婚約③
それからのことは、あまり覚えていない。悪夢のような時間だったということだけが、実感としていつまでも胸の底でくすぶり続けている。
パーティが開け、ようやく部屋に帰って来た時、マーガレットはその場に崩れ落ちた。
「ひどい……! こんなの、あんまりよ……っ!」
嗚咽が堪えきれず、涙は後から次々と溢れてくる。
貴族の娘としての責務は分かっているつもりだった。いずれは何処かに嫁に出されるであろうことも、覚悟はしていた。
今の御時世、貴族という肩書などほとんど有名無実だ。ウォレス家が今でも裕福でいられるのは、ひとえに新時代に適応しようと努力し続けてきた両親の力によるものである。何不自由ない生活を与えられた恩には、報いなければならないとはマーガレットだって思っている。
しかし、いくらなんでもこれはあんまりだ。容姿の醜さだけではない。あのファルティーニの息子は、マーガレットなど初めから眼中にないかのように振る舞っていた。挨拶のひとつすら、最後まで返してはくれなかったのだ。
あんな男に嫁いだところで、上手くやっていけるわけがない。金さえ手に入れば、娘の結婚に愛が無くても構わないというのだろうか。
夜通し部屋で泣き明かし、気がついたらベッドで横になっていた。窓の外を見ると、彼方の空が僅かに明るい。今はまだ夜明け前といったところだろうか。
マーガレットはベッドから身を起こし、乱れた髪を整えた。そうすることが出来るくらいには気持ちに余裕が戻ってきているようだ。
「ん……?」
ふと部屋に置いてある書架の方を見ると、薄明の空に残った月から差し込む光がまっすぐそこへ差していた。
なんとなく気になって眺めていると、一冊の本が目に留まる。月の光を一身に浴びて、キラキラと輝くような鮮やかな装丁をした本だった。
書架からそれを抜き出し、表紙を見てみる。
「『望みを叶える外法の存在。悪魔とは何者なのか』……。こんな本、うちにあったかしら?」
普段から本は読んでいるが、マーガレットが今手にしているそれはこれまで見たことがなかった。母か誰かが買い足して置いたものだろうか。
しかしそんなことはどうでもよく、マーガレットはその表題に目を惹かれた。
望みを叶える――。今はとにかく神にも悪魔にもすがりたい思いだ。降って湧いた不幸な結婚話から、自分を遠ざけてくれるなら何でも構わない。
もちろん、そんな気持ちは本気じゃなかった。ただ、現実逃避くらいはさせてほしい。
マーガレットはその本を手に取り、夢中で読み始めた。
そして――
………………。
…………。
……。
「私は、悪魔を呼び出す方法を知った――」
自分の呟きで、マーガレットは目を覚ました。
慌てて身を起こすと、あの赤黒く染まった禍々しい空が一面に広がっていた。そこは開けた場所であり、四方に姫墻が配された石段の地面に自分は寝ていたようだ。
「此処は……?」
「やっと起きたか、マーガレット」
背後から声がしてマーガレットは震え上がった。恐る恐る振り向くと、予想通りの邪悪な笑顔がそこにはあった。
「夢での回想は上手くいったかい? どのようにして俺と出会ったか、これで思い出しただろう?」
端正な顔をこれでもかと歪め、【堕天使】は喉の奥で笑った。