新たな契約②
『良いだろう、お前の望む条件で新たに契約を交わしてやるぞ。お前は俺に魂を差し出す。その代わり、俺はそこの小娘との間に結んだ契約を破棄する。これで良いんだな?』
「小娘じゃないわ、マーガレットよ。ちゃんと名前を言って。後から実は別の誰かのことだった、なんて許さないわよ」
『疑り深い奴め、それならばこうしてやろうじゃないか』
【堕天使】の言葉と共にアルテナの正面の空間が僅かに歪み、闇の中から一枚の羊皮紙と一本のペンが現れた。ふわふわと目の前で上下するそれらを見て、アルテナが眉を上げる。
「これは、契約書ね?」
『見ての通りだ。口約束では不安だと言うなら、こうして書面にてお互いの合意を取り決めれば良い。これなら不満はないだろう?』
アルテナは目を皿のようにして書面を読んでいる。何度も何度も左右に往復する彼女の眼差しを、マーガレットは無言で見守った。
『名前のところが空白になっているだろう? そこにお前達の名前を書き込め。俺と契約を交わす奴と、破棄する奴。言っておくが、偽名でやり過ごそうと思うなよ? 此処は俺の世界だ、そんなまやかしはすぐに分かる』
「分かっているわよ。……確かに、文面に間違いはないわね。良いわ、署名しましょう。でもその前に、マーガレットを足場に上げなさい。彼女を支えたままじゃ、ペンも取れないわ」
『ふん、まあ良いだろう。どうせ逃げられないしな』
不意に、マーガレットは足の裏に硬い感触が当たるのを感じた。それは徐々にせり上がってきて、マーガレットをアルテナと同じ高さにまで持ち上げる。
「アルテナ……」
「良かったわ、マーガレット」
淡い笑みを浮かべて、アルテナがマーガレットの手を離す。指の間からするりと抜けていく彼女の手の感触を、マーガレットは心の底から惜しんだ。
『さあ、これで心配事は消えたぞ。とっとと署名しろ』
「急かさなくても今書くわよ。ただし、証人としてヘカテーの名を入れさせてもらうわ。わたしの信仰にかけて誓うという意味でね」
『神の名を証人に? ……貴様、何を考えている?』
「他意はないわ。この契約書を作ったのはあんた。わたしの神に誓いを立てることで、二重にそれを破れないようにするだけよ」
しばらく沈黙が続いたが、やがて【堕天使】は愉快そうに笑った。
『良いだろう、貴様の神を冒涜してやれることにもなるからな。信仰を棄て、新たな主に忠誠を誓う儀式みたいなものと見なして許可してやる』
「ご厚情に感謝するわ」
アルテナは、契約書の傍らで浮遊するペンを手に取った。それからマーガレットを見て、穏やかに口を開く。
「まだ、フルネームを聴いていなかったわね。教えて、マーガレット」
「私の名前は――」
言いかけて、マーガレットはぐっと胸にこみ上げるものを感じた。一生懸命その衝動を抑えて、アルテナの問いに答える。
「マーガレット・ウォレス、ミドルネームは無いわ。貴女の本名も教えて、アルテナ」
「……レインフォール。わたしの名は、アルテナ・レインフォールよ」
その名前を、マーガレットは何度も何度も心の中で繰り返す。アルテナの透き通った琥珀色の目を、長くて綺麗な薄紫色の髪を、自分の一番大切な記憶の底に焼き付ける。
「絶対に、忘れないから」
「わたしもよ。さようならマーガレット、少しの間だったけど楽しかったわ」
儚げな微笑みを最後にマーガレットへ向けて、アルテナはペンを片手に契約書に向き直った。
そして、躊躇なくそこに新たな文字を書き入れる。
完成した文面は、こうなっていた。
〈我、数多なる欲望を司る【堕天使】と呼ばれし者はここに約する。マーガレット・ウォレスと結んだ一切の契約を破棄し、代わりにアルテナ・レインフォールの魂をもらい受ける。――この契約は月の女神ヘカテーの御名において正式なものとし、違えることは許されない〉
闇の底から、歓喜に満ちた笑い声が轟く。
契約は、成立した。