黒い竜②
「な、なにあれ!? まさか、ドラゴン……!?」
マーガレットは自分の目を疑った。自分達を追って現れたそいつは、間違いなくおとぎ話に出てくる伝説の幻獣そのものだったのだ。
漆黒の体色に真紅の眼、胴体を越すサイズを誇る大翼に長い尾、そして鋭利な牙を何本も覗かせる顎に太く強靭な四本の脚――。それらはいずれも人の形を保っておらず、完全に爬虫類のそれである。
これが、あの【堕天使】だと言うのだろうか?
「貴様ら、逃げられると思うなよ!」
黒いドラゴンがこちらを睨み付けながら言葉を発する。声のトーンは比べるべくもなく重厚で威圧感あるものとなっているが、その言い方は間違いなく【堕天使】のものだった。
「大仰な変身を遂げたわね。男の子の理想を体現したつもりかしら?」
アルテナは動じることなく大鎌を構えてドラゴンに相対している。赤黒い空に浮かぶ真紅の月を背負って羽ばたく黒い巨獣は、そんなアルテナを見下ろしてせせら笑った。
「俺のこの姿を前にしてまだ虚勢を張れるとはな。汽車を奪って突撃してきたことといい、大した小娘だ。我が眷属を尽く討ち滅ぼしてきたのも頷ける」
「お褒め頂きどうも。けど、あなたを守るものはもう無いわ。覚悟を決めなさい、裸の王」
「図に乗るな。如何に貴様が月の女神の寵愛を受けようとも、小娘一匹に討たれるほどこちらは衰えていない。ましてやこの地は我が城、貴様らがどれだけ足掻こうと俺の手の上から逃れることはできん」
「随分と余裕なのね。堕ちたとはいえ、天使の傲慢さだけは喪っていないってことかしら?」
「まだ分かっていないようだな、小娘。俺は全て知っているぞ。貴様の出自も、祖先の業も。【魔女の系譜】は、今の世でも脈々と受け継がれているようだな」
「…………」
アルテナは黙った。マーガレットからは彼女の表情は見えないが、その背中からは焦りと怒りの感情がにじみ出ているような気がした。
何も言わないアルテナを前にして、ドラゴンは勝ち誇ったように笑う。
「神などと、それもヘカテーのような性悪と契約を結ぼうとしたこと自体が大いなる誤りなのだ。だから魔女狩りなどという憂き目に遭う。あの男は――貴様からすれば祖父にあたるか――は、身を持ってその愚かさを知った。だから自らの復讐に邁進するに当たって、俺の力を求めたのだ」
「なんですって……!?」
アルテナが息を呑むのが分かった。黒い巨獣の威圧感を前にしても毅然としていた彼女の肩が、大きく上下し始める。激しくなっていく呼吸の音が、マーガレットの耳にもしっかりと届いた。
「まさか……まさか、あなたがあれに関与していたというの……!?」
「不思議か? 考えれば当然の帰結だろう。太陽神アポロンの力を宿した神の石を、誰が呪いの源泉に転用させ得たと思うのだ? 【魔女の系譜】とはいえ、たかがひとりの人間ごときに神の力の片鱗をどうこう出来るわけがないだろう。ヘカテーの加護で魔術を行使するのとはまるで違う。月の力の理から外れた神秘を、あの男は求めていた。それを穢し、呪いの力とする秘術を必要としていた。【魔女の系譜】が忌み嫌われる要因は、〝悪魔と通じている〟という思い込みが主だったが、皮肉なことにあの男はそれを体現してみせたのだ」
「そんな……そんな……!」
アルテナは前後不覚に陥っていた。呆然と立ち尽くし、構えていた大鎌も今は力なくだらりと垂れ下がった腕に握られているだけだ。
「アルテナ、しっかりして!」
マーガレットは肩を掴んで必死に呼びかける。それでようやく、アルテナは我に返ったようだ。しかし、顔面は蒼白で血の気がない。震えながらマーガレットを見つめる目が、まるで縋るかのように力ないものに見えた。
「丁度良い、貴様らに相応しい余興を思いついた。あの男が望み、完成させた呪いの業を貴様らにも味わわせてやろう」
ドラゴンが嘲りを込めた咆哮を上げ、その大翼を限界まで押し広げる。
すると背後の紅い月がたちまち闇の色に染まり、世界の全てを覆い始めた。




