暴食の顎②
「あれは……!?」
闇の下方、虚ろな瘴気が渦巻くそこに、巨大な顎が出現する。それは長く前に突き出て奥行きがあり、ぱっくりと大開きになったそこには人体ほどの大きさをした鋭い牙がずらりと並んでいた。
明らかに人の形ではない、それ。獰猛な爬虫類のものを思われるその顎には見覚えがあった。
「あの、黒い竜の、口……!?」
『そうだ! よく見ておけよ、お前がこの世で最期に目にする光景だ!』
闇の中で【堕天使】の声が響くと同時に、マーガレットの足元から感覚が消えた。
一瞬の浮遊感。その直後に訪れる、重力の干渉。それを理解した瞬間、マーガレットは全身から血の気が引くのがはっきりと分かった。
「きゃああああ!」
「マーガレット!」
間一髪、すんでのところでアルテナがマーガレットの手を掴み、落下を阻止してくれる。無我夢中で手を握り返しながら、マーガレットは闇の中で身体を左右に揺らした。
「くううう……!」
「ア、アルテナ!」
闇に侵食されて見えない足場で精一杯ふんばりながら、アルテナはどうにかマーガレットを引き上げようとしている。マーガレットも急いで何処か掴める場所はないかと虚空を探った。
だがそんな二人の行動を、【堕天使】が許す筈もない。
『悪あがきも大概にするんだな!』
マーガレットは、頬に強い空気の流れを感じた。なんだと思った次の瞬間には、それは凄まじい強風となって全身を襲ってきた。
上から下に抜けるそれは、まるでマーガレットを奈落へと吸い込もうとしているかのようだ。
「まったく、本当にしつこい男ね……!」
アルテナの苦々しい呟きで、風の正体が分かる。
下を見ると、全開になった竜の顎が闇全体の空気を一息に飲み込まんとするかのように吸引を行っていた。竜の息吹は炎となり、あるいは暴風となって山の木々を焼き、あるいはなぎ倒して更地にする――。そんな描写を、おとぎ話では何度も目にした。
マーガレットを吸い込まんとするあの顎の呼吸は、それらの威力を十分に裏付けるほど強力で無慈悲なものだった。このままでは、重力と風力に負けて下に落ちてしまう。
そうなれば、後に待ち受けるのは完全な無だ。
「アル、テナぁ……!」
「諦めないで、マーガレット! 必ず助けるから!」
アルテナはこんな時でも弱音を吐かない。マーガレットとてここで終わってしまうのは絶対にごめんだった。
だが状況は果てしなく厳しい。マーガレットを掴んだままでは、アルテナもまともに動けない。かといって上に引き上げることも出来ないという有り様だった。
突破口を見いだせず、ジリジリとアルテナの手からマーガレットがずり落ちていく。
『さっきあの時計塔で俺は言ってやったよなぁ、マーガレット。 〝望み通り、色々なしがらみから解放して自由にしてやる〟ってよ。その方法がこれだ。永遠の虚無に落ちちまえば、もう何も悩む必要はなくなるぜ。だからもう考えるな、黙って流れに身を任せろ』
闇の底から【堕天使】が語りかけてくる。今までのような感情的な言い方ではなく、聞き分けのない子供を諭すかのような甘く優しい含みを伴った口調だった。
まさに悪魔の誘惑だ。マーガレットの苦しさを見通して楽にさせようとする、悪意の囁きだった。
これに乗ってはいけない……! 改めて言われるまでもなく、そんなことはマーガレットも身に沁みている。
だが苦痛に軋む身体に、あの悪魔の声はどうしようもなく甘美に響いてしまう。心ではなく、身体があの誘惑に屈したがっている。
果たして自分の精神力でいつまで保つのか。不安と苦悩が頂点に達しようとした時だ。
「……いえ、待って。……契約? そうか、それなら……」
不意に、アルテナが何かに気付いたようだった。考えを巡らせるように瞳を左右に動かしてから、下で揺れるマーガレットに視線を向ける。
「マーガレット、わたしを信じる?」
策が定まったという眼差しだった。