悪魔を祓う②
「その通りね、契約内容はしっかりと読み込んで同意しなければならない。まったくあんたの言う通りよ、【堕天使】」
片手で一本で宙吊りにぶらさがったままのアルテナが、落ち着いた声でそう告げる。間髪入れず、悪意そのものな哄笑が闇の空間にこだました。
『ようやく現実を受け入れたようだな! そうさ、お前は――』
「ええ、あんたはミスを犯したわ」
いつの間にか、アルテナはもう片方の手に握っていた大鎌の刃を、自分の体重を支えている方の腕に沿わせていた。
「わたしは確かに、自分の魂を差し出すことに同意した。けれど契約には、それ以外は一切含まれていない」
『――!?』
闇の中で息を呑む気配が広がる。アルテナの言葉の意図は、マーガレットにもすぐに分かった。同時に、〝わたしを信じる?〟と問われた意味も。
「つまり、わたしの血をあんたが得ることも許されない!」
大鎌の刃が躊躇なく引かれる。
アルテナの腕に一筋の線が刻まれ、そこから赤い液体が勢いよく流れ出る。
それは肘を伝い、まっすぐ垂れ落ちて下の大顎に吸い込まれていった。
『き、貴様――!?』
「終わりよ! あんたは、契約に背いた!」
たちまち、大顎の全身に亀裂が走った。周囲を包む闇の様子が乱れ、ぐちゃぐちゃになった絵の具のように歪な色彩を背景に描く。
闇のあちこちに巨大な凹凸が浮かび上がる。表面に掘られた模様から、それらはすべて人の顔に見えた。苦しげに歪み、しかし次第に穏やかな表情に切り替わりながら、闇の空間に浮かんだ顔が次々と溶け落ちるように消滅してゆく。
それはまるで、これまでずっと悪意の街に囚われていた人々の魂が解放されていくかのようだった。
――〝ありがとう〟
闇から逃れられた人々の、そんな声が聴こえた気がした。
『うおおおおお! こんな、ふざけるな! 魂を得るということは、その者のすべてを頂くということだというのに……!』
崩壊が進む闇の世界に、【堕天使】の怒号が響き渡る。しかしその叫びは、既に虚しいものと成り果てていた。
「それはあんたの勝手な解釈よ! 通常ならそれが通ったでしょうけど、わたしとの契約はヘカテーの名が加えられている! あんたのやり方は、とっくに通用しなくなっていたのよ!」
崩れ落ちようとする闇の世界で、【堕天使】の負け惜しみとアルテナの宣言が交錯する。
『おのれ、俺の走狗となった男の孫に過ぎない分際で……! この、たかがひとりの小娘風情がっ!』
突如、マーガレットとアルテナの周囲から無数の黒い手が伸びてきた。鋭く尖った爪が、二人の生命を刈り取ろうと八方から殺到する。
だが、それらの攻撃はすべて途中で弾かれ、無数の黒い手は尽く分解されて散ってゆく。
「悪あがきは見苦しいわよ!」
いつの間にか足場を確保していたアルテナの手に、あの銀のロザリオがしっかりと握られていた。それはサファイアのチェーンもろとも眩い光を放ち、二人を守るドーム状のオーラを大きく展開させている。
「ヘカテーの魔力に悪魔風情が打ち勝てるものですか! あんたとの契約の結果、こうして彼女の力を直接呼び込むことに成功したわ! 神に罰された者が、神の力に勝る道理なんて存在しないのよ!」
アルテナの断固とした宣告と共に世界から闇が剥がれ落ち、代わって青い光が差し込んでくる。
瘴気の暗幕の後ろから顔を覗かせたのは、巨大な丸い月だった。先程まで纏っていた紅い光は影も形もなく、本来がそうであったかのように清明な蒼白を色濃く湛えている。
ヘカテーとは、月の女神。アルテナが口走った言葉をマーガレットは脳内で反芻する。まさしくそれを体現したかのような、神秘的な蒼月だった。
月が発する青い光が、【堕天使】の生み出した世界にトドメの一撃を加える。
今や闇の世界はほとんど透けて消え去ろうとしており、希薄になってゆく邪悪な気配から放たれた最後の捨て台詞がマーガレットの鼓膜を打つ。
『これで終わりと思うな。人間に欲望がある限り、俺は何度でも現れる。お前らの業が、俺を必要としなくなることは決してないのだから――!』
闇が去り光が還る世界の中で、しかしその言葉は不気味な重みを響かせ続けていた。