第82話 長谷川真昼、お市ちゃんから逃げきる
「はぁ……はぁ……。あ、あれは朝焼け? それとも三途の川の灯り?」
泥だらけの顔を上げて、私は馬の上でうわ言のように呟いた。
朽木谷の険しい山道を越え、ようやく視界が開けた場所。
東の空が白み始め、美しい朝焼けが広がっている。
本来なら「わあ、綺麗!」と感動する場面だけど今の私には、ようやく寝れるかもしれない希望の光にしか見えない。
空腹と疲労でHPゲージは点滅状態、スライムに突つかれただけで全滅する自信があるよ。
ところが。
「……チッ。最後の最後で、詰めが甘かったか」
隣を行く信長様が、金属バットを構えて舌打ちをした。
え? 何?
私の眠気眼がカッと開く。
朝霧の向こうから、地響きのような足音と共に、整然とした軍勢のシルエットが現れたのだ。
「あれは……浅井の先回りか? それとも六角の残党か?」
松永久秀さんが目を細め、油断なく腰の刀に手をかける。
朽木元綱さんも「馬鹿な……裏道は完璧だったはず」と青ざめている。
『いかん! ここまで来てサヨナラ負けは洒落にならんぞ! 信長、フルスイングの準備じゃ!』
懐のセンイチが絶叫する。
嘘でしょ⁉ ここで戦闘? もうバット振る握力残ってないよ!
私が絶望して天を仰ごうとした、その時。
「――お味方でござる! 旗印を見られよ!」
霧が晴れ、風にはためく旗が見えた。
一つは「二つ引両」――足利将軍家の紋。
もう一つは「丸に竪木瓜」――あれは!
「滝川一益さんの旗だ!」
現れたのは、涼しい顔で馬を駆る細川藤孝さんと、影のように佇む滝川一益さん。
今回の戦いに不参加だった一益さんが駆けつけてくれたのだ!
「信長殿! ご無事で何より!」
藤孝さんが優雅に一礼する。
「公方様が『信長はまだか! 余を置いて死んだら地獄まで追いかけて説教してやる!』と、居ても立っても居られず、私めを寄越しました」
「フン、上様にしては気が利くじゃねえか」
信長様は憎まれ口を叩きつつも、バットを下ろして安堵の息を吐いた。
助かった……! 私は馬の首にしがみついて脱力した。
一益さんは信長様の前に進み出ると、音もなく跪いた。
「お館様。無事な姿を確認し、安堵いたしました。藤孝殿と元綱殿がいれば、ここから京までは安全でしょう」
「うむ。久助、貴様も供をせよ。京で茶でも……」
「いいえ」
一益さんは信長様の言葉を遮り、くるりと踵を返した。
その視線は京ではなく、私たちが命からがら逃げてきた北の山――金ヶ崎の方角へ向いている。
「えっ、一益さん? どこ行くの? 京はあっちだよ? 美味しい朝ごはんが待ってるよ?」
「……生存者の回収でござる」
一益さんは強い意志を込めて告げる。
「半兵衛殿、光秀殿、秀吉殿、秀長殿……それに家康殿。あやつらが野垂れ死ぬのを待つのは忍びないゆえ。……忍びの足なら、まだ間に合う」
「久助……」
信長様が目を細める。
久秀さんが「クックッ」と喉を鳴らした。
「忍び働きか。ご苦労なことよ。……だが、死ぬなよ? お主がいないと、俺の悪巧みを運用できる者がいなくて退屈だからな」
「心得ました。……久秀殿、藤孝殿、元綱殿、お館様を頼む」
言い残すと、一益さんは朝霧の中に溶け込むように消えていった。
かっこよすぎるよ、一益さん!
絶対みんなを連れて帰ってきてね!
***
一方、京へと続く街道筋。
京に在留している浅井軍の密偵が、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「そ、そんな……。信長、すでに朽木を越え、京の入り口へ……?」
目の前を通過していくのは、ボロボロになりながらも殺気を失っていない織田信長とその一団。
完全な包囲網だったはずだ。袋の鼠だったはずだ。
なのに、奴はすり抜けた。
「う、討ち漏らした……! お市様に……何と報告すれば……!」
密偵はガタガタと震えながら、小谷城への早馬を飛ばした。
***
北近江、小谷城の一室は、戦国の世とは思えないほどファンシーで、かつ狂気的な空間になっていた。
「うふふ、うふふふ♪ 茶々、いい子ね〜。もうすぐ長政様が、悪いお兄様の首を持って帰ってくるわよ〜」
お市が、愛娘の茶々をあやしながら上機嫌で鼻歌を歌っている。
部屋には季節の花々が飾られ、卓上には一枚の図面が広げられていた。
タイトルは『真昼ちゃん専用部屋鉄格子付き』。
「真昼は怖がりだから、最初は手枷足枷が必要かしら? でも安心して、毎日私がご飯を食べさせてあげるし、お風呂も一緒に入ってあげるわ。一生、ここから出なくていいのよ……♥」
お市の妄想がピークに達したその時、襖が勢いよく開かれ、伝令が転がり込んできた。
「も、申し上げます! 長政様より急報!」
「あら、早かったわね。で? お兄様の首は? 真昼は無傷で捕らえたのでしょうね?」
「そ、それが……! 信長、朽木谷を越え、京へ帰還! ……う、討ち漏らしました!」
ピタリと、お市の動きが止まった。
部屋の空気が、春の陽気から一瞬で真冬の北国のように凍りつく。
茶々が空気を読んで、泣くのをやめて母の表情を観察している。
「……討ち漏らした、ですって?」
お市がゆっくりと立ち上がる。
表情は笑顔のままだ。でも、目は全く笑っていない。
手にした扇子が、メキメキと音を立ててへし折れる。
それから、何一つ戦果を果たせず戻ってきた長政たちを出迎えた。
「……チッ。お兄様、相変わらず悪運だけは強いこと」
舌打ち一つしただけで、控えていた侍女たちが「ヒィッ!」と縮み上がった。
お市は折れた扇子を放り投げ、冷徹な声で長政に命じる。
「長政様! 次の作戦です!」
「つ、次の作戦……?」
長政が狼狽える。
「単独で殺れないなら、袋叩きにするしかありませんわ! 今すぐ文を書きなさい!」
お市は地図を広げ、信長を取り囲む勢力を次々と指差した。
「越前の朝倉はもちろん、南近江の六角残党、石山本願寺の生臭坊主ども、ついでに甲斐の武田にも! 『信長は仏敵だ』『幕府の敵だ』とあることないこと吹き込んで、四方八方から責め立てさせるのです!」
「しかし、お市殿。連中が信じるだろうか? 明確に敵対した我ら浅井と朝倉、それと六角は動くが……」
訝しむ長政に、お市は二条御所を指さした。
「足利義昭を利用すればいい。信長お兄様が奴に与えない、征夷大将軍としての職務を我らなら忠実に、忠誠を尽くし、幕府の中興の祖として崇め奉ります、と持ち上げ、おだて、将軍の命として武田と本願寺に声をかけるのです」
「……上様が義兄上に不満を溜めているのは事実だが、果たして我らに利用されるだろうか?」
「ウフフフ、義昭は自尊心の高いお方ですが、時流を見る目も確かです。お兄様を上洛に利用して将軍になったように。ですので信長包囲網がお兄様の力を上回れば、勝手にこちらに転がってきますわ」
「うむ……我らが名を使おうと、こちらが有利になれば上様の手柄にもなるわけか」
「さあ、やるのです! 織田軍の態勢が整わない今が好機! 信長包囲網を結成し、世界中の敵をお兄様にぶつけるのです! そうすれば……」
お市の顔が、恍惚と狂気に歪む。
「お兄様は死に、疲弊して泣き濡れた真昼が、私の元へ転がり込んでくる……! ああ、なんて素敵な物語かしら!」
長政は一瞬呆然としたが、すぐに愛する妻の狂気に感化され、瞳に炎を宿した。
「わかった! お市殿の悲願、この長政が叶えてみせよう! 皆の者、聞こえたか! 信長を天下の敵とするのだ!」
「「「はっ! 承知いたしました!」」」
海赤雨三将ら浅井家臣が一斉に跪く。
長政の懐で、英霊ボール『フミオ』がブルブルと震えていた。
もう1人、その狂乱の様子を部屋の隅で見ていた隠居の久政が顔面蒼白で呟いた。
「……あれ? 儂ら、信長を倒して幕府を再興するのが目的じゃったよな? いつの間に『お市様のために真昼を奪うための戦闘集団』になっとるんじゃ? ……これ、浅井家乗っ取られてね?」
久政の正気なツッコミは、熱狂する「お市親衛隊」と化した浅井家臣団のシュプレヒコールにかき消されていった。




