第49話 長谷川真昼、北の京で噂になる
雪に閉ざされた越前・一乗谷。
ここを訪れる旅人は、口を揃えて「北の京」と称賛する。
碁盤の目のように整備された街並み、雅やかな京文化、そして戦火を遠ざけた平和な空気。
でも、その平和が、とある男にとっては耐え難い退屈という名の毒になっていた。
「……また、鞠を落とさなんだか」
足利義秋――かつて覚慶と名乗った高僧であり、今は亡き兄・義輝の跡を継ぐべく還俗した流浪の将軍候補は、豪華な広間から中庭を見下ろして嘆息した。
中庭で、この地の主・朝倉義景が貴族のような装束に身を包んで優雅に蹴鞠に興じていた。
ポン、ポンと、皮の鞠が空を舞う。
「義秋様、ご覧くだされ。この鞠、決して落とさぬのが美徳。優雅に繋ぎ、現状を維持する……これこそが秩序というもの。尾張の織田のように、無作法な棒で叩き飛ばすなど野蛮の極み。あのようなうつけの猿回しに現を抜かす連中に、天下の理など分かりませぬぞ」
義景は雅やかな笑みを浮かべながら鞠を蹴り上げる。
彼にとって織田信長が兵に持たせている金属の棒や、投げ合う白い小石、そして守備位置の固定という奇怪な動きは、新興宗教の狂儀か下賤な子供の遊びにしか見えていなかった。
「義秋様。武士ならば、名刀を愛で、名弓を引くべきではないですかな? 泥にまみれて鉄の棒を振るなど、まるで野盗の作法よ」
義景はバットを蔑み、名門の矜持に浸っていた。
しかし義秋の脳裏にあったのは、血に染まった二条御所で最後まで戦い抜いた兄・義輝の姿。
(兄上は……『フトッサン』とかいう異国の霊が宿った白球を持ち、己の豪腕で運命を切り拓かれたと聞く。あれを野蛮と断ずるのは容易いが、兄上は確かに、その力で運命と戦っておられたのだ……)
義秋は自分の手が震えていることに気づいた。
自分はこの黄金の檻で、飾り物として死ぬのを待つだけなのか。
そこへ信長から派遣された明智十兵衛光秀が、幕臣・和田惟政を伴って現れた。
義景は斎藤家を裏切って信長に走った光秀を、冷ややかな目で見下ろす。
「美濃の名家、明智家の小倅か。うつけの元へ走ったお主が、今更この名門朝倉に何の用だ? 土岐や斎藤を裏切ったように織田を裏切ってきたのか?」
光秀は恭しく頭を下げたが、瞳は義景の古い鏡のような停滞を鋭く見抜いている。
「朝倉殿。織田の強さは、1人の武勇に頼らぬ分業の理にございます。信長様は戦場を9つの聖域に分け、それぞれの者が担当する領分を死守させております」
「9つの聖域……?」
義秋が身を乗り出す。元・僧侶である彼にとって、「9」という数字は特別な意味を持つ。
「左様。それは九会曼荼羅の写しの如く。信長様は戦場を浄土に見立て、仏の配置を以て敵を調伏する鉄の規律を兵に叩き込んでいるのです。1人が敵を討つのではなく、9人が1人の標的を封殺する……これこそが織田の球道にございます」
九絵曼荼羅――成身会、三昧耶会、微細会、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会、降三世三昧耶会という仏へ至る智慧を凝縮させた月輪への理。
光秀の嘘八百なプレゼンに義秋の目が輝いた。
「曼荼羅の配置で戦うだと⁉ なんと神聖な……!」
「十兵衛、戯言を。9人で1人を囲むなど、卑怯者の戦法ではないか」
鼻で笑う義景に対し、光秀は懐から白球を取り出した。
「いいえ。それは全軍の力を一瞬の標的に集中させる、神域の連携。ご覧あれ」
光秀は立ち上がると、百歩先の的に向かって腕を振った。
ヒュンッ! という風切り音と共に放たれた白球は、寸分違わず的の中央に突き刺さり、厚い木の板を粉砕した。
「……っ⁉ 弓も火縄も使わず、礫1つでこれほどの……」
絶句する義景だが、義秋が問いたかったのは白球の威力よりも、かねてより噂に聞いていたある娘のことだった。
「十兵衛よ。噂に聞く織田のあやかし……いや、怪物の巫女の話は真か? あのうつけが最も信頼し、隣に座らせているという神の力を宿した異能の娘……信長の寵姫の話だ」
光秀は頷き、巫女の伝説を語り出した。
「名は長谷川真昼にございます。一見すればか弱い娘ですが、彼女は神の杖を振るい、剛の者の槍を折り、堅牢な城門を粉砕します」
「ほう? その者は異形と聞くが……まことか?」
「いえいえ、絶世の美少女でございまする。かの者は信長様に仕えた頃のままの容姿を保ち、まるで越前の伝承にある八百比丘尼の如き不老の存在にして、空飛ぶ雷を素手で捕らえる護法善神。彼女が我が君の隣に座れば、いかなる刺客も通さぬ門番と化す。……彼女こそ、織田の秩序を司る守護神にございます」
義秋の耳は光秀の一言一句が真昼が神聖な道具を使い、敵を呪い、秩序を司る神の巫女に聞こえる甘美な響きを伴っていた。
「朝倉の盾はもう飽きた。……余は、長谷川真昼という神の巫女が守る織田の矛に乗りたい! 十兵衛よ、信長に伝えよ。余を受け入れる用意はあるかとな!」
「ははっ! 喜んで!」
光秀は義秋の将軍としての自尊心が完璧にフックしたことを確信した。
「義秋様、後悔されますぞ。あのような奇怪な踊りに興じている連中に、天下など動かせぬ」
義景が不快そうに顔をしかめたが、義秋は立ち上がり、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「朝倉殿。そなたが磨いているのは古い鏡。織田が握っているのは、未来を切り拓く杖だ。余は名前も変えよう! 義を昭らかにするという意味を込め、義秋改め、義昭じゃ! 織田に加わり、余が天下の号令をかけてくれるわ!」
義景の困惑をよそに、光秀は義昭を連れて一乗谷を後にした。
道中、光秀は驚くべき光景を目撃する。
朝倉軍の小隊が、圧倒的な数の一向一揆勢を圧倒している様子。
指揮を執るのは、山崎吉家。
彼の手には、朝倉軍で戦神の石と崇められている白い球――マツキのボールがあった。
(……真昼殿。君の集めている球は、もはや織田家独自の野球の道具ではない。天下を揺るがす秘宝として、諸国の武士が血眼で探し求める奪い合いの種に変貌するだろう……)
光秀は背筋が寒くなるのを感じながら、急ぎ岐阜へと馬を走らせた。
ちょうどその頃、岐阜城の縁側で、長谷川真昼は大きなあくびをしていた。
「ふあぁ……。平和だねぇ、信長様。このままのんびりゴロゴロするのも悪くないよねえ?」
「うつけが。俺の口癖を忘れたか?」
信長がバットを素振りしながら返す。
「えっと、真昼ちゃん、可愛い!」
「うつけが。誰がそんなことを口にした? 俺の口癖は、日が昇ったら働き、次の日が昇るまで働け、だ」
「休みなしじゃん! せめて日が暮れるまでにしてよ!」
まさか自分が越前の国で不老の神の巫女として、妖怪図鑑のトップを飾る勢いで噂されているとは、想像だにしていない真昼であった。
「ハクション! ……誰か、私の悪口言ってる?」




