悪魔を祓う①
賽は投げられた。二人の運命を決する、不可逆の契約は結ばれてしまった。
アルテナが大鎌を手に泰然と進み出る。彼女の眼差しの先には、いまだ闇の底で大開きになっている邪竜の顎があった。
「さあ【堕天使】、署名はしたわよ! 早くマーガレットを現世に戻しなさい!」
『おお、良いともさ。望み通り、そこの小娘を解放してやろうではないか。――俺の気が済んだ後でな』
「なんですって……?」
アルテナの声が強張る。次の瞬間、彼女の立っていた場所が音を立てて崩れた。
「アルテナ!?」
マーガレットの脳裏に最悪の光景が広がる。が、幸いにもアルテナはすんでのところでまだ崩れていない足場の縁を片手で掴み、落下を免れていた。
「あんた、契約を違えるつもり!?」
先程までのマーガレットのようにギリギリでぶら下がりながら、アルテナは下の大顎に向かって毒づく。それに対して【堕天使】は、こともなげに言い放った。
『違えるものか。お前の神まで証人となった契約だぞ、そんなことをすれば俺とてただでは済まないからな』
「だったら、なぜ……!?」
『さっきまで見ていた条項をもう忘れたのか? マーガレットとの契約を破棄することは決定されたが、いつ解放するかの期限は記載されていない』
「――!?」
アルテナの目が見開かれる。いや、それはマーガレットも同じだった。
そんなことが、許されて良いのか?
『安心しろ、契約通り俺はもうそいつには拘らん。傷ひとつ付けず、指一本さえ触れずに見守ってやるよ。衣食住も、すべて不足なく提供しようじゃないか。リヴァーデンは俺の街だ。此処では、俺の思い通りにならないことなんか存在しない』
つまり、マーガレットをこのまま飼うということか? メインストリートや、教会で見た光景が思い出される。確かにこの街には、取り込んだ人々の即物的な欲望を満たす力がある。暮らそうと思えば暮らせるのかも知れない。
だがもちろん、そんなことはごめんだった。だが、【堕天使】は続けてこう言ったのだ。
『くくく、契約内容は良く考えて同意しないとな。特に書面の場合、口頭よりもなお厳重な拘束力を発揮する。確かに俺の権能では、契約を結んでいない相手の魂を貰い受けることは出来ない。だが、それだけだ。家に招き入れた客人に、心尽くしのもてなしをしてはならないわけじゃない』
悪意に満ちた声だった。聴いているだけで魂が腐り落ちるような、心が塗り潰されてしまうような、底知れない闇を抱えた意志の声。
【堕天使】の、悪魔の本領を、マーガレットは垣間見たような気がした。
『怖がることはない、怒ったり絶望したりする必要もないぞ。お前達はとても仲が良い友人のようだからな。ずっと一緒に居られるよう、取り計らってやるよ。魂が縛られた、抜け殻のような相方であっても問題はないだろう? 何も不安を感じる必要はない。当初お前が望んだ通りにすべては収斂するんだ、マーガレット。家のしがらみから解放され、新天地で友人といつまでも暮らす。この結果は、お前が頑張ったからこそ得られたものなんだぜ? お前は自力で手に入れた、成し遂げたんだ。だからもう、ゆっくりと休め――マーガレット』
悪意の塊が、マーガレットを誘っている。契約とか関係なく、マーガレットの心に甘く爛れた毒の蜜を流し込んで説き伏せようとしている。
乗ってはいけない、流されてはいけない。それは分かっているのに、抗いがたい魅力をどうしても感じてしまう。
甘い香りに誘惑されるがままにマーガレットが身を乗り出そうとした時だ。