第69話 長谷川真昼、球界の紳士に気圧される
「ねえ……誰か、ワイパー持ってない? 視界がずっと5ピクセルくらいしかないんだけど! あと泥! この泥、私のローファーをコンクリート並みの重さにしてるんだけどぉぉ!」
大河内城を包囲して数週間。
私は伊勢のぬかるんだ泥土の中に踵まで埋まりながら絶叫していた。
海での勝利は何だったのかというほどの、地獄の長雨。
空はどんよりとした鉛色に塗りつぶされ、金属バットを振ろうにも足元がズルズルと滑って、全力スイングどころか立ち上がるのもやっとの有様だ。
秀吉さんが重傷を負い、秀長と新五郎君によって岐阜に帰った報せに青ざめたけど、ねねちゃんからの手紙で命は取り留めたと知って安堵。
待っててね、秀吉さん。必ず仇を討つから!
ねねちゃんに伊勢名物のお餅も買ってきてと頼まれてるから、一緒に食べようね。
「……今日も出てくる気配なしか。雨と泥さえなければ総攻撃できるものを。ったく。暇だが野球の練習もできぬ。忌々しい雨だ」
本陣の幕の中で、信長様が苛立ちを隠さずにバットを地面に突き立てる。
そんな私たちの様子を嘲笑うかのように、霧の向こうからは「ワッショイ! ワッショイ!」という斎藤龍興軍の不吉な陽気声が聞こえてくる。
たまに奇襲を仕掛けてきては、こちらの疲れを誘って逃げていく……まさに最悪の泥仕合だ。
「義兄上、一旦引きましょう。この雨では兵たちが病に倒れます。一度岐阜へ帰り、仕切り直すべきです」
浅井長政さんが脛毛がツルツルのくせに、いつになく真面目な顔で進言してきた。
私は昨日の夜、長政さんが脛毛を一本一本抜いてるのを目撃してるから鎧姿でも想像しちゃうんだよね。
その時に、お市ちゃんは近江にいるんだから、抜かなくてもよくね? って聞いたら……。
「討ち死にして近江に帰った時、それがしの足に脛毛があったら、お市殿に城ごと燃やされてしまいますので……」
……うん。幸せそうに言うなら私が口を挟むことはないよ。
夫婦仲睦まじいようで、よかったよかった。
……長政さんの後ろで、部下の磯野員昌さんが『お市様=真理』の鉢巻して、感涙して泣いていたのは意味わかんなかったけど。
そんな長政さんの進言を、半兵衛君がモリミチボールを回しながら首を横に振った。
「ダメですよ、長政殿。今ここで退けば、将軍義昭様の面目は丸潰れです。『信長は名門一つ落とせずに逃げた』と天下に報じられれば、せっかく整備した秩序が崩壊します。ここは続行……泥にまみれて戦うしかありません」
「半兵衛の言う通りだ。退く選択肢はない。……だが、あの城、気味が悪いな」
信長様が見上げた大河内城の本丸。
そこに一歩も動かずに雨に打たれる男がいた。
伊勢国司・北畠具教だ。
彼の周りは泥臭い戦場には似つかわしくない、透き通るような白く気品のある光が漂っている。
そんな具教の傍らに、優雅に浮遊する一球の白球があった。
『……ふぅ、相変わらず騒々しい波動じゃな、センイチよ』
雨音と距離を無視する、品格ある声が私たち織田軍にまで届く。
センイチが、借りてきた猫のように静かになった。
「センイチ? どうしたの、いつもの怒号は? 言い返さないの?」
『……小娘、静かにせい。あれは、ベットウさんじゃ……』
「ベットウ?」
『おう。監督通算1237勝。……じゃが、一度も優勝を経験していない、不運の男よ』
センイチの声には、いつになく敬意と、少しの哀れみが混じっていた。
『かつてタイガースのダイナマイト打線の中核を担い、猛虎の牙として暴れまわった御仁じゃ。じゃが、タイガースの分裂騒動という泥沼に巻き込まれ、オリオンズに移籍してのう……。打棒は荒々しかったが物腰は柔らかく、球界の紳士と呼ばれたお方じゃ。……あの気品、今の織田軍に太刀打ちできる者はおらんぞ』
『美しく、静かな監督でな。相手に自分のような無作法者が打席に立っていいのかと自問自答させ、戦意を消失させる究極の威圧感……気品あるフリーズじゃった』
モリミチも懐かしそうに呟いてきた。
確かに大河内城に近づこうとする織田の兵たちは、具教の姿を見ただけで、自分たちが汚らわしい存在であるかのように錯覚し、足が止まってしまっている。
松永久秀さんが解説をしてくれる。
「北畠具教は剣聖・塚原卜伝より一の太刀を伝授された最強の剣豪。名門の誇りと、英霊ベットウの気品。……あれは力でこじ開けられる門ではありませんな」
「最強の剣豪に、1200勝超えのジェントルマンボール……。属性盛りすぎでしょ」
お母さんのパーティーメンバーの、大富豪の令嬢なのに高校剣道大会無敗で終えた人みたい。
でも、お父さんに一回も勝ったことがないとかで、会うとお父さん睨んでたっけ。私とお姉ちゃんには優しかったから別にいいけど。
あの人の気品あるオーラに、お父さんいっつも震えてたっけ。
そんな感じなのかも。気品って、生まれ育ちが重要だから努力でどうなるもんでもないんだよね。
私が絶望的な気分になっていると、嘉隆さんと一益さんが隅っこで密談を始めているのが耳に入る。
「……久助。正攻法がダメなら、忍者と海賊のやり方でいくしかねえな」
「左様でござるな。嘉隆、例のモノを準備するでござる」
海賊と忍者が、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべている。
……あ、これ絶対汚い作戦だ。
そんなことをさせる前になんとかしないと……。
ん? そういえば城の兵士たちの様子、籠城しているのに余裕そうじゃね?
「半兵衛君! 気になったんだけど、あの城、おかしくない? この長雨で包囲されてるのに、城壁の上の兵士たち、みんな肌ツヤが良くて元気いっぱいなんだけど。食べ物、無限湧きしてない⁉」
私の指摘に、半兵衛君の瞳が鋭く光った。
「ほう……気づきましたか、真昼殿。通常なら飢えで顔色が悪くなる頃。ですが奴らは血色が良すぎる。……おそらく、支援者がいます。それも戦場を裏から支配しようとする巨大な影が」
「影……?」
「恐らく本願寺顕如でしょう……。地下道か秘密の港を使って、物資を運び込んでいると見て間違いありません」
「坊主どもか。連中、極楽浄土を唱えて本願寺を信仰すれば、この世で何をしてもいいと本気で思ってやがる。俺の一番嫌いなクソどもだ」
信長様、ガチギレオーラ出さないでよ。私たちは慣れてるけど、木造さんとか長野さんとかの伊勢降伏組が震えちゃってるじゃん。
「半兵衛、場所の目星は付いたのか?」
「ええ、坂井政尚殿と重矩に探らせ、掴みました」
信長様の問いに、半兵衛君は雨に濡れた地図の一点を扇子で叩いた。
「真昼殿。嘉隆殿と一益殿、川並衆を連れて、九鬼水軍の小舟で山陰の断崖に向かってください。そこに必ず、物資を荷揚げしている裏道があるはずです。そこを叩かなければ、この泥仕合は終わりません」
「えええ! この雨の中、また海に行くの⁉ てか、政尚さんと重矩君は⁉」
竹中久助重矩君。半兵衛君の弟で、信長様の近習の1人だ。
超優秀で、久太郎君や鶴千代君たち小姓の教師もしている。
フッ……勉強会に呼ばれ、子供たちに完膚なき敗北した日のことを思いだすぜえ。
令和の女子高生より学力上すぎるよ、あの子ら。
「政尚殿も重矩も海戦経験が不足しています。その点、真昼殿は海戦を経験済みですし、何より秀吉殿の仇を討つと気合を入れていたでしょう? さあ、思う存分に暴れてください」
……この軍師、やっぱり私をこき使うことしか考えてない!
「秀吉さんのことを言われたら、断れないじゃん! わかったよ、もう!」
私はドロドロのローファーを引きずりながら、一益さんと嘉隆さんたちと共に、不気味な霧の立ち込める海岸線へと向かう決意を固めた。




