プロローグ
『その日』について僕が覚えていることといえば、それが三年前の梅雨の頃だったこと、僕が家に傘を忘れたこと、そして夕飯にカレーが出たことくらいである。
それ以外の記憶はほとんどない。
もちろん、その日が平日だったことや、当時の僕が中学生だったことくらいは容易に類推できる(元々僕は天気の悪い休日にはほとんど外出しないたちであり、また、現在の僕は高校に入学して半年なのである)――――しかしそれらの情報は、残念ながら、たいした意味を持たないだろう。重要なのは修学中の話ではなく、あくまで〈帰宅途中〉の話なのである。
下校の最中、僕は濡れ鼠だった。
これはただ単に、今朝の天気予報で「夕方から雨が降る」と言っていたにも関わらず、傘を持っていくのを忘れた僕が悪かっただけのことだ。別に、誰のことを恨んでいるわけでもない――――けれど、髪から服から靴からビショビショになって喜ぶような人などそうそういるものではなく、僕も内心で泣きながら、カバンを頭の上に乗せて帰り道を急いでいた。
――脇を通り過ぎる車がはねてくる水しぶきを避けて
――大きな水溜りを幾多も飛び越えて
中学から自宅までの通い慣れた道を、パシャパシャとただただヒタスラに走っていた。もはや鞄の中の教科書ノートが濡れてることなど気にせずに、一刻も早く屋根の下にたどり着くことだけを考えながら、一人黙々と道を進んでいた。
――そんな時だった。
雨音に混じって、ちりん、ちりんという鈴のような音が聞こえてきた。風鈴のそれに近いが、しかしそれよりも澄んでいて、切なげで、奥深い音色。ただの衝突音だというのに、思わず聞き惚れてしまうほど、至極透明で綺麗な音だった。
ほどなくして、一つの人影が僕の横を通り過ぎていった。
そいつの服装について、残念ながらその時の僕は注視しておらず、まったくと言っていいほど覚えていない。しかしその体躯は僕より少しばかり大きく、そして体格は男のそれだった。ずぶ濡れの印象はなかったので、恐らくそいつは傘を携帯していたはずである。……僕と違って。
僕はカバンを頭上に置いたまま立ち止まり、振り返った。
振り返って、何ともなしにその男の後姿を眺めてしまった。
男の方も僕の視線に気付いたようで、首から上を僕の方へ向けてきて、そして――――僕に向かってにこりと笑ってきた。これまた残念ながら僕はそいつの顔の造りについてほとんど覚えていないが、しかしとても柔和な微笑だったことは、何となく覚えている。
その男はまた前方へ向き直り、道を歩き出した。
ちりん、ちりんと。
右耳につけた、赤い宝石のついたイアリングのようなものを鳴らしながら。
――ちなみに、
その日の夕方に近所の美術館に怪盗『砂時計』が押し入り、ちょうどその日から公開されたばかりのイギリスの至宝『イービルガーネット』なるイヤリングが盗まれたことを僕が知ったのは、その二時間後、夕飯を食べながらニュースを見ていたときのことだった。
カレーを盛大に口から吹きこぼしてしまったのを覚えている。