新たな契約①
「【堕天使】! 聴きなさい!」
ぶら下がるマーガレットの腕を掴んだ姿勢のまま、アルテナは下の大顎に向かって声を張り上げた。
「あんたがマーガレットに執着するのは、ひとえに契約を交わしたから! そうよね!?」
『如何にも、その通りだ。一度取り決めた契約は絶対、今更無かったことには出来ないんだよ』
だからさっさと落ちてこいと言わんばかりに、大顎による吸い込みが一層強まった。凄まじい風量が上から一気に押し寄せ、マーガレットとアルテナを押し流さんとする。
「うっ、ううう……!」
マーガレットは、自分とアルテナの手が少しずつずれていくのが分かった。あまりにも強力な吸引力に、自分の手の力はそろそろ限界を迎えつつある。
だが次の瞬間にアルテナから飛び出してきた言葉で、焦りも緊張も一気に消し飛ぶ。
「だったら、わたしが新たな契約をあんたと交わすわ! その代わり、マーガレットを解放しなさい!」
「ちょっと、アルテナ!」
抗議の声を上げるマーガレットを、アルテナは見ない。彼女の眼差しはまっすぐ下の暗黒に、【堕天使】の顎に向いている。
『ほう……? つまりその小娘の延命を願う、ということか?』
「ええ、その通りよ! わたしの願いはひとつ! マーガレットを生かし、肉体も精神も万全の状態で現世に返してあんたは二度とこの子に関わらない! これだけよ!」
『その為に、己が魂を俺に差し出すと?』
「わたしは【イービル・イレイス】の一員! 悪の思うがままにさせてたまるものですか! でもね、悪を討つ以上に、悪によって苦しめられている人々を救うことが優先されるのよ!」
アルテナの意志は強固だった。本気で、マーガレットと自分の生命を引き換えにするつもりだ。
それが分かったからこそ、マーガレットは反射的に叫んだ。
「駄目よ!」
いま瀬戸際に立たされているのは自分の方だとか、あの悪魔がそんな申し出を正直に飲むとは思えないとか、脳裏に去来する余計なことは一切押しやってただひたすらアルテナの決意を否定する。
「私の為に、アルテナを犠牲になんかさせられないわ!」
「マーガレットは貴族だものね。自分が危ない時でも他者を気に掛ける、その気高い精神は本当に立派だわ」
アルテナがマーガレットを見る。こんな状況にまったくそぐわない、優しげな目だった。それが却ってマーガレットの心を掻きむしる。
「違う! 貴族がどうとか関係ない! 私が、アルテナを死なせたくないの! だからお願い、やめて!」
もう恥も外聞もなかった。マーガレットにとって、アルテナは最早行きずりの間柄ではない。
彼女の存在が、心の支えだった。知り合ってまだ僅かしか経っていないけど、長い年月を共に過ごしたかのような気さえしていた。
今やマーガレットにとって、アルテナの存在はなくてはならないものとなっているのだ。
「アルテナ、私は貴女と――!」
「ええ、わたしもよ。マーガレット、あなたと友達になりたかった」
マーガレットは息を呑んだ。自分が言おうとしたことを先回りして言ってきたアルテナは、にっこりと微笑んでマーガレットを見つめた。
その眼差しが、ガラス細工のように綺麗な琥珀色の瞳が、マーガレットの言葉を封じてしまう。先程の、〝わたしを信じる?〟というアルテナの問い掛けが耳の奥でこだまする。
アルテナの目は、どんな言葉よりも正確に彼女の内心を伝えてきた。だからこそ、マーガレットはもう何も言えない。
「さあ【堕天使】、どうするの!? わたしと契約する? それとも、こんな機会を蹴ってまで一般人の魂に執着するのかしら?」
『くくく、自分の魂に随分と価値があると思っているようだな? ……しかし、お前の申し出は確かに魅力的だ。そこの小娘と違って、お前の魂ならただ喰らうよりもっと良い使い道があるだろうからな』
面白い玩具を見つけた子供のように、【堕天使】の声は弾んでいた。それは、マーガレットが最初に出会った男やあの牧師のように、アルテナを眷属として隷従させるということだろうか。人の意志も矜持も棄てて、異形の怪物として永劫に使役される運命を彼女に押し付けようとしているのだろうか。
【堕天使】の意図が分かっても、マーガレットは声を出せなかった。ただ目を見開き、自分の手を掴んだ親友の選択を見届けることしか出来ない。