第78話 長谷川真昼、9回表に大逆転をくらう
金ヶ崎城をあっさりと攻略し、私たちは勝利の美酒(私は美味しいお水)で乾杯していた。
先鋒の家康さんは「旭殿への手土産じゃあ!」と鼻息荒くさらに奥へと進軍しているし、本隊の空気は完全にイケイケドンドン。
私も荷物の整理をしながら、越前ガニのフルコースを妄想してヨダレを垂らしていた。
「ふふふ、今回は私の出番なさそうだね。このまま一乗谷までドライブスルーだよ」
そんな楽観ムードが漂う陣の裏手、闇の深い場所で、一人の男が動いていた。
松永久秀さんだ。
***
久秀は、誰もいない木陰で密使の竹内加兵衛と対面していた。
「……久秀様。久通様より、書状にございます」
加兵衛が差し出した密書を素早く目を通した久秀の眉間に、深いシワが刻まれた。
そこには久通と、彼が預かっている英霊ボール『ブレイザー』が弾き出した、絶望的なデータが記されていた。
『……浅井長政、裏切り確定。織田軍の背後を封鎖する動きあり。勝率ゼロ。信長は袋の鼠となり死ぬだろう』
久秀は天を仰ぎ、吐き捨てるように呟いた。
「愚かな……。長政ごときに天下を采配する力量あらず。このまま信長の下で大人しくしていれば、悪いようにはならなかったものを」
「久秀様、急ぎ脱出を。このままでは巻き添えです。それがしとご一緒に大和へ……」
加兵衛が促すが、久秀は首を横に振った。
「いや、ここで信長に死んでもらっては困る」
久秀の瞳がギラリと光る。
「今、信長が死ねば、奴が持つセンイチやスギウラ、ミズハラといった強力な英霊ボールが、朝倉や浅井、ひいては本願寺の手に渡る。……それは面白くない。奴にはまだ、俺の盾となってもらわねばならん」
「……承知いたしました。ご武運を」
加兵衛は闇に溶けるように消えた。
久秀は一瞬だけ懐を探り、そこにはない『ブレイザー』の存在を確かめるように胸を押さえると、表情を忠臣の仮面に切り替えて歩き出した。
***
信長様の本陣で私は信長様の肩を揉みながら、次の観光プランをプレゼン中だった。
「でね、一乗谷にはソフトクリームがあるかわかんないですけど、美味しいお蕎麦があるらしいですよ! そこで昔……というか未来ですけど、私のお父さんがバイトしていたことあってですね」
「ほう、蕎麦か。悪くない」
信長様も満更でもない様子。勝家さんや長秀さん、光秀さんに秀吉さんも、地図を見ながら談笑している。
そこへ、久秀さんが血相を変えて飛び込んできた。
「信長様! 一大事にございます! 浅井長政が裏切りました! 急ぎ、撤退のご決断を!」
シン……。
陣内の空気が止まった。
私と信長様は顔を見合わせ、同時にポカンとした。
「は? 何を言っている、久秀。長政が俺を裏切る理由がないぞ」
信長様がキョトンとして尋ねる。私も慌てて手を振った。
「またまた〜久秀さん! 冗談キツイですよ! 長政さんはお市ちゃんとラブラブだし、脛毛抜く仲だし、これまでずっと一緒に戦ってきたじゃないですか!」
「左様! 義弟殿が裏切るなどありえん!」
「誤報でしょう? 久秀殿」
勝家さんも長秀さんも笑い飛ばそうとする。
けれど半兵衛君だけが、サッと顔色を変えて扇子を閉じた。
久秀さんは無言で、息子の久通からの手紙を信長様に突きつけた。
「ご覧ください。これは我が息子からの急報。……小谷城から敦賀道へ疾走する浅井軍の松明の列が、克明に記されております。その数、万を超えると」
手紙を見た信長様の目が点になる。
秀吉さんが震える声で願望を口にした。
「わ、我らに……合流するのが目的……では? 朝倉攻めの援軍として……」
「いいえ、違います!」
緊迫した声で遮ったのは、半兵衛君だった。
「信長様、我らと合流するなら事前に連絡があるはず。無言での全軍移動は奇襲の証。……これは明確な裏切りです。我々は前後を塞がれました。猶予はありませぬ、急ぎ撤退を!」
「撤退……だと?」
信長様はまだ信じられない様子だった。
「裏切る理由は明白。今、この瞬間が織田信長を弑し、畿内の権力を簒奪する絶好の機会だからでございます」
でも久秀さんにダメ押しされた瞬間、信長様の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
――上洛の時、お市ちゃんと会った時のこと。
彼女は小豆の入った袋の両端を紐でギュッと縛り上げ、この世のものとは思えない恍惚とした笑顔でこう言ったのだ。
『お兄様、油断なさりませぬよう。でないといずれこうなりますわよ? ……その時は、真昼を私が頂きますわね』
カッ!
信長様が目を見開き、バットを握りしめた。
刹那、雷鳴が響き、雨が降り出す。
「ウヌッ! あれは警告ではなく、犯行予告だったか! 市め……長政を焚き付けおったな!」
信長様の怒声で、全員が事態の深刻さを悟った。
「そんな! お市ちゃんがそんなこと……そんなことする子だったね……」
背筋がゾッとする。袋の鼠。完全包囲。お市ちゃんにとって、千載一遇の天下獲りの好機。
ここでのんびりしていたら、私たちは全滅する。
「全軍退却だ! 金ヶ崎を捨て、京へ走る!」
信長様の決断は早かった。でも、撤退するには誰かが追撃を食い止めなきゃいけない。
死ぬ確率100%の、捨て駒役が。
「しんがりは……!」
信長様が言い淀んだ瞬間。
「私がしんがりを務めます!」
真っ先に声を張り上げたのは、秀吉さんだった。
まだ肩の傷が癒えきっていないのに、瞳には迷いがない。
「秀吉……お前、まだ怪我が……」
「構いません! 私の命は信長様に拾われたもの。ここで使い潰してください! 泥にまみれて時間稼ぎをするのは、私の得意分野です!」
「私も残りましょう」
即座に光秀さんが並び立つ。
「信長様、これより先は信長様が生き延びるか死ぬかの戦い。知略と射撃で敵を撹乱します。我らを存分に捨て駒にしてくだされ」
「僕も残ります。モリミチさんの守備力がなければ、数分も持ちませんよ」
半兵衛君も涼しい顔で加わった。
「ウキッ!」
秀長も、当然のように兄の横に立つ。
みんな……死ぬ気だ。信長様のために。
「……私も残る!」
私はバットを構えて叫んだ。
「キャッチャーがいなきゃ試合にならないでしょ! 私のバットで長政さんを説得する!」
でも、秀吉さんが首を横に振った。
いつもは優しい瞳が、今は厳しく私を見据えている。
「だめだ真昼。お前は信長様の恋女房だ。エースの隣にいるのが仕事だろう!」
「真昼殿は信長様と共に! ここは我ら美濃衆にお任せを!」
半兵衛君と光秀さんに背中を押される。
嘘……置いていかないといけないの?
「猿! 十兵衛! 半兵衛! ……死ぬなよ!」
「必ず生きて帰れ! 酒を奢ってやるからな!」
勝家さんや長秀さん、又左さんや成政さん、恒興さんが涙を流しながら、二度と会えないかもしれない仲間たちの肩を叩く。
これが戦国。これが撤退戦。
令和の常識なんて通用しない、命のやり取り。
「真昼様、お早く!」
久秀さんに促され、私は無理やり馬に乗せられた。
視界が涙で滲む。
「絶対に死なないでよ! みんな! お蕎麦一緒に食べるんでしょ! 約束だよ!」
私の叫びを残し、本隊は闇夜の敦賀道へと駆け出した。
***
暗い山道を、馬の蹄の音だけが響く。
雨音が強くなり、豪雨となっていく。
雷鳴だけが頼りの視界で、私たちは必死に京を目指して逃走していた。
懐のセンイチが、今まで聞いたこともないような絶望の声を漏らす。
『……クソッ。モリミチさんが残るとはいえ、戦力差は歴然じゃ。8回裏まで大勝していたのに、土壇場9回表で大逆転くらうとは……。こんな継投ミス、監督なら胃に穴が開くわ……!』
「弱気なこと言わないでよセンイチ! 9回表なら、まだ裏があるんでしょ!」
私は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
でも、その時だ。
私たちの行く手、真っ暗な街道の先から聞き覚えのある……でも、絶対に聞きたくなかった奇声が響き渡った。
「ぜっこうちょおおおおおおおお!」
「……え?」
空気が凍りつく。
闇の中から現れたのは、青色の不気味な光を全身から発する男、斎藤龍興だった。
「ヒャッハー! 待ってたぜ信長! ここがテメェの墓場だあああ! 今日は最高に、殺戮日和だぜええええ!」
キヨシボールを掲げ、道を塞ぐ龍興率いる美濃残党軍。
このストーカー、ずっと尾行してたのかよ!
前門の絶好調男、後門の朝倉、迫りくる浅井。
詰んだ。
完全に詰んだ。
金ヶ崎での絶望の撤退戦が幕を開けた。




