マーガレットの契約①
「こ、来ないでっ!」
マーガレットは逃げ場を求めて石段の上を走り回った。
「何処に行こうってんだ? どうせ逃げられやしないのに」
【堕天使】は、そんな彼女をいたぶるようにジリジリと後を追ってくる。心の底から愉しくてたまらないとばかりに、その顔には残虐な笑みが浮かんでいた。
猟犬に追い立てられるウサギのように、マーガレットは姫墻に縋り付く。しかしその先にあったのは……
「う、そ……!?」
遥か下に見えるリヴァーデンの街並みと、姫墻から真下に伸びる高い壁だった。
どうやら此処は、塔の頂上か何かのようだ。
「現実が分かったかな? 無駄なあがきはやめて、大人しくお前の魂を差し出せよ」
一歩一歩、【堕天使】がマーガレットとの距離を詰めてくる。彼女の恐怖と絶望を煽るかのように、その動きはひどくゆっくりだ。
「諦めるんだな。契約を交わした時点で、逃れる道は無い。気高い貴族様なら、往生際も美しく構えてろよ」
「ひ、卑怯よ! 私の望みはまだ叶ってない! あなたはまだ、契約を履行したとは言えないでしょう!?」
黙ってこいつに魂を取られるなんて冗談ではない。マーガレットはなけなしの怒りと勇気を振り絞って、眼前に迫りくる悪意の権化と対峙しようとした。
「私は確かに願ったわ! あなたを呼び出し、〝自由を与えてくれ〟って! この街に来る時の汽車の中でもあなたは言ってたじゃない! この街で私の望みが叶えば良いと、確かにね! それはどうなの!?」
マーガレットは、今やはっきりと思い出していた。このリヴァーデンに自分が迷い込む切っ掛けとなった出来事を。
あの婚約話が出た後、偶然にも見つけた悪魔学の本を読んだマーガレットは、人知れずそれにのめり込んだ。
悪魔という存在がどういうものか、知識としては学んでいた。毎週家族総出で出向く教会でも悪魔についての講釈は時々行われていたし、家庭教師による聖書を元にした講義でも触れられていたからだ。現在では馴染みが薄れつつあったとはいえ、まともな人にとって悪魔はやはり嫌悪と恐怖の象徴だった。
しかしあの時のマーガレットからは、そのような教えなど吹き飛んでいた。
相応の対価さえ差し出せば、どんな願いでも悪魔は叶えてくれる。望まぬ結婚という人生の一大事に直面したマーガレットにとって、その誘惑は実に抗いがたい魅力を伴っていた。
ノーブレス・オブリージュだ親の恩だ恵まれた暮らしの代償だといくら綺麗事を並べてみたところで、結局のところマーガレットも自分が可愛かったのだ。
本気ではなかった。一時の現実逃避に過ぎないと頭では理解していることだった。それでもマーガレットは一縷の望みを胸に、本に書かれてあった通りに召喚の儀式を整えて実行した。
だから、床に描いた魔法陣が怪しげな光を放ち、触媒として用意した牛の心臓が破裂して血膿を撒き散らした時はひどく仰天したものだ。
そしてこの男が……今、目の前であの時と同じ笑みを浮かべている【堕天使】が、牛の血溜まりの中から浮かび上がるように現れた。
――俺を呼び出したお前の望みは何か?
腰を抜かしてへたり込むマーガレットに向かって、【堕天使】はこう尋ねた。
そこでマーガレットはようやく我に返り、恐れを振り切って望みを吐き出した。
『私に自由をちょうだい! 色々なしがらみから解放されて、自分の好きに生きられる自由を!』
――良いだろう。しかし対価は必ず支払ってもらうぞ。お前の魂だ。代替は利かない、例外も認めない、それでも良いか?
『構わないわ! この息苦しさから解放されるなら、どんな対価だろうと差し出すわよ!』
――人間よ、契約は成立した。
……そこで記憶は途切れ、気がついたらあの汽車に乗っていたのだ。
軽率だったと、今では後悔している。本当に悪魔を召喚できたことに驚き浮かれて、後先を考えなかった。
この男が言った通り、リヴァーデンに来たのはまったくもって自業自得だ。自分の不始末は、自分で責任を取らなければならない。
しかしそれは、このまま黙って悪魔に魂を差し出すことではないのだ。