第68話 長谷川真昼、不在中に秀吉が負傷退場してしまう
伊勢の空は呪われているのではないかと思うほどに暗かった。
数日間降り続く執拗な長雨が織田軍自慢の火縄銃をただの鉄の棒へと変え、兵士たちの士気をじわじわと削り取っていく。
「……ムッ、火皿が濡れて使い物にならん。これでは洗濯に出したばかりの袴で泥遊びをするようなものだ」
阿坂城を包囲する織田軍の西軍木下隊の陣。
木下藤吉郎秀吉は、湿りきった陣幕の中で忌々しげに天を仰いだ。
隣で秀長が器用に猿の身のこなしで雨漏りを防ぐ細工をしている。
もう1人、合流した北軍大将、実の弟の斎藤新五郎利治が励ましの言葉をかけに訪れていた。
「秀吉兄者、弱気は禁物です。鉄砲が使えずとも、我らには信長様とセンイチ監督が授けてくれた道具があるではありませんか」
「……わかっている。だが、この胸騒ぎは何だ……?」
秀吉の予感は直後に開始された阿坂城攻撃で、城門が織田軍の金属バット隊によって粉砕された瞬間に的中した。
「城主・大宮景連、退散! 阿坂城、攻略完了にございます!」
池田恒興の勝鬨が響き渡り、織田軍が勝利の余韻に浸ろうとした直後、西軍大将佐久間信盛隊の背後にある深い霧に包まれた山中から、異様な熱気が押し寄せてきたのだ。
「ヒャッハッハッハ! 今日は最高! 一生に一度あるかないかの、絶好調おおおおおの日だぜ!」
霧を切り裂いて現れたのは、青い流星の如き禍々しいオーラを全身から噴出させる男――斎藤龍興。
かつてのひ弱で暗愚な面影はない。
手には夜空の星のようにギラつく英霊ボール『キヨシ』が握りしめられ、龍興の理性をポジティブな狂気へと塗り替えていた。
「ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!」
龍興に率いられた斎藤軍の残党たちは泥濘をものともせず、狂ったような掛け声と共に突進してくる。
連中の動きは、まるでドーピングを打たれたアスリートの如く俊敏で力強い。
「なっ……何だ、あの集団は⁉ 浮浪児の集まりかと思えば、一騎当千の勢いではないか!」
迎撃に回った佐久間信盛の防衛線が、龍興たちの突撃にあっさりと穴を開けられてしまう。
「狙うは織田のベンチ裏! 裏切り者の帰蝶、てめえから血祭りにあげてやるよ!」
龍興の目が秀吉のいる陣地を捉えた。
龍興は一気に加速し、秀吉を護ろうとする雑兵どもをキヨシボールの加護を受けた一撃で、雨粒を弾き飛ばすほどの衝撃波を放ち一掃する。
「おのれ龍興! この秀吉が相手だ!」
秀吉が金属バットを構え、龍興の太刀を受け止めようと身構えたところでキヨシが吠えた。
『ガッハッハ! 悩んでる暇なんてねえぞ! 魂を込めて、フルスイングじゃあああ!』
キィィィィィィィン!
金属バットと太刀が激突し、火花が雨の中に散る。
押し切ったのは龍興の絶好調な筋力だった。
バットを弾き飛ばされ、防御の崩れた秀吉の肩口に龍興の刃が深く食い込んでいった。
「ぐわぁっ……!」
崩れ落ちる秀吉の頭から陣笠が落ち、濡れた前髪の間から信長が愛した女の瞳が龍興の眼に映る。
「……その目だ! その目がいけ好かねえんだよお!」
「帰蝶姉上ーーーっ!」
「ウキーーーーーっ!」
新五郎と秀長が叫び、必死に龍興へ煙玉を投げつける。
鮮血が泥の中に混じり、秀吉の意識が急速に遠のいていく。
「許さぬぞ……龍興!」
「ヘッ、1人目アウト! 次は新五郎、てめえの番だ! 裏切り野郎!」
「稲葉山で酒池肉林していた、愚かな貴様が悪い!」
憤る新五郎に、龍興は激昂することなく、却って冷静に言葉を紡ぎ出した。
「ああ、そうだな。まったく、戦で先頭に立って、駆けずり回るのがこんなに楽しいなんてよお。過去に戻ってやり直したい気分だぜ」
「やり直すべきことは他にもあるだろ! あんたのすべき立場は民を安寧に導くことだ!」
「ヒャッハッハ! 今の俺には民なんていないからなあ! 美濃を奪還したら考えてやるよ! さあ、お喋りは終いだ。全員、死ね!」
新五郎を弾き飛ばして勝ち誇る龍興だったが、背後から凄まじい風圧が襲いかかり振り返る。
「……てめえ。俺たち織田の要に、随分な真似をしてくれたじゃねえか」
現れたのは怒りで髪を逆立てた佐々成政と、前田利家だ。
2人の手には、雨で重くなった特注の金属バットが握られていた。
「鉄砲が使えねえからって、調子に乗ってんじゃねえぞ。俺たちのスイングは、雨風ごときで狂いはしねえ!」
成政が吠え、弾丸のようなノックの要領で龍興の足元を強襲する。
龍興はそれを軽やかに飛び越えるが、着地した瞬間に利家のフルスイングが鼻先をかすめた。
「ぬうっ……⁉ この泥だらけのバカども、俺の絶好調についてくるだと⁉」
「当たり前だ! 俺たちは信長様の千本ノックを生き延びた地獄の1軍レギュラー陣だ!」
「お前の薄っぺらな陽気さに、負けるわけがねえんだよ!」
成政と利家。織田軍が誇る二大暴れん坊の連撃が、龍興をじりじりと押し戻していく。
雨の中、金属音と怒号が交錯し、キヨシボールのオレンジ色の光が火花となって散った。
『潮時は大事だぜえ、龍興。他の陣地から続々援軍が来る頃だ』
「……チッ。今日はこれくらいにしてやるか。俺の最高のシーズンは、まだ始まったばかりだからな!」
形勢不利と見た龍興は高笑いと共にバックステップを踏み、深い霧の中へと消えていった。
***
戦闘が収まり、阿坂城の城内の静寂の中に信長が立っていた。
担架に乗せられ、顔を白くした秀吉が足元に横たわっている。
「……傷が深く、この場での手当てには限界があります」
斎藤新五郎が沈痛な面持ちで告げる。
信長は何も答えなかった。
ただ、愛用のバットを握る手が白くなるほどに震えていた。
「新五郎、秀長。……お前たちは秀吉を連れて、岐阜へ帰れ」
「しかし、信長様! 伊勢攻略はまだ半ば……」
「行けと言っている」
信長の冷徹な一言に、新五郎は言葉を飲み込んだ。
「ウキー……」
秀長も意気消沈としながら、秀吉の側で命令を受け入れる。
信長は一度も秀吉の顔を見なかったが、背中からは周囲の雨を凍らせるほどの殺気が溢れ出していた。
「……承知いたしました。兄者の命、必ずや繋いでみせます。行きましょう、秀長殿」
秀長と新五郎は担架を担ぎ、雨の路を岐阜へと急ぐ。
「真昼がいれば……帰蝶……お前のカバーに回れたものを」
ポツリと漏らした信長の言葉は、激しくなる雨音にかき消された。
「義兄上、斎藤龍興の追跡なら我ら浅井にお任せを」
浅井長政が進言してくるが、信長は前を見据えて告げる。
「どうせ龍興は向こうからやって来る。全軍、大河内城へ。北畠具教を引きずり出して速攻で叩くぞ!」
進軍する織田軍の前に、やがて北畠家最高峰の要塞、大河内城が暗雲の中から巨大な牙を剥いて出現する。
秀吉という守備の要を欠き、降り続く雨に鉄砲を奪われた最悪のコンディションの中、泥沼の長期戦が幕を開けた。




