっと離れようにも、なぜか橡さんはずっと僕の袖口を握りしめている。その握力たるや、まるで手錠のようだった。おかげで僕は飲み物を買いに行くことはおろか、列からはみ出すことすら許されなかった。
結局僕は逃亡を泣く泣く諦め、橡さんと共に列に並ぶこととなった。そして十五分ほど待ち(その間、橡さんは自身が今までどれだけの数のお化け屋敷を攻略してきたかということを、とくとくと僕に語りかけてきていた)、元々ピンクだったことがよく見ないとわからないほど黒ずんだドレスに身を包んだもぎりのお姉さん(ご丁寧に青白いメイクまでしている)にチケットを見せ、いよいよ僕たちもその洋館の中へと入って行った。
ぎいぃぃぃ、という、わざとらしいとすら思えるほど大きな音を立てて大きな木製ドアを開き、僕たちは真っ暗な通路に降り立った。そして一歩目を踏み出したところで、急に――――バタンッとドアが閉じられた。思わずその音に飛び上がりそうになったが、僕は何とか叫ぶのを我慢して、再度前を向き直した。
しかし、前が全く見えない。
外からの光が完全に遮断されているのである。目が慣れてきた頃合いで、ようやっと足元がかろうじて見えるくらいだ。これじゃあ進行方向すらわからない。
僕は慌てて入り口で渡された懐中電灯を点け、斜め後ろを振り返り、
「じゃ、じゃあ、行こうか、橡さ――――って、え、ええ?」
僕は驚いた。
三秒前までそこにいたはずの橡さんが、なぜか見えないのだ。
首を百八十度回してみたが、周囲に人っ子一人見当たらない。これは橡さんの悪戯なのかそれとも何かの演出なのかと思ったが、視線を床に向けて、見つけた。
そこに、丸まった背中があったのである。
ダンゴムシだってここまで丸くなれないだろうと言うぐらいに屈み込み、膝を抱え、肩を震わせている女性。その服装(水色の長そでTシャツ)とぴょこっとした一本縛りの後ろ髪からして、明らかにそれは橡さんだった。
「……く、橡さん?」
僕は呼びかけながら、そっと肩を叩いた。途端、
「ひっ……な、何するのよ、加賀原」
顔を上げ、首を回し、うっすら涙を浮かべた瞳で僕を睨みつけてくる橡さん。
「……な、何って、ほら、お化け屋敷始まったから、は、早く進まなきゃ」
「わ、わかってるよ!」
震える声でそう言いながら、橡さんもゆっくり立ち上がった。その表情はやたらに険しく、頬は引きつりっぱなしだ。
「じゃあ、行くよ?」
そう言って、僕は懐中電灯を握り直して再度歩き出した。
木製の廊下をぎしぎし言わせながら、歩いていくこと十数メートル。ボロボロの窓枠の横を通りかかったところで、急に――
――びかっ
窓が光った。
前方ばかり気にしてた僕は不意を突かれ、思わず後ずさってしまった。後ずさった後、窓を見直し、それがトラップの一つであることを理解した(つまりは、雷の時のように窓を光らせて通行者を驚かせるという、雰囲気作りのためのものだろう)。
「……び、びっくりしたぁ。……ったく、さすがうまくできてるもんだねえ」
僕は早くなった鼓動を落ち着けながら、
「最初からこれほどとは。この後どれだけのものがあるか、ほんと怖いよねえ、橡さ――」
くるりと後方を振り返った――――けれど、またも、そこに橡さんが見えない。
視線を落とすと、やはりそこにはダンゴムシ。
「もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理――――」
さっきより余計に縮こまりながら、呪詛のようにぶつぶつ言う橡さん。
「……ちょ、ちょっと、橡さん、ほら、立ってよ。早くしないと、次の人に追い付かれちゃうよ」
「もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理――――」
「ちょっと、ここに行こうって言ったのは橡さんでしょう? お化け屋敷、得意じゃなかったの?」
「もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理――――」
「ねえ、ねえってば、早く、早くしないと」
「もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理、もう無理――――」
橡さんは丸まったまま震えるばかり。僕の声なんか聞いてる素振りもない。
その後五分間ほど説得してみたが、一向に橡さんは立ちあがる気配はなかった。なので僕は仕方なく、橡さんの襟首を捕まえて、彼女を引きずって出口に向かうこととなったのである。
おかげで、僕にはもはやアトラクションに驚いている余裕なんてなかった。途中、追い付いてきた後発グループの中の数人にお化けと間違われて発狂される始末だったが、そんなのを気にしているどころでもなかった。もっと言えば、引きずっている最中、伸びた橡さんの襟と首の間から水色のレースの布切れが僕の視点から丸見えだったのだが、それすらも問題にしている余力はなかった。
結局、一時間近くかけて、僕はどうにかこうにかお化け屋敷から橡さんを連れ出したのである。
「いやーははは。ちょっとお腹が痛くなっちゃってね~」
お化け屋敷から連れ出して十分後、自販機の横の木製ベンチに腰掛けながら、橡さんはいつもの大音量で言ってきた。
「いやー、あたしがあのお化け屋敷をどれだけ優雅に軽やかにクリアーしていくのか、お手本を見せてあげたかったんだけどねえ。いかんせん、タイミングが悪かった。まさか、あのタイミングで持病の癪が発症するなんてね。本当、あんたもついてない。あっはははは」
そう言いながら、いつも以上に高らかな笑い声と共に僕の肩をぱんぱんと叩いてくる。
僕は缶コーヒーをすすりながら、「ははは……」と愛想笑いをするのが精一杯だった。腕といい肩といい足腰といい、橡さんを数百メートルにわたって引きづり続けたおかげで、ぴきぴきと痛いのである。もはやこれ以上他のアトラクションにかまけている余裕なんてないし、どころか僕は今日ちゃんと我が家にたどり着けるのかさえ不安なのだ。
僕はハアと肩を落とし、
「……まあ、いいや。……とにかく、橡さん、もう充分楽しんだでしょう? 集合時間まであと一時間もないし、どこかの休憩所でゆっくりとし――」
「なにぃ! あと一時間しかないのかっ!」
橡さんは突然叫び、自身の腕時計を見た。そしてがばりと僕に真顔を向けてきて、
「しまった! このままではデザートを食べ損なってしまう!」
「……デザート?」
「ああ! 最後まで食べ残してたんだ!」
橡さんは僕の袖口をむんずと掴むと、有無を言わせず僕を引っ張り出した。
「ちょ、ちょっと、橡、さん。どこへ連れていく気?」
「もちろん、デザートの在りかだよ!」
僕をずりずりと引きずりながら、首だけ振り返ってくる橡さん。その表情は犯行現場突入前の警官隊のような真剣な表情。そして腕を振り上げ、前方をぴしっと指さし、
「ジェットコースターだ!」
その一時間後、集合時間を五分ほど遅刻した時刻に、僕と橡さんは集合場所たるテーマパーク入り口横の広場にたどり着いた。
僕たち二人がここにたどり着いた最後の人員であり、他の同学年全員と先生方はすでにその場にいて、僕たちの帰りを眺めていたわけだが、その際、少しだけその群集にざわめきが生まれたそうである――――それというのも、帰ってくる際、僕と橡さんは肩を寄せ合い、お互いしな垂れかかるように密着しながら、まるでカニが前進歩行を覚えたかのように帰ってきたからだ。
それまで教室でだってほとんど話していなかったこの二人が、遊園地で遊んでいる間にここまで接近したのか、と思われたそうだ。
しかし、その真実は何のことはない。橡さんが調子に乗ってジェットコースターに連続で何回も乗り(途中からはタイムトライアルのような体になっていた。もちろん、僕もそれに付き合わされたのは当然だ)、二十回目を終えたところで急に気分不良を訴え始め、足元が覚束なくなり、まっすぐ歩くことすらできなくなっていた。しかしだからと言って集合時間に遅れるわけにもいかないので、僕がすでに辛い体に鞭打って、橡さんを横から抱えながらどうにかパーク入り口までたどり着いたということなのである。
途中から僕も貧血気味になり、視界がチカチカしていたので、その時の他の人のリアクションはよく覚えていなかった。そこから自分がどうやって帰ったのかさえ、あまり覚えていないというのが正直なところだ。