第43話 長谷川真昼、正捕手の覚悟を決める
長良川の河畔。鉛色の空の下、磔台に縛り付けられた小さな身体があった。
八重緑ちゃんだ。
周囲を、異様な熱気を帯びた兵士たちが取り囲んでいる。
彼らの背後に、斎藤龍興が持つフトッサンがドス黒いオーラを放っていた。
「見せしめじゃ! 織田につく者がどうなるか、その目に焼き付けよ!」
龍興が手を振り下ろすと、フトッサンの怪力パワーを受け取った兵士が、丸太のような槍を構えた。
「させない!」
私は草むらから飛び出し、八重緑ちゃんの前に滑り込んだ。
金属バットを構えるのと、槍が突き出されるのは同時。
ガギィィィン!
重い。嘘でしょ、腕が千切れるかと思った!
金属バットが悲鳴を上げ、衝撃が私の全身を駆け巡る。
『小娘! 儂の闘将魂を受け取れえええええ!』
センイチの気合で私は歯を食いしばり、渾身の力で槍を弾き飛ばした。
「なっ、何奴!」
「今だ一益さん!」
「忍法、黒煙の術!」
一益さんが地面に玉を叩きつけると、視界を完全に遮る黒い煙が爆発的に広がった。
よし、これで逃げられる――そう思ったけど。
「見えぬなら、気合で薙ぎ払えぇぇぇ!」
ブンッ! ブンッ!
視界ゼロの中で、兵士たちがデタラメに槍を振り回す。
風圧だけで煙が切り裂かれる。
「くっ、退路が……!」
一益さんが八重緑ちゃんを抱えて走るが、包囲網が狭まる。
『フトッサン! 儂じゃ! 同じくタイガースで監督をしたセンイチじゃ!』
センイチが説得しようと試みるも、フトッサンは黒い霧を纏ったままだ。
『いかん。……最早敗北して意識がないようだ。クソっ! 監督としては大したことなかったが、コーチとしては奴の右に出る者はおらん。……監督としてのフトッサンなら与しやすかったものを』
センイチが歯ぎしりする。
英霊ボールが敗北して誰かに使われるとこうなるの?
私や信長様のように、墨で名前書いて野球の道具として使ってあげようよ!
私はバットを握り直し、一益さんの背中を守るように立ちはだかった。
「一益さん、行って! 私がしんがりになります!」
「無茶を言うな真昼殿! 残るなら拙者が!」
「いいから! この子を死なせたら、私一生後悔する!」
迫りくる槍の穂先。
死ぬかも。いや、死ぬ。
令和の女子高生が、こんな泥臭い川原で串刺し? 冗談じゃない。
恐怖で足が震える。バットを持つ手が汗で滑る。
でも――ここを通すわけにはいかない!
「うらぁぁぁぁ! フル・スイングッ!」
私は気合いと共に、目をつぶってバットを振り抜いた。
ドゴォッ!
奇跡的に、敵の槍の柄を粉砕した手応え。
一瞬の隙を、忍びのプロは見逃さなかった。
「真昼殿! 掴まれ!」
一益さんは私の襟首を掴むと、人間とは思えない脚力で包囲網のわずかな綻びを見つけて突破する。
背後で龍興の「追え! 逃がすな!」という絶叫が聞こえる中、心臓が破裂しそうなくらい、私たちは泥だらけになって走り続けた。
(『ここまでか。久秀の元へ戻るぞフトッサン。長谷川真昼、それに織田信長。データを改めなければならんようだ』)
龍興の傍にあった2つの英霊ボール、ブレイザーとフトッサンが、そっと姿を消したことも知らずに。
***
なんとか追手を振り切り、小牧山城の敷地内に入ると空は茜色に染まっていた。
私たちは裏門の近くでへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……助かった……」
私は大の字になって空を見上げる。
横では八重緑ちゃんが、膝を抱えてガタガタと震えていた。
顔面は蒼白で、歯の根が合わないカチカチという音が聞こえる。
「……こ、怖かった……槍が……おじちゃんたちの目が……」
無理もない。あんな殺意の塊を向けられたんだ。
私は泥だらけの手で、八重緑ちゃんの小さな背中をさすった。
「もう大丈夫。もう大丈夫だよ……」
そう言う私の声も震えていた。
怖かった。本当に怖かった。
でも、生きて帰れた。
そこへ秀吉さんが血相を変えて走ってきた。
いつもなら「真昼、無事か!」と明るく迎えてくれるはずなのに、顔は泣き腫らしたように歪んでいた。
「……真昼。一益殿。よくぞ……戻られた」
「秀吉さん? どうしたんですか、その顔」
「……吉乃殿が。……今すぐに、奥へ」
心臓が、戦場とは違う嫌な音を立てた。
嘘でしょ。
私は震える足に鞭打って、八重緑ちゃんを一益さんに預け、奥御殿へと走った。
廊下が永遠に続くように感じられた。
部屋に入ると、そこには布団に横たわる吉乃さんの姿があった。
以前から体調が優れないとは聞いていたけど、今の彼女は透き通る氷細工のように儚くなっていた。
「吉乃さん……」
私の涙声に、吉乃さんがゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……真昼さん? ……ああ、無事で……よかった……」
私は布団の横に膝をつき、冷たくなった彼女の手を両手で包み込んだ。
「はい。戻りました。八重緑ちゃんも、助けましたよ」
「そうですか……さすがですね……真昼さんは……物語に出てくる英雄のよう……」
吉乃さんがふわりと微笑む顔があまりに綺麗で、涙が溢れて止まらなくなる。
「吉乃さん……死んじゃやだ……私……吉乃さんに謝りたいことがあります。信長様の奥さんは吉乃さんなのに、いつも私が信長様の側にいたこと……女の子として嫌な気分にさせてたんじゃないかと……」
吉乃さんは、私の唇に人さし指を当てて遮ってくる。
「いいえ……真昼さんがいてくれて、私はとても心が休まりました。真昼さんのする令和のお話も、とても楽しかったのです」
「吉乃さん……」
「真昼さん……お願いが、あります」
吉乃さんの指が、弱々しく私の手を握り返してくる。
「あの方を……信長様を……頼みますね。あの方は……強がっていますけど……本当は寂しがり屋で……不器用な人ですから……」
息をするのも辛そう。
「私が……いなくなったら……誰があの方の暴走を……受け止めてあげられるのでしょう……」
「む、無理です……!」
私は思わず首を横に振った。
「私なんかじゃ無理です! 私はただの女子高生で……吉乃さんみたいに優しくないし、喧嘩ばかりだし……吉乃さんの代わりなんて、私には務まりません!」
怖かった。信長様の心の支えになるなんて重責、私には背負いきれない。
吉乃さんがいるから、私は自由に振る舞えていたんだ。
でも吉乃さんは、困ったように、でも愛おしそうに私を見つめた。
「代わりだから、いいのではないのです。……真昼さんだから、任せたいのです」
「え……?」
「貴女は……あの方と対等に渡り合い、同じ夢を見て、一緒に走れる人だから。……どうか、あの方の恋女房でいてあげて。……どんな球でも捕球する正捕手として」
吉乃さんの言葉が、私の胸にストンと落ちた。
優しく包み込む妻ではなく、泥にまみれてボールを受ける相棒として。
それなら――私にも、できるかもしれない。
「……はい。……わかりました」
私は涙を拭い、吉乃さんの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「約束します。信長様がどんな暴投を投げても、私が身体を張って止めます。絶対に、孤独なマウンドにはさせません」
吉乃さんは、心の底から安心したように目を細めた。
「ありがとう……。それと……子供たちを……」
「わかってます。奇妙丸君たちのお姉ちゃんになります。……任せてください」
そこでドタドタという荒々しい足音が廊下を駆け抜け、襖が乱暴に開かれた。
泥と血にまみれた甲冑姿の信長様が飛び込んでくる。
加治田城を奪還して、帰ってきたのだ。
「吉乃! 俺だ! 吉乃!」
「……信長様……お帰りなさいませ……」
吉乃さんの顔に、最期の紅が差す。
信長様は兜をかなぐり捨て、吉乃さんを抱きしめた。
「待ってろ、今、薬師を呼ぶ! だから……!」
「うふふ……泥だらけ……。貴方らしい……」
吉乃さんの手が信長様の頬の泥を拭い、そしてゆっくりと滑り落ちた。
「どうか……笑顔で……天下を……」
言葉は、そこで途切れた。
静寂が部屋を支配する。
「……吉乃? おい、寝るな。起きろ」
信長様が身体を揺する。でも、返事はない。
「吉乃ぉぉぉぉぉ!」
信長様の慟哭が、夕闇の小牧山城を引き裂いた。
私はただ、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
悔しい。悲しい。
でも、泣いている暇なんてないんだ。私は約束したんだから。
***
信長様の家庭教師だったという沢彦宗恩さんのお経が響く中、葬儀はしめやかに行われた。
城内は火が消えたように静まり返り、誰もが言葉少なだった。
信長様は部屋に引きこもり、食事も取らず、ただ吉乃さんの形見の簪を見つめているという。
大広間の隅で、奇妙丸君に茶筅丸君、おごとくちゃんが不安そうに身を寄せ合って泣いていた。
誰も声をかけられない重苦しい空気の中、小さな身体が駆け寄っていった。
八重緑ちゃんだ。
彼女もまだ顔色が悪い。処刑されかけた恐怖で、指先は小刻みに震えている。
彼女は一度立ち止まり、ギュッと目をつぶって、自分の頬をパン! と両手で叩いた。
それから震える手で涙を強引に拭うと、ニッコリと精一杯の笑顔を作って子供たちの輪に入っていった。
「若君様、姫様。泣かないでくださいませ」
「……八重緑?」
「私のお父様も、今も戦っています。私も……本当はすごく怖いです。でも、泣いていたらお星様になった吉乃様が心配されます」
八重緑ちゃんは、おごとくちゃんの手を優しく握った。
「一緒に強くなりましょう? 私がついていますから」
自分だって一番泣きたいはずなのに。
八重緑ちゃんの健気な姿に、秀吉さんも権六さんも、大の大人が涙を堪えきれずに顔を背けた。
私も、唇を噛み締めて涙をこらえた。
あの子が頑張っているのに、大人がメソメソしてちゃダメだ。
この光景を、少し開いた襖の隙間から見ている目があった。
信長様だ。
虚ろだった瞳に、八重緑ちゃんの覚悟を見て鋭い光が宿っていく。
八重緑ちゃんは、信長様の侍女見習いとして採用されることになった。
佐藤家に戻すのは危険だからという理由だけど、本人も使命感を抱いて前を向いている。
「これからは私が教育係ね! まずは信長様の機嫌を損ねないお茶の淹れ方からよ!」
「ねねちゃん、それ真昼さんが失敗したやつ……」
ねねちゃんとまつさんが、かいがいしく世話を焼き、秀長の妹猿・旭ちゃんも輪に加わる。
「ウキー」
「仲間だねって言ってるわ」
「うん! 私、頑張る! あっ! 私、旭さんの言葉わかりますので通訳も大丈夫です!」
ちょっと個人的に、なんで八重緑ちゃんも旭ちゃんの言葉わかるんだろと思いつつ、明るさを取り戻していく城内に安堵していると、信長様は私と秀吉さんを呼び出し、地図を広げて宣言した。
「美濃を獲る。今度こそ、徹底的にだ」
信長様の指が、稲葉山城を力強く指し示す。
「調略、奇襲、使える手は全て使う。……鬼になるぞ」
「はい! 鬼でも魔王でも、私が恋女房として支えます!」
私は力強く頷いた。
吉乃さん、見ていてください。
あなたの愛したこの人が天下を獲る姿、私が一番近くで見届けますから。




